- Amazon.co.jp ・本 (217ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105067045
作品紹介・あらすじ
一つの社会は権力、快楽、知の関係をいかに構成し、成立させているか。フーコー考古学の鮮やかな達成。
感想・レビュー・書評
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フーコーは、死の直前に「性の歴史」の第2巻と3巻を発表し、最終巻の「肉の告白」の完成を目前にしてそれを果たせずになくなってしまった。その原稿は、「開けてはならない」箱に保存されたのだが、フーコーの死後十分な時間がたったということか、今年、ついに発表された。
ということは、近いうちにその翻訳版がでるに違いないので、そこに向けて、1巻を再読し、長年読もうと思いつつ、読んでなかった「性の歴史」の2〜3巻を読むことにした。
さて、その第1巻「知への意思」は、1976年に発表されていたのだが、翻訳版は1986年とかなり遅れている。
当時、待望の翻訳みたいな感じで、わたしも読んだ。
そのときの印象は、「フーコーとしては、結構、わかりやすいね」というものと、「面白いけど、ここまで言っちゃうと、お先真っ暗で、なんか希望ないな〜」というものだった。
あらためて、読んでみて、30年くらいに前に、なぜ私が「わかりやすい」と思ったのか、全く不明で、かなり難しい。
とくに、「◯◯ということではない」みたいな文章が多くて、◯◯というところは、わたしがきっとそういうことだよね、と思ってしまうことが入っていて、ことごとく私の先読みを否定されていく感じ。
となかなかに手強い本で、理解からはとても遠いのだが、ここにまさに私が最近問題としていたことが、ぎゅっと圧縮されて、書いてあるという感じがした。
つまり、私はなにものであるか、という素朴な実在論的な問いがあって、それは社会の抑圧によって隠されている。が、真実を知れば、人は解放されて、自由になることができるという物語。
だが、そこに気づいて、そこから解放されるというのも、同じディスコースの内側のヴァリエーションに過ぎないわけで、そこに出口なしの悩みがある。
というわけで、第2巻と3巻にこのままのいきおいで、読み進めることにする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
凄かったなぁ。
私達は性にまつわる言説が抑圧されているとばかり思ってきたけど、実際はむしろその逆で、人間を生きながらえさせ自らを増殖させる「生権力」により言説が煽動されているらしい。抑圧言説は性的欲望装置の域を出ないという指摘にギクリ。
知と権力と欲望は、リゾーム状に複雑に絡み合い、現実世界で機能しているのであり、支配-被支配という単純な二項対立で世界が成立しているわけではないのである。その他人口の概念なども興味深い。5章の血と性的欲望の話は、サドやバタイユへのクリティカルな批判となっており、すごい。
ここまで読んでフーコーがどういう生き方を目指しているのか気になった。
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西洋世界において、告白のモデルは性と結びついてきた。反宗教改革で確立したカトリックの「告解」は、主に婚姻に反する性を全て語ることで司教との権力関係を形成する。17〜18世紀の古典主義における性の科学(医学、教育、刑罰)は、家族(特にブルジョワジー)からの「要求」で、病人を家族から引き離し、教育や遺伝学と結びつき人種差別へと歩を進めた。フロイト精神分析は「臨床」において個人に語らせることで、深層心理としての性的欲望を家族の問題に戻した。まずブルジョワジーの自己の確認として抑圧があり、その除去が特権化し、知への意志として法整備や様々な学問に派生し、解釈を経て国家権力と結びつき、他の階級へ適用された。王政時代における君主の反逆者を殺す権力=死権力に代わって、その装置は人間は生かして最大限活用する。身体の規律訓練を行う解剖政治学、人口管理を行う生政治学の二つの生権力である。性は、政治的経済的な権力と、医学生物学的な知の間を結びつける言説としての接線である。したがって、性の抑圧が法の禁止の権力によるものという仮説は比較的新しいもので、そこから生まれる「根源的な性」とその解放を訴える批判は幻想であり、批判は性的欲望の装置の内部にとどまるだけでなく、装置を強化することになる。むしろ性の言説が、生権力の要となるという歴史的側面に注目しなければならない。
・参考 フーコーの権力モデルの変化(仲正昌樹『フーコー性の歴史入門講義』)
規律権力(正常性に躾ける)『監獄の誕生』
→生権力(人口統計学的に数的管理)
→統治(権力の作用)、統治性(統治に対するリアクション)
→司牧権力(群れに対するケア)『性の歴史2,3』
フロイト『夢判断』でエディプスコンプレックス仮説の最初の形態が示される。ヴィクトリア朝の性抑圧は、家族の問題に抑え込む。『言葉と物』にも関わるが、生物学、経済学の臨界に、言語学の対象として性の言説がある。優生学は性に関わり、ヴィクトリア朝に生まれた。
権力は国家・法・集団などの一方向のものではなく、リゾーム的な多数のせめぎ合い。
キリスト教の禁忌→婚姻を正常とする→抑えきれない者を家族から病気として引き離す→近親相姦の精神病として家族の問題に戻す
・1
17世紀ヴィクトリア朝に始まったとされる、通俗的な性の抑圧の歴史から人々は自由になっていない。抑圧からの解放を安易に主張する。個人の性の告白によって、報酬を受ける係りの存在する唯一の文明とされる。しかし本質的なのは、経済的結果よりも、以前からある性の抑圧の言説。マルクス主義的弾圧とキリスト教的説教が互いに強化し合う、前提とされている性の抑圧の言説を問う。なぜ性と罪を結びつけるのか。3つの疑いがある、性の抑圧は歴史的に明らかか、権力の仕組みは抑圧なのか、抑圧に対する批判的言説は同じ歴史的網の目に属しているのではないか。疑いの目的は、抑圧の仮説を性の言説の生産管理構造(エコノミー)内部に置き直すこと。権力=知=快楽の体制を明らかにする。言説の内容ではなく、事象、言説化。拒否・消去・資格剥奪は、煽動・強化でもある、権力の多形的な技術。言説的産物の支え・道具である「知への意志」を取り出す。
・2
禁止が言説の増大をもたらす。[1545-63年]トリエント公会議後のカトリック告解と悔悛の変化。反宗教改革により、自己の検証が強制される。思考を告白により調べ上げる。サドや『我が秘密の生涯』の文学にも全てを語る形式が見出される。性について語れという命令の代表者。禁止ではなく、語ることによって性の言説を生産する仕組みを作った。キリスト教によって強化された権力のメカニズム。性は断罪あるいは許容ではなく、有用性において管理・機能されるもの。18世紀にポリスは個人の規律に関わる。労働力としての人口の経済的政治的問題の核心に性があった。出生率、結婚年齢など。性的放埒から人口管理の言説への移行。分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。子供の性の解放は『性欲論三篇』『ある五歳児の恐怖症分析』[1905,9]による。言説の有無の二項対立ではなく、沈黙の多様化。学寮は建築上、性の監視が徹底されている。バセドーと汎愛派によって思春期の性の言説化は厖大になる。言説による身体矯正法がなされる。聴衆の前で生徒が性について説明させる様は、沈黙ではなく言説の形態の細分化である。医学、精神医学、刑事裁判と18〜19世紀以来、性の言説を引き出す場となる。不断の危険の自覚の強化が、性について語ることの煽動となる。1867年ラプクール村の農業労務者が、少女に愛撫してもらったことで告発された。子供たちは固まりミルクという集団オナニーの遊びをするのが常であるような状況に関わらず、彼は憲兵に連行され裁判で有罪となり医師の検査を受ける。村の日常的な小さな事件が、大がかりな医学的理論構築の対象となった。
18世紀末まで、宗規法、キリスト教司教要綱、民事法は結婚を中心に性の合法性を区別していた。結婚に関する規定は細かい一方で、非合法については漠然としていた。次第に正規の婚姻については語られなくなり、周縁的性行動つまり性倒錯に問いかけられる。重要なのは抑圧の度合いではなく、権力の形式。四つの形式、統制と対象の伝播の侵入ライン、倒錯という個人定義、好奇心に満ちた医学・教育学・家庭内の監視者との無限のゲームの螺旋、性的飽和の装置である家族。社会が身体と性の上に機能させた権力の型は、異形な性的欲望を細分化する。現実に身体と快楽から引き出され、直接に権力の道具となり、快楽の細分化と固定に相関して、連鎖を構成する。単に禁忌的な抑圧の仮説は放棄されなければならない。むしろ多弁で、快楽の強度と権力の執拗さを互いに掻き立てている。
・3
フロイト以前の性の科学は、道徳に沿って、真理をかわし成立してきた。法律、世論の助けを借り、権力者に隷属し、書き手となった。ガルニエ、プイエ、ラドゥセット。欠陥住民の除去と人類の進化を持ち出し、公衆衛生という裁決機関の制度を主張した。人種差別を真理として正当化した。合理性は薄弱だった。性は、生物学とこの性医学に分岐した。性医学は、科学的真理の知への意志ではなく、真理を妨げる非知への意志であった。シャルコーのサルペトリエール精神病院の公開臨床などのように、儀式的に真理が隠蔽される。「性の真理」なるものの産出の仕掛けを作り上げ、その真理を漸進的に形成していった。ローマと東洋は、快楽自体の実践から引き出された性愛の秘術を備えていたが、口外されると力を失うために秘密とされた。それは禁止や汚れと無縁だった。西洋は性の科学であり、その「知である権力」の問題になるのが告白。1215年ラテラーノ公会議の悔悛に始まり、告解、告訴の後退、訊問と調査、行政府の役割増大、異端審問裁判所、全て告白が中心。特定の誰かへの告白による保証から、真実の告白により権力が個人を形成するに至った。異常なほど告白を好む社会となった。文学、哲学も自己の真理に達する告白の形式を使う。真理の産出には権力の関係が貫いている。そこで生み出されるのは、人間のassujettissement 服従=主体-化。性は告白の特権的題材だった。隠さねばならないもの、かつ告白せねばならないもの。
→性の形而上学、否定神学。カント的形式と物それ自体≒性的欲望それ自体、ハイデガー的真理の隠蔽性、ルソー告白
告白は下から要請、強制され言語化される。支配は聴き黙っている者の側にある。打ち明け話の周囲に、性の困難な知を組織した。告白が家庭、教育、医学、刑罰様々な形で権力を構成する。性の快楽の巨大な集蔵庫アルシーヴを作る。告白という科学。告白と科学の相互干渉。19世紀における告白の科学化の5つの手法、告白の内容の臨床医学的コード化、全てを性的因果関係に適用、本人にすら隠される潜在性、受け取る者に裏打ちされた解釈、告白の効果の医学的レベルへの組込み。16世紀キリスト教の悔悛の秘蹟から医学に接続し、性的欲望を出現させた。あたかも性に重要な秘密がある、真理の産出が必要、性が知の秩序への登録が重要かのように。
→カント『純粋理性批判』あたかも〜かのようにの連続のオマージュ
主体の因果律、無意識、他者の主体の真理、主体自身が知らない知。
→フロイト、ラカン
西洋は「分析に基づく快楽」を構成した。
考慮すべきは、経済的理由による権力の抑圧はなく、権力に組み込まれた言説の増殖により性的異形性が固定化され、生産配分構造を成立させる装置。問題は、知への意志に本来的に内在する権力の戦略を定義すること。
・4
1目的
権力による性の抑圧と欲望の抵抗のエネルギーという二項対立は幻想にすぎない。目的としての権力の分析学は、法律的-言説的権力のイメージから自由になる必要がある。そこから派生する抑圧と、欲望を成立させる法は、衝動の考察であって権力ではない。そのイメージの特徴は、否定的な関係(拒否)、規律の決定機関(二項対立と秩序)、禁忌のサイクル(違反による消去)、検閲の論理(不許可、言われるのを防ぐ、非存在)、装置の統一性(統合された制度)。こうして権力を法の形で図式化する。中世の封建制における王政の境界設定にかかわる法が権力のイメージとなっている。しかし、王政は濫用よりもむしろ、法律的に権力を確立させた。18世紀の王政批判は違法性に対してなされた。19世紀マルクス主義においても法律的に暴力や不正義を行うとされた。いずれの場合でも、法律を権力として前提しており、王政のイメージのままだ。特殊で過渡期的形態にすぎない。生きた身体を扱う新しい権力メカニズムは、法律的に還元されない。技術、標準化、統制によって、行使されるのであって、[禁止の]「法である権力」「主権である権力」ではない。研究の目的は、権力と、生と身体において最も禁じられた性の言説の歴史を分析すること。
2方法
権力は、国家権力、規則、集団の影響のことではなく、無数の力関係において内在的かつ構成要素となるもの。ゲームの支えとなり、連鎖のシステムやそれを切り離す矛盾やズレ。ドゥルーズガタリ的なリゾーム構造。権力は、無数の不平等かつ可動的なゲームの中にあり、経済・知・性に内在し差異化され、社会体の下から起こり、非主観的な意図のような様相を呈し、抵抗と同時にあるもの。性の言説の真理の強奪の歴史において作動する権力関係とは何か。予備的な四つの規則、内在性、[権力関係の]不断の変化、[家族の特殊性と覆いの]二重の条件づけ、[権力と抵抗の]言説の戦術的多義性(例えば同性愛という語を使った当事者の自然性の主張)。言説に問われるべきなのは、権力と知の間の戦術的生産性と、権力関係に必要とされる戦略的統合である。
→儀式分類裏付けなどの手続き上の説得力が権力化する。
3領域
18世紀以降の四つの戦略的集合、女の身体のヒステリー化、子供の性の教育化、生殖行為の社会的管理化、倒錯的快楽の精神医学への組み込み。
2つの装置、婚姻装置は結合と再生産の自律的内部平衡(ホメオスターシス)、18世紀以降に婚姻と両立する形で生まれた性的欲望装置は身体の変形の技術と管理。性的欲望の四つの命題、権力の新しい装置との結びつき、17世紀以来拡大傾向にある、生殖=再生産を目的としない、権力関係内部の知の目的としての身体の評価。家族は交換器、婚姻⇔家族⇔性的欲望。
→17世紀は王政、18世紀は経済・科学が発達するのに関係する。
家族は情動・感情・愛情の場、性的欲望の特権的な点。そのため性的欲望は、近親相姦的なものとして生まれた。家族があらゆる性的欲望を狩り出し検証へと開く水晶となる。シャルコが家族から病人を引き離し、フロイト精神分析が婚姻の法、近親相姦の問題に戻した。性的欲望が婚姻の法を破るものではなく、むしろ父母の対象に基づいて成立するものとして、婚姻の装置と家族のシステムを補強した。この分析の領域は、性的欲望の装置である。キリスト教的肉欲と、家族を介した四つの戦略(女、子供、倒錯、人口)。通俗的な抑圧に照応される二つの時点、すなわち①労働力と再生産、②政府介入のある後期資本主義は、この分析においては放棄すべきである。
4時代区分
通俗的な性の抑圧の歴史は、17世紀の禁止、20世紀の寛容とされる。新しい権力メカニズムは、ラテラーノ公会議の告白と14世紀の禁欲に始まり、トリエント公会議後のカトリックと宗教改革が深い分裂を起こしたが、いずれも情欲の分析と言説化が16世紀以降定着する。18世紀末にリグオーリの厳格主義とウェスリーの教育の表現に固定されたと同時に、司教要綱から教育、憑依から医学、夫婦関係の告解から人口学へ医学的正常さを通して、キリスト教から医学へ引き継がれる。死と罰から生と病気へ。19世紀後半に、性倒錯の医学と優生学のプログラムにより国家的な計画になる。性倒錯が遺伝的に病的変質を生むという説明が、精神医学、法律、法医学、社会的管理統制機関、子供の監督まで影響した。19世紀末のフロイト精神分析は、遺伝の問題と切り離した。このことから、性のテクノロジーは、性の抑圧の通説と合致しない。
そして、技術が適用されたのは経済的政治的優位な階層だった。子供や女性の性的欲望もブルジョワジーの家庭においてだ。社交界の有閑夫人が女のヒステリー化として拠点を見出された。学寮に生活する、健康な子孫を残す責任がある少年に教育の関心が向いた。支配者階級の身体と健康、子孫が問題となった。隷属化ではなく、自己確認として成立し、次いで管理手段となった。ブルジョワジーは、性に身体を従属させた。貴族における祖先と婚姻の「血」と同様である。しかし貴族の種の保存の目的とは異なり、自らの陶冶、すなわち身体と性に対する配慮が種族的差別と相関する。ブルジョワジーにとって、自然に再生産されるプロレタリアートの身体と性は、配慮の対象とはならない。その後に、感染・労働力・人口調整の葛藤から管理の道具として性的欲望の装置が使われる。性的欲望はブルジョワジーが起源であり、他の階級に転移されたにすぎない。ブルジョワジーが自己の抑圧の特殊性における差異として性的欲望を定義し、父権喪失などの法の作用によって規定し、他に差異を作ることを禁忌としたが、これが抑圧理論の起源である。そして抑圧を取り除く精神分析の特権もブルジョワジーのものだ。反抑圧を説くだけでは性的欲望の装置の内部にとどまることになり、批判にならない。
・5
王政における君主の権力維持のための反逆者を殺す死の権力は、権力を増大させるために国民の生命を管理・保証するものとなるにつれ、生かし最大限活用する生の権力となった。戦争は君主のためではなく、自国民の生存のためとなり、民族抹殺に向かう人口の規模になった。死刑は生存を保証する権力と矛盾する。17世紀古典主義以来の生の権力は、身体における規律の解剖-政治学、人口における生物学的調整管理の生-政治学の二つの極がある。規律制度は、学校、学寮、兵舎、工房。管理制度は、出生率、長寿、公衆衛生、住居、移住。資本主義における、人間の蓄積による資本蓄積、人間の増大による生産力、利潤の差別的配分の3つの操作は、生権力によるもの。資本主義の規律の技術によって、人間の生命は、歴史へ、知と権力へ、政治技術へ現れた。人口管理によって、生そのものが問題となり、生を歴史の「生物学的周縁」として外部におきつつ、「知と権力に貫かれたもの」として人間の歴史性の内部に置く。
→ヒト、人間
そして、常態(ノルム)が、法を、死権力を超えて、規準に変える。憲法や訂正・立法は、正常化の権力を受け入れられるための形式にすぎない。権力への抵抗もまた生である。権利よりも根源的な生。
性がが生権力において重要な二つの軸となった。規律訓練と人口管理。監視、統制、空間的配備、検査の微小権力。性は生において、身体と種に関わる。性的欲望は、個人を分析し、調教することを可能にする。政治的経済的介入のテーマとなりイデオロギー的キャンペーンのテーマとなる。性の政治の四つの攻撃ライン、少年の性への組み込み、女のヒステリー化、産児制限、性倒錯。前者二つは種・子孫・集団的健康、後者二つは規律と調教。君主制における血は象徴論であったが、性的欲望は意味の分析学である。サドは、性を血に置き直す。ナチズムの人種差別の政治権力は、血が性的欲望の装置を使って行使される。精神分析は、性を血から引き離し、法にもう一度書き込もうとした。結局は反転=退行だった。
この主張は、歴史主義的で、生物学的性抜きで、精神分析の社会的拡散のスケールに置き換えたにすぎないと反論する権利もあるだろう。
→カント的な書き方、仮想の論敵に文中で語らせる。
政治的装置の性は、生物学的機能も組み込んでいる。物質的現実の性は、生物学的機能とは別に、意味づけがなされた。隠れたもの、歴史的癒着と生物学的不適合性、違反性から「前提となる性」の理論が、性的欲望の装置を通して設置された。この理論の三つの機能、能記所記、準科学としての保証、権力への抵抗要素としての性的欲望。「前提となる性」は自己同一性の実用的役割を与える。性は死を代償としても手に入れるに値するようになり、本能によって貫通されている。愛が性に移行した。そして、性への知の欲望を生む。しかし、事実は我々を性的欲望の装置に結びつけている。性という概念は、現実的な歴史的形象の性的欲望に従属している。性的欲望に反抗する拠点は、身体と快楽である。 -
いや知恵熱しか出なかった。
最後の一文でさらに「う〜ん」となってしまった。
フーコーの入門書読んで再読します。 -
これが生-権力……!
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性の歴史Ⅳの『肉の告白』が出版されたこともあり、性の歴史を改めて読むことにした。先日亡くなった渡辺守章先生の訳書でもあり、その点でも感慨深い。
渡辺守章先生も訳者あとがきで言及されているように、フーコーが明らかにしようとしている性をめぐる言説が、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を意識していることが伺えるし、リゾームのような形態をとっているのだということも理解できる。
このフーコーの言説をどのように現代社会に活かすのか、アクチュアリティを持たせるのかは現代を生きる我々の課題なのだと思う。 -
何について何を言ってるのかがまるでわからん、ということだけがよくわかった
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配置場所:摂枚保存書庫2
請求記号:135.9||F||1
資料ID:28712496 -
生権力の概念をコンパクトに展開した章が白眉。史料考証は抑えてあるものの、フーコーの統治性論のエッセンスが示されてある。同氏の70年代後半のコレージュドフランスと合わせて読むことで、綿密な考証と概念枠組みの素描が一体となり、非常に重要な著作群であることが認知されてくる。
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