- Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123189
作品紹介・あらすじ
戦時下の弾圧の中で信仰につまずき、キリストを棄てようとした小説家の「私」。エルサレムを訪れた「私」は大学時代の友人戸田に会う。聖書学者の戸田は妻と別れ、イラスエルに渡り、いまは国連の仕事で食いつないでいる。戸田に案内された「私」は、真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。そこで「私」が見出し得たイエスの姿は?愛と信仰の原点を探る長編。
感想・レビュー・書評
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死海のほとりでイエスの足跡を辿る現代の旅と、イエスが迫害されゴルゴダの丘で処刑されるまでの過去の物語を交差させながら、奇跡の人ではない新しいキリスト像を提示しています。
弱者のそばに寄り添いともに苦しむことしかできなかったイエス、しかしそのことは常人にはできないことであり、苦しみを抱えた人たちにとって大きな慰めであったのは間違いないと思います。
この小説は、遠藤氏ご自身が一生を掛けて答を求め続けた「信仰とは何か」という問いかけと氏が到達したそれへの答が示されているのだと思います。圧倒的な文章力できわめて構築性の高い物語が形作られています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『沈黙』で有名な、遠藤周作の小説。
啞に口を開かせ、盲に見えるようにし、死んだものを生き返らせ。あるいは圧制者から自分たちを解放させる。そのような「奇跡」への人々の渇望。
このような日々の直接の即物的な苦痛から解放させる業こそが奇跡と呼ぶことを認められるのであれば、きょうび、自分らが生きているこの生活状況などは奇跡の恩恵そのものとも見えてくる。病による意識の混迷、うわごとなどが悪霊の仕業と人々がみなが恐れ、家族でさえその病人をほとんど見放すようにして隔離した時代である。当時のユダヤ人にとってみれば、現代の科学、医療技術などほとんど魔法に見えもしよう。だれが、この現代の(すくなくとも日本の)日常にあるような快適、あるいは安心を予想したか。
しかし、そのような神話のようにして伝承され当然懐疑の的ともされるべき、いわゆる「奇跡」、これがイエスと言う男の偉大さを保障するものであるとみなすべきか。
否。イエスの偉大さはそんなところにあるのではない。技術でもってとって替えられるようなそんな効用に応えるべく期待された(期待される)「奇跡」などに、ということはできない。
ではどこにそれは。
…愛に。
あぁあと思わず赤面してしまいそうな。歯が浮き上がるこの言葉。ではあるがしかしやはり、
あの誰も救うことのできなかった愛にこそそれはある。
人々が落胆した「毒にもならぬかわり、薬にもならぬ(p.294)」、そんな無力な愛に。そこにイエスの偉大さがある。
愛などただ感傷的なたかが感情にすぎぬと、人は言うか。
違う。イエスの愛はそれとは違う。なぜか。感傷は、痛みへの陶酔、もろい持続せぬ快楽の感情でしかない。それゆえ感傷は、外からやってくるそれ以上の圧倒的な負荷に耐えることはとうていできない。なるほどイエスの愛は、優しさは、たしかに何の役にもたたぬ、もっとも非力なものであったと一面では言うことができる。しかし、その愛は、空腹に耐えた。流血の痛みに耐えた。残忍に耐えた。嘲笑に耐えた。無理解と裏切りと孤独に耐えた…そして、死に耐えた。イエスは愛を、文字通り命をかけて、人々の前に示した。
なぜ、あれほど無力で弟子にも見捨てられたイエスが死後、神の子と見られるようになったか。
それは、イエスが我々の人生を横切るから、に他ならない。
イエスと言う一つの生命が現象したこと、すなわち神のはかりしれない愛の現象であった、彼の生それ自体が、奇跡であり神秘であった。
…というようなことを、おもわず納得してしまうような、そんな小説だった。いやはや。以下引用。
(イエス)「わたしは……一人一人の人生を横切ると申しました」
(ピラト)「それでは、私の人生も横切るつもりか(…)そして私の人生にも、お前の痕をつけるのか(…)だが私は、お前を忘れることができるぞ」
「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
「なぜ」
「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」(p.211) -
当時のイエスと、信仰を失った男がイエスを追って巡礼を行う2本の話が交互に組み込まれる。
小難しい表現の一切を排した清潔で静かな物語だが、『沈黙』のような登場人物の胸に迫る信仰への問いや想いをもっと感じたかった読後感。 -
とてもよかった。
沈黙、海と毒薬、深い川、白い人、黄色い人をこれまで読んできての本作。
遠藤周作の考え方、向き合い方がだんだんとわかってきて、それでもまだ途上にいるんだなという感じがすごく伝わってきた。
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[希求の末に]近くに赴いたついでにエルサレムに立ち寄った著者は、大学時代から聖書を研究していた戸田に案内を依頼する。キリスト教に対する熱度は往時の頃と比べて衰えながらも、イエスの足跡を必死に探す著者であったが、戸田は行く先々で皮肉な笑いとともにその思いを跳ね返してしまう......。エッセイ的記述に聖書の物語を挟み込んだ作品です。著者は、本書をしてもっとも「その人らしい」と言われる遠藤周作。
遠藤氏が抱え込んでいた霧がかった心情を把握するために極めて適した一冊だと思います。個人的には遠藤氏はキリスト教の教え(特に無償の愛という点)そのものには共感を抱きつつも、現世に見られる数々の問題に対して人一倍の敏感さを備えてしまったが故に、その教えを最後まで信じきれなかったのではないかと。どこまで普遍化できるかは判然としませんが、遠藤氏の問題意識は極めて「日本的」「近代的」と言えるのではないでしょうか。
純粋に物語として引き込まれることができるのも本書の魅力の1つ。人間の弱さを見せ続ける「ねずみ」と呼ばれた人物に関するエピソードは読む者をして深い思索に誘ってくれるはずです。なお、本作は『イエスの生涯』という作品と裏表をなしているのですが、個人的には『イエスの生涯』を読んだ後にこちらを読むことをオススメします。
〜付きまとうね、イエスは。〜
(涙を誘うものではなく)じーんと来る読書でした☆5つ -
イスラエルツアーで一緒になったひとに薦められた本。実際に行った土地が舞台なので、とても読みやすかった。時期も合っていたのでますます。漠然と疑問に思っていたキリスト教についての取っ掛かりになる。
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教会の聖地巡礼に持っていった本。
10日間でガリラヤ湖畔からエルサレムを回りました。
かなり昔の話。今は危険で行かれないと思う。
持って行ったのはいいけど、現実のイスラエルに圧倒されてほとんど読めなかった。
帰ってからゆっくり読みました。
あてくしは戸田のような強い信仰は持ったことないので(持てよ!)、どっちかというと主人公に共感して読んでました。
この本もそうだけど、遠藤周作のイエス像はいつも、聖クリストファーの逸話(汚い乞食の爺さんが歩けないので背負ってほしいといって、聖クリストファーは嫌なんだけどあまりにしつこいのでしょうがなく背負って歩いたら、爺さんがキリストに変容する)を思い出させます。
クリストファー⇒キリストを負う者。