知への意志 (性の歴史)

  • 新潮社
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レビュー : 23
  • Amazon.co.jp ・本 (217ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105067045

作品紹介・あらすじ

一つの社会は権力、快楽、知の関係をいかに構成し、成立させているか。フーコー考古学の鮮やかな達成。

感想・レビュー・書評

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  • フーコーは、死の直前に「性の歴史」の第2巻と3巻を発表し、最終巻の「肉の告白」の完成を目前にしてそれを果たせずになくなってしまった。その原稿は、「開けてはならない」箱に保存されたのだが、フーコーの死後十分な時間がたったということか、今年、ついに発表された。

    ということは、近いうちにその翻訳版がでるに違いないので、そこに向けて、1巻を再読し、長年読もうと思いつつ、読んでなかった「性の歴史」の2〜3巻を読むことにした。

    さて、その第1巻「知への意思」は、1976年に発表されていたのだが、翻訳版は1986年とかなり遅れている。

    当時、待望の翻訳みたいな感じで、わたしも当時、読んだ。

    そのときの印象は、「フーコーとしては、結構、わかりやすいね」というものと、「面白いけど、ここまで言っちゃうと、お先真っ暗で、なんか希望ないな〜」というものだった。

    あらためて、読んでみて、30年くらいに前に、なぜ私が「わかりやすい」と思ったのか、全く不明で、かなり難しい。

    とくに、「◯◯ということではない」みたいな文章が多くて、◯◯というところは、わたしがきっとそういうことだよね、と思ってしまうことが入って、ことごとく私の先読みを否定されていく感じ。

    となかなかに手強い本で、理解からはとても遠いのだが、ここにまさに私が最近問題としていたことが、ぎゅっと圧縮されて、書いてあるという感じがした。

    つまり、私はなにものであるか、という素朴な実在論的な問いがあって、それは社会の抑圧によって隠されている。が、真実を知れば、人は解放されて、自由になることができるという物語。

    だが、そこに気づいて、そこから解放されるというのも、同じディスコースの内側のヴァリエーションに過ぎないわけで、そこに出口なしの悩みがある。

    というわけで、第2巻と3巻にこのままのいきおいで、読み進めることにする。

  • 現代社会の「権力」というものを考える上で、避けては通れぬ古典です。佐々木中氏の読書案内で最初に紹介されていたこともあり、とりあえず購入しました。

    わたしにとって『言葉と物』はまるで歯が立たず5年くらい積読しておりますが、こちらは何とか読めました。比較的薄い本ですし(その割に高いですが・・)、第5章あたりはノートやWikipediaを使わず読んでもなんとか分かります。もちろん「俺はフーコー読んだ!」という達成感もありますので、まずは一冊という方にはおすすめです。

    全体を通しての主張は、(フロイト的)"抑圧の仮説"に疑義を呈し、「性の言説化」という全社会的事業にこそ注目せよ、というものです。よってフロイト精神分析についてある程度知っておかないとなかなか論旨を捉えにくいと思われます。本書読解の前提知識として仕込み直すことをおすすめします。

    近代の権力が使ってきた手法・メカニズムに向けられた筆致の鋭さは痛快です。そして著者はただ警告を発するだけではありません。そこには"必ず抵抗が存在"(P.123)し、"生は絶えずそこ(=生を支配し経営する技術)から逃れ去るのだ"!(P.180)という著者の強いメッセージ。わたしはこのことを改めて心に刻み、信じるべきではなかろうか。

  • 配置場所:摂枚保存書庫2
    請求記号:135.9||F||1
    資料ID:28712496

  • 生権力の概念をコンパクトに展開した章が白眉。史料考証は抑えてあるものの、フーコーの統治性論のエッセンスが示されてある。同氏の70年代後半のコレージュドフランスと合わせて読むことで、綿密な考証と概念枠組みの素描が一体となり、非常に重要な著作群であることが認知されてくる。

  • つなおすすめ

  • 続刊と比べると、モリアキ先生の訳の素晴らしさがよくわかる。

  • そういえばフーコーを読んでいなかったということに(今更)気づき、慌てて読んでみた次第。

    権力というのは最近の関心ごとの一つなのだけど、それを描写する際に性に着目したのはかなり慧眼だったのではないのかという印象を読んでいてもった。性と現代の宗教を権力という観点から比較してみたい。

  • フーコーのかの有名な<生-権力>の概念が登場した一冊である。
    従来の、抑圧の主体としての権力、そして国家とか目に見える形で現れるものとしての権力、という権力理解を乗り越える。権力には、普段の生活の、人々の選択や思考の中に現れるミクロな権力から、人口や統計といったものでマクロに人々を統御する権力まであり、それらは必ずしも抑圧という形をとって登場するのではなく、むしろ人々の欲求、快楽と相互保管的にも作用するのである。権力のミクロ=規律権力とマクロ=生-権力の両端を繋ぐ最も重要な留め金となる概念として<性>という問題が提起される。

    この本は性の歴史研究の序論であり、研究のパースペクティブを提示するものに過ぎないが、その斬新な問いの立て方は、今でもより深く追求し批判することのできるものであり、まだしばらくは色褪せないものとして我々の注意を引くだろうと思われる。

  • 一つの社会における、権力と快楽と知は、いかにして関係するか――。


    性とはそもそも、秘すべきものとしてはじめからあったのではなく、たとえばカトリック教会における告白の要請など、「制度」が性について語ることを煽動したことによって、語る=暴くために隠すようになった。
    いわば、制度の必要に伴う変化だったのである。

    「18世紀以来、性は絶えず全般的な言説的異常興奮とでも呼ぶべきものを惹き起こしてきた。しかも性についてのこれらの言説が増大したのは、権力の外で、あるいは権力に逆らってではなかった。それはまさに権力が行使されている場所で、その行使の手段として、なのであった。」(P.43)


    我々の、性にまつわる言説への意識を反転させ、権力の表象へと眼をひらかせる、明晰にして官能的なミシェル・フーコー。
    その、なまめまかしく悩ましい文体の快楽!

  • いいものはいい!

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著者プロフィール

1926-1984。フランスのポワチエに生まれる。高等師範学校およびソルボンヌ大学で哲学と心理学を専攻。1955年からスウェーデン・ウプサラのフランス学院院長、つづいて1960年まで、ワルシャワ、ハンブルクのフランス学院院長を歴任。クレルモン=フェラン大学、チュニス大学、ヴァンセンヌ実験大学の哲学教授を経て、1970年よりコレージュ・ド・フランス「思考システムの歴史」講座教授。1970年と1978年の二度来日。1970年代後半から80年代にかけて、しばしばアメリカ滞在(特にカリフォルニア大学バークリー校で講義)。1984年6月25日、パリのサルペトリエール病院でエイズにより没。

「2020年 『精神疾患と心理学 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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