- Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101036021
感想・レビュー・書評
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大野晋の本を読むのは日本語練習帳以来だ。
タミル語と日本語の比較・検討部分が本著にはあり、実はこちらがメインなのだろうが、圧倒的に前半のほうが面白い。
日本人にとって神とは何か。神にとって神とは何か。それを説いている本だが、まず、『万葉集』のカミには「天皇」という意味の例が多数ある。カミ=天皇。
このカミは比喩ではなく、実際「領有支配する者」の仲間に入る例である。何か万物や自然に潜んでいる、ほんわかした、八百万ではなく、畏れられ、崇められたものがはっきりとある。
そして神とは、支配者なのだから、人間に何かを要求して、それに応じなければたたるものである。
この「神のタタリ」とは、神の怒りが自然の作用として沸き立つことをいう。領有者・支配者の怒りが現出すると、被支配者は傷つき、死に至る。現在でも病人が続いて発生したり、凶事が重なったり、事故が続発したりすると、タタリではないかという。それは「カミの腹立ち」の結果かと思うわけで、人はオハライをするわけだ。
その「ハライ」とは、自分の犯した過ちや罪・ケガレを払い捨てる行為であり、古代では犯罪者に強制して、賠償を提供させることであった。
そうしてカミの要求に応じるように、神を祭り、崇めた奉り、カミは奉献を受ける代償として、豊穣と安穏とを与える存在となる。
ちなみに、人々は罪を天地のカミに対する契約違反とは考えなかった。罪は勝手に犯すものであり、神の知るところではない。神は人間に食料を与えるという契約などは結んでいない。カミは道徳ではない。
では日本人にとって罪とは何か。それは、天つ罪(農業の妨害行為)、国つ罪(人間と動物の繁殖をさまたげる行為・出来事)である。
カミは罪について個人的戒律の違反を処罰することもない。風によって、川から海へ、海から地底へと罪をはらって行けば、それは失われるという。
神と人間との間で約束をとりかわし、その約束を守るという契約の観念はない。個々の人間が自分の約束・責任を果たすことによって仕合わせを得るという自己規律の観念もない。その裏には、人間は自然の成り行きとして生まれてきて、日本の自然の中でよしとされる明るい、清水のような心を持てば、食料が得られ、繁殖行為を営んで死んでいく。それをくりかえすところに世界があるとする日本人の考え方がある。神と日本は不思議にドライな関係なのだ。
この本における神道史のところも面白い。
神道には、社会にすでに確立されていたものと、体系的な説明を加えようとした意識的な産物の二つがある。
カミの役割に対して、飛鳥・奈良時代に経典として僧尼によって読誦崇拝されたのは、主として国王のための経典、金光明経、金光明最勝王経・仁王般若経である。その趣旨は祝詞による神々への祈願と本質的にほぼ同一であったため、神と仏は限りなく近づいていく。
平安時代に密教の理論を神道に結びつけようとしてできたのが、真言系統の説を扱った両部神道、天台系統の説を扱った山王神道。笑えるのが山王の名前の由来が、仏教用語の三諦(さんたい)で、山王という字の山は、縦三本横一本のかたち、王は横三本縦一本のかたち、よって三諦を統一的にあらわしているという、わけわからん論理だ。要するに仏教(または道教や儒教)の体系を神道にこぎつけているのが神道史だ。
鎌倉時代初期に財政基盤が揺らいできた伊勢神宮が、両部神道の影響を受けて、神道五部書を作成した。室町中頃からは吉田兼俱の吉田神道があり、この神道論は、本質的に何の関係もない陰陽五行に引き当てている。またそこに付せられた「神光」の意味は不明で、その数字も単に大きな数を挙げたもので何らいみあるものではない。
そういった外国の体系にまみれた神道から、本来の神道を探ろうとする学問が国学であり、国学史も本著に書かれてある。特に宣長の部分で、彼は、徂徠の学をくり返し学び、対比して、日本語として書かれた古事記を読んだ。宣長がそこでわかったのは、儒学で尊ぶ「道」とは、人の国を奪うためのもの、人に国を奪われないようにする用意の二つを指すということである。しかし日本の道とは素朴なもので、神は、生産と悪事とそれを直す力を持ち、ことごとしい教えは何もない。何もないのが道であるという。小林秀雄も、宣長の講演でここの部分を強調してしゃべっていた。また、このパラドックスについては、長谷川三千子のからごころに詳しい。
宣長の正直さで笑ったのが、天皇が三宝の奴として仕え奉るという文面にであった宣長が、そこを読みたくない、飛ばしたいと、続日本紀の注釈書を作る際に述べているところだ。
神、神道、国学について本著で学べるが、本領は、言語学である。というか国学は思想でもなんでもなく、本来は、言語学である。今使ってる言葉ってそもそも何なの?に応えることが国学であり、どこまで答えられるかの怖さとむなしさとおもしろさが「やちまた」なんかに書かれてある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
思索
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日本人が漠然と感じている神さまたちのことを、ああ、そうだったのかと、理解、納得させてくれる本。日本人が信じている「神さま」や「仏さま」がどのようなものか、どのように日本に根付き変わっていったかが書かれている。
Ⅵ章はタミル語関連の話。私のような一般人には興味がなくまた理解できなかった。 -
日本語タミル語起源説の著者が 神概念から 日本人のルーツを探ろうとした本。ルーツを探る意味は 日本人と 異国との繋がり、共通性を知ることにあると思った
さらっと凄いことが書いてある。本居宣長 後の日本人論は 何となく知っていたが、宣長 以前の推移は 知らなかったので、驚いた
宣長以前
*仏は神の一種。仏という神がいる→仏と神が融合→仏の救済という観念が 神の意味を変えた
*中世までの神道は 神の概念に 仏教の体系をもたせたもの
*近世に 神と仏を 中国の儒教によって 切り離そうとした -
大野晋『日本人の神』(新潮社、2001)を読む。
東大国文出身で学習院教授を務め、日本語の由来研究で知られる著者が日本における「カミ」の変遷に迫ったもの。
カミの語源、観念からホトケの輸入、神仏習合、国学におけるホトケの分離、Godの輸入、「カミ」という切り口で古代から現代までの日本文化の発展を追っており、たいへん興味深い研究です。(当時のはやりなのかはわかりませんが、古代日本語とタミル語の類似性についてもかなりの紙幅を割いておられます)
【本文より】
◯人々は罪を天地のカミに対する契約違反とは考えなかった。そもそもカミと人間とは契約によって結ばれたものではない。カミは人間に食糧を与えるという契約などは結んでいない。カミは奉献を受ける代償として、豊穣と安穏とを与える存在だった。
◯ここには行為についての「個人」としての自覚は全然問われていない。カミは罪について個人的戒律の違反を処罰することもない。風によって、川から海へ、海から地底へと罪をはらって行けば、それは失われると説いている。
◯ここにはまた、神と人間との間で約束をとりかわし、その約束を守るという契約の観念はない。個々の人間が自分の約束・責任を果たすことによって仕合せを得るという自己規律の観念もない。その裏には、人間は自然の成り行きとして生まれて来て、日本の自然の中でよしとされる明るい、清水のような心を持てば、食糧が得られ、繁殖行為を営んで死んでいく。それを繰り返すところに世界があるとする考え方がある。
◯日本の神話では、天地万物の他に、命令を下してそれをこの世にあらせた神はいない。混沌の中に大地が自然に出現し、その泥の中に葦の芽が芽ぶくように生命がなり出た。 -
日本の『神』の認識の変化を仏教渡来前、渡来後、キリスト教渡来後と時代を追って変わる様を提示し、本来の日本の神と言う言葉のルーツをタミル語に求める本。
興味深かったがタミル語と日本語の類似を挙げる章はもっとシンプルでも良かったのでは?と思う。
この章の長々とした比較で面白味が一気に引いてしまった。 -
いつ買ったんだこれ。
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日本語の「神」は文字としてどう定義されるか?
それを調べるには大変な労力を要し・・・。
神を歴史背景から、「キリスト教以前」・「仏教徒の関係」・「仏教以前」と一通りの説明を果たし。
文明とは何ぞや?という切り口から「言葉の発音」と「それらの行動原理」が一致する物を選定しておられます。
日本の神に対するルーツを描く一つの決定打となる一冊かも。
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神様のルーツを探る旅。