太陽を曳く馬 (上)

著者 :
  • 新潮社
3.46
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本棚登録 : 856
感想 : 110
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  • Amazon.co.jp ・本 (403ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103784067

作品紹介・あらすじ

福澤彰之の息子・秋道は画家になり、赤い色面一つに行き着いて人を殺した。一方、一人の僧侶が謎の死を遂げ、合田雄一郎は21世紀の理由なき生死の淵に立つ。-人はなぜ描き、なぜ殺すのか。9.11の夜、合田雄一郎の彷徨が始まる。

感想・レビュー・書評

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  • 相変わらず不安定な精神状態の主人公にもたらされたのは、911に巻き込まれた元妻の死。
    加えて、過去に捜査を担当した犯人の死刑が執行され、そこへ持ち込まれたのは、その父親が関わっていた寺での雲水の事故死。
    いつ心が壊れてもおかしくなさそうな主人公なのだが、神経が張り詰め尖っていたマークスの山の頃に比べると、事件関係者に愛想笑いができるまでになっている。
    とはいえ、それは経験による成長といったものとは程遠く、疲弊や諦観からくる事勿れにみえる。
    部下から「そら、出た。また係長のつくり笑い」と、これまでなら上の人間に対して思う側だった主人公が、思われる側になっている。
    事件の行く末も気になるが、主人公の今後も気がかりなまま下巻に続く。

  • 前作「レディ・ジョーカー」以来の高村作品。もちろん、それ以来の大好きな合田雄一郎シリーズ。ブクログには登録をしていないので、読んだのは、もう10年以上前。シリーズの世界観を忘れてしまっても、しようがない年月だけど、それでも、この作品、何かが違う。修行中の雲水が寺を飛び出して、トラックに轢かれて亡くなってしまうことから、物語は始まる。もともと合田雄一郎と言う独特な個性のあるシリーズだけど、今作は哲学的な要素が多く、ちょっと入り込めない感じ。上巻の最後に被害者が元オウムの信者と分かったり、下巻はさらに宗教的な要素が強くなっていきそう…

  •  前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。

     そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。

     リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。

     そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。

     本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。

     メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。

     でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。

     僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。

     夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。

     合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?

  • 感想は下巻に

  • 高村さんの本は「レディ・ジョーカー」以来だから20年ぶりか。3部作の最終部を読んだのが間違いなのか、出張続きで疲れている頭では理解しきれないせいか、よくわからなかった。宗教と美術と犯罪をどう整理するかというテーマなのだと思うが。

  • まず、装丁が素晴らしい。
    苦戦しつつ、とにかく下巻へ。
    高村薫氏にはとにかく唸らせられる。

  • いよいよ高村薫の高村薫化がいちじるしく進行しているとの感を強めた。もはやストーリーだのプロットだのはどこかに飛んでいってしまっている。延々と続く仏教談義。登場人物みんながみんな独特の高村節でしゃべてくれるし。ドストエフスキー的と言えばそうなのだが、小説よりも舞台作品、戯曲を読んでいると思うべきか。

    それでも描写の手堅さ、リアルに物語世界を描き出すのは相変わらず。内容の割には引き込まれた。

    最後が筒木坂の海岸の風景で終わるので『晴子情歌』を引っ張り出してみたら、すっかり忘れていたが、その冒頭シーンにも雲水たちが登場していた。

    次はこの人はどんなのを書くのやら。

  • 高村薫、渾身の大河ロマン、福澤彰之三部作。

    第一部、「晴子情歌」。
    第二部、「新・リア王」。
    第三部、「太陽を曳く馬」。

    すべて単行本で上下巻。それぞれに、違う視点、縦横無尽な時代設定、
    そして旧仮名使いの文章や、政治、美術、そして宗教。

    あまりに膨大な情報量、精密で、奥深い洞察、そして難しい日本語たち。
    読むのに難渋するのは必至。だけどこの読後感。

    なんというか、ごく普通の日常の場面で、彼女の言葉が、文中の場面が、いつもどこかで立ち上がる。近くに、福澤彰之が、合田雄一郎が本当に息をして立っている、そういうような感覚と、大きな喪失感、そして、この小説の世界にいられた自分への、大きな充足感。

    高村作品のすごいところは、いちいち細かいことはもう省きますが、
    とにかく、高い高い山を、途中何度も投げ出しそうになりながらも登り終えた、登ることができたこの達成感と、そのラストの秀逸さによっての、深い感動が約束されているところですか。

    もう、簡単に感想文とか書けない域なわけですよ。


    (ネタばれもありますので、これから読む予定の方はスルーしてください↓)


    彰之の人生。そのあまりの壮絶さ。あまりに死に近く、あまりに過酷なその人生の物語。
    「晴子情歌」の、彰之の母晴子の、今は忘れ去られてしまった美しい日本語、旧仮名遣いを使った美しい文章の手紙に浮かび上がる、青森の茫々たる風景、寒村に生きる人々の息遣い、鰺ヶ沢の厳しい気候の中広がる海。
    「新・リア王」の、そんな晴子が一度だけ起こした過ちの相手、青森の旧家、福澤家の長男で大物政治家、榮の、膨大な政治人生との邂逅、そして答える、禅僧となった息子、彰之の半生。

    そして「太陽を曳く馬」。
    主人公彰之の息子、秋道(しゅうどう)。
    生まれつき、人とコミュニケーションが取れない、目が合わない、母親にさえ懐かない、秋道の唯一の自己表現法は、絵画。

    高村作品に多く描かれている、「絵を描く人」がまたここに。
    秋道は、その生まれゆえか、現代美術の一つの到達点と言われる、色の爆発→光、を表現した、絵具の「バーミリオン」一色に、壁も、床も何かも塗られたアパートの一室で、同居していた女性を玄翁で撲殺する。

    その父親彰之は、六本木の山の上に出来た、大きなコンクリートの禅寺の副住職にあって、息子の事件以来、青梅の山中にある草庵に暮らしていた・・・。

    そこで出てくる、六本木の禅寺で修行していた、「元・オウム信者」の雲水が事故死する。その裏にある、寺内での奥深い確執。

    「オウム真理教」は、本当に「宗教」だったのか、「曹洞宗」の僧侶としての座禅と、オウムの座禅のあまりの違い、解釈を巡る禅問答。

    かくてその末に、本当にかの雲水は事故死だったのか、それとも自死だったのか、そして彰之の行方もままならぬまま、秋道の刑死と、それまでに彰之が送った旧仮名遣いの手紙によって、物語は閉じる。
    その行方は、すべて読者の「力量」にかかっているわけです。
    これが本当の小説であり、何もかも「答え」を差し出す小説って、本物では無いと思うんです。

    禅問答のくだりは、ほかの方が書いているように本当に難解で、これは哲学書(宗教書)なんだと思ってしまうくらい、難しかった。

    中沢新一の「森のバロック」を思い出したくらい。

    でも、例えば死んでしまった雲水が、大人になってからてんかん患者になった人で、その病理とか、医学的な見地からの、美術の人間の感じ方とか、「太陽を曳く馬」だけに関してもいろんな深い探求、知識の披露があり、そこで終われば「哲学書」「宗教書」なのだけど、そんな膨大な知識を飲み込んで、その膨大な知識が単なる一部に過ぎず、大きな物語に収束していくのがわかっていたので頑張れる、というか、頂上を目指すことができるわけなのです。

    高村文学の醍醐味、ファンであって本当に良かったと思える、そんな頂上が必ず約束されているんですよね。

    感想などすべて書ききれないほどの、頭が爆発してしまいそうな、本当に幸せな幸せな、読書の時間でありました。

  • こりゃあとてつもなく重たい本ですな。
    というか、この本は身内が買って読んだと思わしき本を
    強奪して読んだのですが(笑)

    これは実に深い、重い、
    そして二人のある人間に関しては
    ちょっと人事ではないのです。
    まあ、私の持病に近いのが1つありましたので。
    あ…と思いました。

    そして宗教というのは
    本当に異質だなぁ。
    最後に出てくる二人の僧侶のどこか
    遠まわしな悪意にぎょっとしたり。

  • 電車、休憩時間、朝3:30から、とにかく止まらなくて3日もしない内に読了。前半は法定、後半は別の事件に移って巨大宗教団体の内部って感じ。共通するキーパーソンなのが福澤彰之。まさか晴子情歌からこんな流れで合田シリーズと合流するとは。ちなみに読む順番間違えてホントは晴子情歌の次新リア王なんだけど、すっ飛ばして太陽を〜読んでる。間になんか色々あったんだろうな、とは思う。しくった。彰之の息子、秋道への手紙が何篇かに渡りあるんだけど、これがまたダルい。芸術とは何か的な内容なんだけど、わからん。で、長くて何回も出てくる。これは講義云々より読者をイライラさせて、法定で動機が全く掴めない秋道に対するイライラをわざと誘発させているのでは?と思った。それを含んでも面白かった。高村薫はだいたい半月〜1ヶ月くらいかかるのに、(しかも気分が乗らないと半年くらいの時もある)早く続き読みたい欲が沸いて読書に勤しんだ。事件背景が統合失調症、オウム真理教とか、センセーショナルなテーマを取り上げてるからかも。闇深い感じ。

  • 高村薫 「 太陽を曳く馬 」

    分からないことが多くて 読むのが苦痛だが、主題は「虚無と宗教」にあるのだと思う。2つの事件に関係する2人の仏教者(福澤彰之と長谷川明円)の虚無に対する姿勢を対象的に描いている


    「福澤秋道事件の公判」「合田雄一郎と長谷川明円の対峙」「福澤彰之から秋道への手紙」のシーンは 傑作だと思う。


    著者が伝えたいメッセージは「どんなふうであれ生きているのだから、生きられるように生きればよい」と解釈した


    福澤彰之から秋道への言葉「私たちの生命は、どんなときも生きよと言う〜その声を聞いた私たちの脳は、どんなときも意味を探そうとし、見つからなければそんなものは棄てて意味あるものを新たに探しにゆく〜それが生きるということ」


    てんかん発作状態と抽象画に、言語や意味を持つ以前の原子的な生命エネルギーを見出し、そこから構築される世界が、芸術と宗教の行き着く世界や死者が再生復活する世界と捉えた


    死の意味は〜他者として向き合う眼差しのほかに、自分の身体を離れて概念化する言葉がなれけば生まれない


    道元A(因果を超越する)と道元B(因果を究める)の関係性は、福澤彰之と長谷川明円の関係を意味しているように思う


    名言
    *死者について、生きている者が語り、死者の代わりにそれを聞く者は自分が死者その人になる

    *分からないことは語らないという宗教間対話の沈黙は、他者の消去を生む〜他者を消去したところに私はない

    *一つの宗教の信念に対して、異なった宗教が異なった文法で語りかけることはできないが、私たちには人間の言葉がある〜沈黙する前に、もてる言葉で他者に向き合う

    *人は個体の死から万物の死を想像する生き物であり、生きている者にとって死は、内面的な抑圧や不安を癒すものである

    *仏の知恵が縁起という以外に言葉にならないものだから、人間は とにかく生きることだとした

    *問いを立て続ける道を選ぶ〜ただ相手に向かって言葉を発し続ける

    バーネットニューマン「アンナの光」など 抽象画
    *視覚脳の仕組みに沿った営み〜描写を排除して線と色と面しかない
    *見えたものを選択し、測り、配置し、要らないものを捨てて、世界を構築する
    *線が円になって、円運動だらけになって、ざらざらする男が聞こえて、赤い光が面になって近づいてきた

    壁になって迫ってきた赤色(バーミリオン)〜世界が息の根を止められて固まっているような、物質の光の手触り


    てんかん発作状態
    *言語化以前、意味以前の、絶対的な無分節の、なにかしら生滅の胎動だけはある全一的なエネルギーの中に自分がいる
    *無明は意味分節された全存在の領域へ、真如の領域へ転移してゆく〜無明から世界が生じてゆくのを見る〜アラヤ識を見ている


  • タイトルから、アポローン(ギリシャ神話)を連想したが、仏教だった。
    太陽神だから、太陽も扱えると焼け死んだ話よね?
    赤坂六本木あたりにある寺で、てんかん持ち僧侶死んだ。家族が告訴する。弁護士、刑事(ゆうちゃん)が僧侶たちに絡む。
    てんかん持ち僧侶は、オウムの在宅信者だった。それを知ってて、受け入れた?
    息子は、同棲女性と嬰児、近所の青年を殺した。彼らがたてる音がうるさいから、という理由で斬殺。が下地。
    仏教とかオウムなんですかー、と読み進める。
    どこに行くのかな。

  • とある事情で最新刊を読みたいと思ったので。

    先に「冷血」を読んでしまったが、
    予想通り、あまり問題はなかった。
    合田刑事の元妻が亡くなった時の詳細が
    描かれていたぐらい。

    多分、メインは元オウム真理教の在家信者が
    車にぶつかり亡くなった事件。
    そこから、仏教とオウム真理教の話やら、
    宗教の話やらにもっていかれた。

    (下巻に続く)

  • 「晴子情歌」「新リア王」と続く高村薫の福澤彰之シリーズ、読了です。

    高村薫のもう一つの流れ、合田雄一郎シリーズとの合流が関心のポイントであった。

    オウムや9・11テロ、世田谷の家族惨殺など、かつての“常識”では割り切れない不条理な事件が続く中で物語の幕があく。物語というのは、2つの殺人事件に絡む福澤(殺人犯の父親/雇用主であった禅僧)と合田(担当刑事)との対峙である。

    ひとつの犯罪は、絵を描くという行為から人間の認識論へ、もうひとつの犯罪は、宗教(仏教・禅宗)を入り口とした人間の存在論へと続く、底知れぬ人間考察のフックとなっている。

    それらの深みへと刑事の立場を越えて考察を進める合田自身の心の軸線の不安定さと、独自の立ち位置から人間についてなぜ?を問い続ける福澤のとらえどころのない生き様とがタテヨコに交錯し、人間はなぜ殺すのか、なぜ生きるのか、といったなんとも言えない精神の淵というか瀞というかへ、読者は流されて行く。

    …というのが小説の大まかな輪郭であろうと思うけど、そこで設定されたテーマや語られているテツガクは少々デカすぎてオレなんかには噛み切れなかった。

    *
    なお、太陽を曳く馬とは、アポロンが太陽を乗せて曳いた馬車馬である。アポロンの息子が、自ら太陽神の子であることを証明しようとしてその荒馬を曳き出すが、かえって街を焼いてしまい、ゼウスの雷によって撃ち殺されてしまう。そんな話がギリシア神話にあるという。

    作中では、そのように呼ばれている原人の洞窟絵(実在するのかはわからない)を、人間の原初的な描画衝動のモチーフとして使ったようである。

    その絵そのものが象徴であるとともに、「息子」が曳き出した「人間の中にある荒馬」的なものを暗示したタイトルなのかなと思う。

  • <u><b>語るべきか、語らぬべきか</b></u>

    <span style="color:#cc9966;">福澤彰之の息子・秋道は画家になり、赤い色面一つに行き着いて人を殺した。一方、一人の僧侶が謎の死を遂げ、合田雄一郎は21世紀の理由なき生死の淵に立つ。―人はなぜ描き、なぜ殺すのか。9.11の夜、合田雄一郎の彷徨が始まる。</span>

    頭の中がごちゃごちゃで整理できそうにないので…、できないまま考えたことをメモみたいに残しておきます。(メモというには長いけれど)
    [more]

    <b>○高村薫と村上春樹</b>
     春樹が新作出す(1Q84)を出すということで、この夏はそれで頭がいっぱいで完全に忘れていた。ずっと待っていたはずの高村女史の新作を!

     福澤シリーズ(と銘打ってもいいのか?)第三弾。もとい合田シリーズ第四弾。お帰り、雄一郎!年をとっても、昇進しても合田雄一郎は合田雄一郎だなぁと。水色の格子模様の幼稚園児のような弁当箱を開くどこぞの検事もしかり。そして、相変わらず貴代子さんの扱いが酷い。初っぱなから、ぶっ飛んだ。そんな展開かよと。

     まぁ、そんなことはどうでもいいんですが(よくないか?)、私の好きな作家の二人(高村薫、村上春樹)が、小説を書く上での問題意識をどちらも”オウム後の世界”に持ってきているというのは、なんだか感慨深い。私は両方好きだから感慨深く感じるけど、片一方を好きな人は片方を批判しているなぁ。特に春樹はアンチが多いしね。”ちゃらちゃらしたこと書きやがって”なんていう書評も見たけれど、春樹はその後の世界そのものを淡々と描き出しており、高村は問題意識を明確に出してきているだけで本質には同じものを書こうとしているように感じる。
     また、どうも刊行時期が重なったせいか『1Q84』と『太陽を曳く馬』を比べがちだけれども、高村の『太陽を曳く馬』に近いものは、春樹で言うと『約束された場所で―underground 2』じゃないかなぁ、と個人的には考えている。両作品のキーワードは「語りを手に入れたオウム」。

    <blockquote>しかもまあ、誰もかれもほとんどオウムの笑顔ですよ、あれは。見事に誰一人苦悩していない。(P365)</blockquote>
     『約束された場所で〜』の感想にも書いたんだけれど、オウムの本質は”世界が全て語ることができるものだ”という認識そのものじゃないかな。春樹の『約束された場所で〜』『1Q84』でも考えさせられたんだけど、やはりこの本で考えたのは「語るべきか、語らぬべきか」という問題である。
    高村女史もそのことに関して意識的に考えているようには思える。
    <blockquote>もとはと言えば、作文をするな、無理に辻褄を合わせるな、わからないことはわからないで通せと現場に指示したのは雄一郎であったから…(P158)あのとき自分たちが直面していたのは、警察の名誉の問題などではなく、一つの事件をどこまで言語かできるかという究極の課題だったのではないだろうか。</blockquote>

     結局、「太陽を曳く馬」の主要なテーマに宗教を選ばねばならなかった理由もこの辺りにあるんじゃないかな。
    サンガの事務の田辺の言葉
    <blockquote>そもそも仏は〈なぜか〉と問うて立ち上がる世界ではない反面、正道を子々孫々に正確に伝えてゆくものは言葉しかないというのも事実でございましょう。
    その間で誰しも引き裂かれるのでございますよ、禅家の皆さんは。そこで一歩踏み出してあえて言葉を発するか、踏みとどまって黙するかの違いでございましょうか。p344</blockquote>

    <blockquote><div class="mm-small" style="margin-bottom:0px;"><div class="mm-image" style="float:left;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167502046/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41K057W2YJL._SL75_.jpg" alt="約束された場所で―underground 2 (文春文庫)" title="約束された場所で―underground 2 (文春文庫)" width="52" height="75" border="0" /></a></div><div class="mm-content" style="float:left;margin-left:10px;line-height:120%"><div class="mm-title" style="line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167502046/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank">約束された場所で―underground 2 (文春文庫)</a></div><div class="mm-detail" style="margin-top:10px;">村上 春樹 / 文芸春秋 ( 2001-07 ) /<img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-4-0.gif" border="0" alt="アマゾンおすすめ度" style="vertical-align:middle;" /><div style="margin:7px 0px"><a href="http://mediamarker.net/u/konnoe/?asin=4167502046" target="_blank">konnoeのバインダーで詳細を見る</a></div><div style="text-align:right;font-size:7pt;font-family:verdana"><a href="http://mediamarker.net/" target="_blank">MediaMarker</a></div></div></div><div style="clear:left"></div></div></blockquote>



    <b>○秋道の描写</b>
     『マークスの山』のマークスの描写も圧倒されるものがあったけど、今回の秋道の描写はさらにすごかった。マークスの場合はまだ理解の範疇が届く人間として描写されており、マークスが犯罪に至った経緯もわかったんだけれども、秋道の場合〈完全に理解が及ばない他人〉を描ききっているように感じる。言い換えてみれば〈他人からの語りを拒絶する存在〉というかね。ここでも”語りの可能性”の問題がでてくるわけだ。

    <b>○部下</b>
     偏屈上司をもった吉岡くんが可愛くて仕方がない。吉岡くんのことを俺とは世代が違う別の何かといいながら、完全に遠ざける雄一郎も可愛い。「そら、出た。また係長の作り笑い。」という吉岡の白けた眼を気にする雄一郎。いやいや、あんた自分の若い頃の、林に対して所作にそっくりじゃないか…!部下は大事にしろよ。森のように逃げられないといいね、雄一郎。
    <blockquote>一方吉岡は、自分もゲーム世代のくせに、種族が違うとでも言いたげな冷酷な眼をしたままで、どうかしたか?と声をかけると。生理的にだめという単純明快な返事だった。
    そうか、伝統仏教の装置さえ享楽の対象になりうる現代の脳たちの、この薄明るい妄想と熱中の回路にも、生理という個別のハードルだけはあるのかと驚き、なんと反動的なことだと
    少し可笑しくなった。p320</blockquote>

    <b>○文中でのキーワード</b>
    ・「おまえは」という作者が前面に出た語り口って今まであったけ?
    ・「空がある」という表現。雄一郎は始終その手の妄想にとりつかれるわけだけれど、ここに出てくる「落ちる」表現は、村上春樹の『スプートニク〜』や池澤夏樹『スティルライフ』で感じた、ふっと自分が宇宙空間にいるような、頭の中が飛んでいってしまう、そんな感じににているんじゃないかと…。春樹や池澤に比べればもっと暗い感じはするけれど。

    <blockquote><div class="mm-small" style="margin-bottom:0px;"><div class="mm-image" style="float:left;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122018595/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ve--L3aUL._SL75_.jpg" alt="スティル・ライフ" title="スティル・ライフ" width="52" height="75" border="0" /></a></div><div class="mm-content" style="float:left;margin-left:10px;line-height:120%"><div class="mm-title" style="line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122018595/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank">スティル・ライフ</a></div><div class="mm-detail" style="margin-top:10px;">池澤 夏樹 / 中央公論社 ( 1991-12 ) /<img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-4-5.gif" border="0" alt="アマゾンおすすめ度" style="vertical-align:middle;" /><div style="margin:7px 0px"><a href="http://mediamarker.net/u/konnoe/?asin=4122018595" target="_blank">konnoeのバインダーで詳細を見る</a></div><div style="text-align:right;font-size:7pt;font-family:verdana"><a href="http://mediamarker.net/" target="_blank">MediaMarker</a></div></div></div><div style="clear:left"></div></div></blockquote>
    <blockquote><div class="mm-small" style="margin-bottom:0px;"><div class="mm-image" style="float:left;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062731290/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/412MWA2EPHL._SL75_.jpg" alt="スプートニクの恋人" title="スプートニクの恋人" width="53" height="75" border="0" /></a></div><div class="mm-content" style="float:left;margin-left:10px;line-height:120%"><div class="mm-title" style="line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062731290/konnoe-22/ref=nosim" target="_blank">スプートニクの恋人</a></div><div class="mm-detail" style="margin-top:10px;">村上 春樹 / 講談社 ( 2001-04 ) /<img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/x-locale/common/customer-reviews/stars-4-0.gif" border="0" alt="アマゾンおすすめ度" style="vertical-align:middle;" /><div style="margin:7px 0px"><a href="http://mediamarker.net/u/konnoe/?asin=4062731290" target="_blank">konnoeのバインダーで詳細を見る</a></div><div style="text-align:right;font-size:7pt;font-family:verdana"><a href="http://mediamarker.net/" target="_blank">MediaMarker</a></div></div></div><div style="clear:left"></div></div></blockquote>

    <b>○現代美術の描写について</b>
    まぁ、とにかく現代美術についての言及の部分は相変わらず高村薫だなぁと思った。脳みそをフル回転しても理解できない。脳みそを吐きそうになったよ。


    cf,太陽を曳く馬の地上絵、父と息子の手紙のやりとり 晴子・淳三P193

  • 頭がくらくらするような会話が続く。しかし引き込まれる。

  • 9.11の同時多発テロ、オウム真理教事件といった現実の事件と、抽象画を巡る芸術論、新興宗教の教義を巡る宗教論といった複雑なテーマに、「マークスの山」、「照柿」の合田雄一郎が愚直にも執拗にも「何故?」と問いかけながら取り組んでいく。読後にすっきりするような解は提示されないが読み応えはあり、読後感がずっしり残る。宗教における真理、芸術における究極の表現といった、辿り着かないことを知りながら求め続けることを止められない何かについて、深く考えさせられる作品。

  • 高村薫の晴子三部作の最終章に着手。出家した福澤彰之と殺人を犯す息子・秋道、そして捜査を通じて二人とサンガの闇に踏みこんでいく合田雄一郎、上巻を読んでもまったく先が読めない展開だけに、下巻に注目です。

  • 濃密な描写悪くないが、犯罪もの。保留

  • いかんいかんと思いつつ、父の手紙&坊さんの発言を超斜め読み。
    しかし、3部作の1、2より集中できるのは、「事件」の解明という興味があるだろうからだが、結局解明する事件ではないという気もしながら下巻へ!

  • 合田雄一郎、どんどん歳を取り、倦んで鬱々としてらっしゃる。

    過去と現在が交差して、しかも関係者がかぶってたりするから多少混乱したり、合田の鬱々さにどんよりしたり。
    なんかドストエフスキーみたいだ。

  • 最初は、合田雄一郎さんは好きではありませんでした。寧ろ義兄の方が好きだった。
    マークスの山を終え、単純にストーリーに惹かれ、レディジョーカーで感情の機微と義兄に惹かれ、しばらく経って合田さんに会いたくなりました。じわじわ欲求が高まり、手にした本書。

    緻密な文章は相変わらずの文体なのかな、と思いましたが、
    今回は概念というのか、抽象的というのか…一言で表せば『理解できなかった』です。
    後半のヒンドゥー教周辺の話は、事前知識があったのでとっかかりやすかったのですが…

    それでも、下巻が気になりますね。
    続きを読む気は満々であります。

  • このテーマでは、この作家ファンでないと最後まで読めないかも

  • どうにか読んだけどさ〜

  • 圧倒的。かつて爆弾やスパイや金庫破りなどに向けていた偏執とも言える徹底したリアルを追う取材と論理構成が、アート、風俗、文化論、現代思想から当然の帰結としての宗教にいたるまでの抽象全般に向けられるや、これほどまでに重く、深く、読みづらく、面白くしてしまう。唯一無二。天下無双であろう。上巻ですでにこの情報量、いかに物語をつなぎ読み手に興味を持続させるのか。全く展開が読めない。

  • 合田と福澤が合流する、彰之シリーズ最終章。芸術と殺人、宗教の対話を通して一人の僧侶が遂げた謎の死の真相を浮かび上がらせる。宗教の教義の話は特に難解で作者はこれを書くのに相当勉強したのだろうなぁと推測する。詳細→http://takeshi3017.chu.jp/file7/naiyou6708.html

  • ★☆☆☆☆

  • 途中で断念。
    今まで三人称が「合田」だったのが「雄一郎」になったのにすごく違和感があって、合田の過去の描写の一人称が「お前」になったのもすごく気持ち悪かった。
    合田が鬱病っぽいのか仕事にやる気がなくなってるのも嫌だし、半分くらいしか読んでないけど、警察小説というより刑事が主人公の純文学って感じで、私が読みたいものではなかったです。

  • 久しぶりの高村薫。文体に合わせるのに時間がかかった。

  • 主人公の刑事の鬱っぽさと中盤の文章のまどろっこしさが難だが、後半面白くなってきて下巻に期待。

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著者プロフィール

●高村薫……1953年、大阪に生まれ。国際基督教大学を卒業。商社勤務をへて、1990年『黄金を抱いて翔べ』で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。93年『リヴィエラを撃て』(新潮文庫)で日本推理作家協会賞、『マークスの山』(講談社文庫)で直木賞を受賞。著書に『レディ・ジョーカー』『神の火』『照柿』(以上、新潮文庫)などがある。

「2014年 『日本人の度量 3・11で「生まれ直す」ための覚悟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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