- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087205619
作品紹介・あらすじ
「煩悩なくして生命なし。必ず生きる…必生。この大欲こそが、大楽金剛です。すなわち、煩悩は生きる力なのです」。自殺未遂を繰り返し、尽きせぬ生来の苦悩の末に出家。流浪の果てにインドへ辿り着いた佐々井秀嶺。かの地で文化復興運動にめぐり会い、四〇年以上にわたりこの運動に身を捧げてきた。現在ではインド仏教徒の指導者として活躍する破格の僧侶が、波瀾万丈の半生と菩薩道、そして"苦悩を超えていく生き方"を語り下ろす。
感想・レビュー・書評
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佐々井秀嶺は、日本の総人口よりも多い約1億5千万人のインド仏教徒から上人様と呼ばれる、インド仏教運動のリーダー。故ラジブ・ガンディー首相からインド名、アーリア・ナーガールジュナを贈られた人物である。
日本を離れて44年。2009年に帰国した荒法師がみた現代日本を活写した聞き書きノンフィクションの秀作だ。
日本ではインド経済の勃興が華々しく伝えられているが、インドという国がどういう成り立ちをしているのかという報道は少ない。インドにかぎったことではないが、日本人は海外情報に関心が薄い。僕も、カースト制度があり、その激烈な差別と比較したら、日本国内の差別などあってなきがごとし、という理解があったくらいだ。
そのカースト制度を支えているのが、ヒンドゥー教である。インドは仏教発祥の地だが、現代インドはヒンドゥー教が浸透しており、仏教の力は衰退している。その仏教を復興している男が、インド人僧侶ではなく、日本人の僧侶、佐々井氏である。
若くして生きることに悩み、自殺未遂3回の経験をもった僧侶。タイ留学を経てインドでの布教活動にはいる。宗派にこだわることなく、仏教を学んだ。インドの地で、カースト制の最下層である不可触民出身のアンベードカル博士を知る。博士は、1956年不可触民約30万人とともに、ヒンドゥー教からの集団改宗を挙行した人物。インドに仏教復活宣言をした革命家である。世界史に名をとどめるガンジー以上に、インドの闇を知り、それに光を当てようとしていた。しかし、若くして急逝。インドの仏教運動は足踏みをしていた。そこに現れたのが佐々井氏である。博士の偉業を知り、その後継者たらんと活動をはじめ、いつにインド仏教界のリーダーとなった。
その佐々井氏は、日本に帰国して、日本の仏教者たちが、座禅のような浮き世離れした修行と、こまかい教義の違いで宗派に別れていることに怒る。毎年3万人の自殺者が出る日本という国に怒る。
インドの仏教は、ヒンドゥー教と闘いを経て再生している。ゆえに「闘う仏教」である。その闘争の場には、瞑想や座禅という修行はない。被差別民衆を救うために、社会活動あるのみである。
社会問題と闘う姿勢は、現代日本では一部のキリスト教信徒に見られるだけになっている。日本の仏教は葬儀と座禅と、こまかい宗派ごとのたこつぼ業界になっている。嘆かわしいことだ。これは今に始まったことではない。明治時代のハンセン病患者の救済活動に奔走したのは、外国からやってきたキリスト教徒だった。社会運動に立ち上がらない、鈍いという体質は、仏教界にまだ残っている。
佐々井氏は、日本の禅道場に集まった300人の修行僧のまえで「さあ、皆さん、立ち上がってください!」と獅子吼した。
「今の今を見ることです。死後の世界など関係ない。今ここで、人間と人間がいかに仲良く、いかに尊重し合えるか。そして互いを認め合い、平和で平等な世界を築いていこうとするのが仏教。瞑想に浸ってばかりで現実の他人の痛みに目を閉ざしてはいけないのです。大乗か小乗かなど関係ありません。ましてや、宗派にこだわっている場合ではない。さあ、皆さん、立ち上がってください!」
僕は仏教に関心をもってきた。佐々井氏の存在を知ることで、またひとつ仏教への距離が近づいたことをうれしく思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
過酷な人生のなかで、インドで本当の仏教を伝え続けたいる聖人。心が震えます。
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心の平静を求めるというイメージがあった仏教に、「闘う」というタイトルが意外だったので、読んでみました。日本人がインドの仏教の最高指導者になっている事、教科書では「もう殆どインドには仏教徒は居ない」と教わったのに反して、今凄い勢いで増えている事など、驚きの数々でした。そして、主人公の波乱に満ちた生き方も、まるで小説のようですが、もちろん実話です。
生きるのも死ぬのも苦、じゃあどうすれば良いの?という問いに、主人公が見つけた答え「必生」を、読んで確かめてください。 -
仏教に出会い仏教に苦悩し、仏教で救われ、仏教で闘う姿に感涙。波乱に満ちた佐々井氏の人生と、生き方から学び感ずることはあまりに多い。アンベートカル氏の伝記を読んでからのこの本は、インドのカースト社会を知るうえでも衝撃だった。仏教に対する興味がとまらなくなる。
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今の今を見ることです。死後の世界など関係ない。今ここで、人間と人間がいかに仲良く、いかに尊重しあえるか。そして互いを認め合い、平和で平等な世界を築いていこうとするのが仏教。放っておいてもいつか必ず人間は死ぬ。だから死に執着してはいけない。死ぬのが当たり前ならば、生きていることの方が逆にめずらしく、奇跡であり、個性である。
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第四章『必生』★5
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[ 内容 ]
「煩悩なくして生命なし。
必ず生きる…必生。
この大欲こそが、大楽金剛です。
すなわち、煩悩は生きる力なのです」。
自殺未遂を繰り返し、尽きせぬ生来の苦悩の末に出家。
流浪の果てにインドへ辿り着いた佐々井秀嶺。
かの地で文化復興運動にめぐり会い、四〇年以上にわたりこの運動に身を捧げてきた。
現在ではインド仏教徒の指導者として活躍する破格の僧侶が、波瀾万丈の半生と菩薩道、そして“苦悩を超えていく生き方”を語り下ろす。
[ 目次 ]
第1章 仏教との出会い(発心;世紀の苦悩児 ほか)
第2章 大楽金剛(ナグプール;アンベードカル ほか)
第3章 闘う仏教(闘う仏教とは;インド国籍を取る ほか)
第4章 必生(四十四年ぶりの帰国;高尾の緑 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
どうも、私の中では、市井における現代のお坊さんというのは、その言葉に重みはなく、高級車を乗り回し、形骸化していて信用ならぬ存在である、という思いが子供の頃からあった。同じように財力と権力によって発展してきたキリスト教には、その一方で、一キリスト者における善き行いも数多く見いだすことが出来、日本においても弱者を救済するのはキリスト教団体であったりする。日本に数多く存在するはずの仏教者は、宗教者として人を救済しているのだろうか?、と。そんな思いを抱いていたのだが、このような形で仏教活動をする師に深く心を揺さぶられた。
彼はヒンドゥー教が圧倒的多数派であるインドにおいて、仏教復興運動とカースト解放運動を率いる、"社会派"仏教者で、現在はインド国籍である。なぜインド全土で闘いに身を投じているのか、そこに至るまでの恋愛や生の苦しみに深く悩んだ等身大の生い立ちに共感を覚えた。一人の人間としての弱さを乗り越え、渾身で会得し、暗殺されかけながらもインドで繰り広げられる生きるための教えには力がある。「必生」とても良い言葉を知った。
彼が44年ぶりに帰国した際に、日本社会と仏教界にもった印象には、共感した。葬式は仏教式、という家の方にはぜひ本書を読み、仏教とは何か考えて貰いたいと思った。 -
インドに帰化して40年以上インドで生活している僧侶の話。すごい人生があるものだ。
インドのカースト社会では、向上心を持たないのではない。持つことを許されない人たちがいる。夢や希望を生まれた血筋だけを理由に根こそぎ奪われた人たちがいるのだ。
不安はどこにいても何をしていても必ずつきまとうもの、なにかにしがみつこうとするから不安になる。何もしなければ失うものもないはずだ。
アンベードカル氏というカーストと闘った勇敢な人がインドにもいたのだ。
小さき我が溶けて大いなる我と融合し、大いなる我が小さき我を包みこむ。
人間、生きていれば、自分は今までこういうことをしてきた、これだけのものを手に入れrたと我執にとらわれ、自意識の皮で身を守ろうとする。
私たちがこの世に生まれたのは、宇宙の欲の結果。
自殺をしたいなんて思ったら、考えてほしい。放っておいてもいつか必ず人間は住む。だから死に執着してはいけないのだ。生きていることが逆に珍しいのだ。
苦行とは人生とは、自己との戦い。他人がどう評価するかは、二の次。むしろ戦いを捨てた生き方こそ批判にさらされるべき。