- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101420219
作品紹介・あらすじ
ここにいるのは、特別な女の子ではありません。もしかしたら自分だったかもしれない「もう一人のあなた」です。渋谷、ゲーセン、援交、カラオケ-。青春を謳歌しているイマドキの女子高生かと思いきや、実は重度のリストカット症候群をしてクスリマニア。行間から溢れ出る孤独と憂鬱の叫びが、あなたの耳には届くでしょうか。死に至る三ヶ月間の過激にポップなモノローグ。
感想・レビュー・書評
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私のことを
私が消えて
私のことを思い出す人は
何人いるのだろう
数えてみた
…
問題は人数じゃなくて
思い出す深さ
そんなことも分からない
私は莫迦
鈍い痛みが
身体中を駆け巡る (P.15)
怖いのです。何にもなれない自分が、情けなくて申し訳なくて五体満足の身体を持て余していて、どうしようもない存在だということに気付いて存在価値が分からなくなりました。ー所属する何かがないと、私はダメになってしまうようです。(P.298)
手首を切ったり、薬を飲んで自分を保っていたあやさん。それが彼女の生きやすさであり、ステータスであったのかもしれない。誰かに見捨てられる、見放されることに恐怖を感じ、自分では自分の頑張り、心を労わってあげられない。学校をサボったり、用事に遅れたりしているけれど、心の奥底は真面目な人なのかなと思った。彼女が死のうとして生きているのは偶然だったのか、必然だったのか。彼女の性格からして、早死や自殺は避けられなかったのかなとも思ってしまった。この世を去ることで、自分という存在を記憶の中の存在にする。これが彼女が望んだことだったのかな。不安や自己肯定感皆無に近い時は、私も薬を飲んで死んだように眠りたくなるので、気持ちがわかる気がした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ここにいるのは、特別な女の子ではありません。
もしかしたら自分だったかもしれない「もう一人のあなた」です。渋谷、ゲーセン、援交、カラオケ――。青春を謳歌しているイマドキの女子高生かと思いきや、実は重度のリストカット症候群にしてクスリマニア。
行間から溢れ出る孤独と憂鬱の叫びが、あなたの耳には届くでしょうか。死に至る三ヶ月間の過激にポップなモノローグ。精神病院入院体験などをインターネットで公開しネットアイドルとして人気だった南条あやが、残したネット日記を書籍化。
リストカットやオーバードーズにハマった理由、正しさを押し付け今の自分の状態を受け入れてもらえない被害妄想が激しい双極性の父親との関係、なによりも読む人の期待に合わせて明るく自分のメンヘラ具合を面白く語る中で見える自分が穏やかな日常を生きられないことの不安と絶望感や「南条あや」でしか生きられない閉塞感が見える荒削りなノンフィクション。 -
大好きな本の仲間入り。
彼女の苦しみ、リスカを楽しみながらするところや、クスリマニア。とても自分に近いと感じました。
あんなに明るく綴っているけれど深い闇を感じる内容。 -
昨日のこのくらいの時間帯にkindle版を購入し今日の昼くらいまで一気に読み通しました。
冒頭の4編の詩は死への覚悟を感じさせるに足りるものです。しかし、情報が正しければ、彼女が3月30日に服用した向精神薬の量は致死量に満たないものだったとのこと。これだけの知識を持った彼女がそこを図り違えることはないと私は思います。あるいは自らの体調不良を感じ、このくらいの量を服用すれば・・・と推定でその量を選択したとしても、死に導かれる選択を確信のもとに彼女がとったとは思えません。
終止符を打つという意思と行動とそれを躊躇する選択を想います。
心臓の弁に穴が空いていたことが結果としての死因に結びついたのが事実だとすれば、それは彼女がそう命を運んだことの結果だったのではないか。私は彼女の祈りが通じた結果なのだろうと想います。彼女は自らの命を運に預けたのだろうと。
真実はわかりません。強い意思を持って臨んだのか。安らかに微笑みを浮かべて逝ったのか。途中恐怖を感じ後悔をしたのか。寂しさがあったか。悲しさがあったか。喜びがあったか。
「私はいつでも追いかけられている・・・・自分自身に」
自分を苦しめる自分を止められるのは自分しかない。
自分を苦しめる自分を救えるのは自分しかいない。
それは人への絶望であるとともに申し訳なさでもあり、自分への憐れみと攻めだったことでしょう。
親も友人も教師も医者もみんな自分を想ってくれている。
幸せも願ってくれている。
自分を救ってほしい願いと救おうをしてくれている他人と救ってもらえない絶望と本質的には他の誰かの問題ではないと自覚している自分と。
彼女が抱えていたのは病気ではなく孤独。
彼女は柵の外から世界を眺めていた人の一人だったように思います。
その柵の外から中に入ろうという気持ちはあったのでしょうが入れない。「こっちへおいでよ」と柵の中から手を伸ばしてくれる人に感謝を覚えながらも入りきれない。そんな自分が好きでもあり忌々しい存在でもあったのだろうと想います。
様々な考え方があっていいと思います。
彼女を救って上げるには何をすればよかったのかと考える人がいてもいい。
もうこんな悲しいことが起きないようにどうすればいいかを考える人がいてもいい。
そんな途方も無いことは考えられないからといって、せめて彼女の意思を掬って上げることを考える人がいてもいい。
私は彼女に「あなたは素敵だ」とそう伝えたい。
救うためでも死んでもらわないためでもない。
私は彼女の正直さを素敵だと思うからです。 -
何度も、何度も読んでいます。
辛いときはこれを読みます。
自分より辛いだろうあやさんが、こんなに明るくがんばっている。
わたしも頑張ろう!と前向きになれる本です。 -
身近に南条あやそっくりな日記を書く友人がいます。
彼女を思い出しました。笑
文才があるって言われているけど、どうなんだろう。
おもしろおかしく書くという点ではすぐれているのかもしれませんね。
なかなか自分を客観的にみれていない、精神的に思いっきりおこちゃまだったからこそ、起きていた葛藤や精神的辛さかな、と思う部分が多かったです。
しかし自分も少なからず彼女のような思考回路に至る感覚が理解できます。
彼女の父や恋人、Aちゃんの現在が気になります・・
精神病患者のみなさん、ODなどせず、医師の処方はしっかりと守りましょう。 -
「卒業式まで死なない」と友人に言った予告のままに、3月末にその命を自ら絶ってしまった高校生南条あやさんの日記。
血を見るのが好きで採血ごっこや献血のハシゴをしたり、リストカットの衝動があったり、薬にものすごい詳しくてたくさん飲んでたりするってことで、どんなにダークな日記なのかと思って読んだら、面白いのですこれが。確かに血とか薬とか父との確執とか、ヘビーな話のはずなのに面白おかしく日常を描いている。
ほんとうに頭がよくて、文才があって、ユーモアもあって、繊細で、気の使える女の子だったんだろうなぁと思いました。
彼女が自殺した明確な理由はわからないけど、日記終盤にはその精神のなかの危うさを感じることができます。
日記はもともと読者の目を意識して書かれているので、彼女の本当の本音はきっとダイレクトには書かれていないです。
どうして死んでしまったのか?その真実は彼女の中にしかありません。
けど。
どうしたら彼女は死なずにすんだんだろう?
と私は思いました。
彼女の中で崩れてしまった何かを支えてくれるものはなかったんだろうか?
彼女が生きてる間に神様に出会っていたら、どうなっていたんだろう。
ゆるぎない承認と、完全な愛と、永遠にあゆみを共にしてくれる神様を彼女が知っていたら、どうなっていたんだろう?
と、考えずにはいられません。
本当に惜しい人をなくしてしまったと思います。 -
すごく良かった。
私も彼女と同じ、学校に通えてなくて、うつになり始めた18歳の頃にこの本を読み始めて、読み終えた今では19歳になってしまったけど、依然としてうつ病で、リストカット癖があって、精神科に通ってて、文章を読んだり日記を書いたりするインターネットと夜更かしが大好きなサブカル系の女の子だ。
彼女はそこにいた。まるで友達みたいに。
読み始めたときは彼女の自傷と自嘲がとにかく悲しくて、なんて痛々しいんだろうと思って胸が苦しかったけど、合間合間に挟まれるユニークな言い回しと普通の女の子の日常にそれらの毒々しさが飲み込まれていってスルスル読んでしまう、過激ながらも楽しい文章だった。
本筋とは関係ないが、病院の処方のガバさとか未成年の精神的な病に対するアプローチの確立されてなさとかインターネットのアングラでディープな感じとか、90年代の空気感が素敵で、完全なる未知の世界を生の視点から見られて面白くもあった。
そんな簡単に酒も飲めたのかよ!?そんなに薬を処方しちゃうのかよ!?父親の分の薬を娘に渡すのかよ!?彼女はこんなにひどい状態なのに、もっと強力な介入はできないのかよ!
などなど。
おまけに未成年がこんな文章を書いてることを特集して記事でインターネット・アイドルなんかにしてしまう大人たち!どこまでも無責任だ。お前らがそれは、ダメだろう。痛みや悲しみを他人が、それも大人が子供の言い分にホイホイ乗っかってエンタメとして消費して拡散なんて、恥ずべき行為だよ。
おおらかっつーか、雑で野蛮な時代だったんだなと思いました。空気感、エモいがヤバいな。
そんなわけあるかい!それアリなんか!?の連続だった。
しかしそんなことを思いながら、そのうち、私は、いつの間にか友達みたいにくすくす笑いながら彼女の文章を読んでいた。
友達同士だからこそ、素直に心配されるより酷い現状を不謹慎に笑い飛ばしてもらいたいことがたくさんあって、私の身にもたくさんあって、そんな同世代の友達(インターネットでも、現実でも)の不謹慎さと刹那的な笑いに私は救われていたんだ。彼女の文章は、まさにそういうものだった。
傷の舐め合いというよりは、リスカ跡を見せ合って「お前やべーな」「やってんなぁ!」って笑い合うみたいな、無言の仲間意識みたいな。
どん底でゲラゲラ笑いながら一緒にトリップしてくれるみたいな。
道徳的じゃないけど、それもまた唯一無二の友達のスタイルだ。私はそれを思い出さずにいられなかった。
だから、その方が彼女にも私にもいいと思って、楽しく読んだ。途中から完全に友達の日記を読むような気持ちだった。
電車の中でこの本を読みながらついクスクス笑って、ふと車窓に目線を移して、「あー私が好きなあの曲、この子も好きだろうな。聴かせたかったな」とか「カラオケ一緒に行ったら絶対くたばるまで歌うのに」とか「休み時間に先生の悪口言って盛り上がりたいな」とか、私が生まれた25年も前に生まれた彼女のことをマブみたいに感じてた。
それは彼女の痛みと私の痛みがきっと同じだから。そして彼女が読者にそう思わせる文才を持っていたから。そんな彼女が書いてくれたから。
苦しみながらも表現することをやめないでいてくれたから。
読み終えた今は、私の心の中に友達が一人増えたみたいな気持ちになっている。
何かあると彼女のことを思い出す。
確かにそこにいる。
彼女が生きて、書いてくれて良かった。
だって私たちが会えたから。
そんな気持ちにさせられる文章だった。
タラタラ読んでいたら、私はいつの間にか彼女より年上になってしまった。
彼女はすごく頑張っていた。腕が象みたいな異形になるほど切るなんて、素人の注射で瀉血なんて、心臓が弱るほどの自傷行為だなんて、聞いたこともない。本人もはっきりと理由がわからないまま、文字通り血をダラダラ流しながらも懸命に楽しくやっていた。
だから私も。彼女があんなに頑張っていたんだから私も。あと少しくらいは、と思った。
19歳になったことのない南条あやちゃんに教えてあげたい。大学なんて大したところじゃなかったよ、そんなことよりカラオケ行こうよ、機種は絶対JOYSOUNDで!って言いたい。
本を読んでこんな気持ちになるのは初めてだ。
悲しいのにあったかい。出会って、そして、別れて終わる。不思議な日記だった。
南条あやちゃん、会ってみたかったな!大好きだよ! -
再読。
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自分と共感するものが多すぎてびっくりした
自分もこういう気持ちになる!って思うことがあまりにも多すぎて、共感の意味で涙が止まらなかった
自分は今何とか生き長らえてはいるけれど、そんな自分と彼女との違いは一体なんだろうって考えてた