両方になる (新潮クレスト・ブックス)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901523

感想・レビュー・書評

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  • 言葉遊びと独特な世界観に早いうちから「わからん…」と挫折しそうになったけど、面白い、と言われている理由がどうしても気になって知りたくて読了。いや、面白かった…。
    「仕掛け」に関しては、どっちから読んだところでこの話への印象がそんなに変わると思わないので、一度忘れたい!とはならない。難解な語り口にくじけそうになっても、多少読み飛ばしてもいいのでとりあえず進めていってほしい。大まかに流れを把握できたらちょっと戻って、とやっていけば、紐解いていくように「小説」としての形で楽しめると思う…。個人的には、「目」のストーリー(画家の過去の生涯の話が)とても好き。

  • 読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンスの魅力』だった。そしてやっと見つけた。フランチェスコ・デル・コッサ画「男性の肖像」。黒い帽子をかぶった男がじっとこちらを見ている。

    その意志的な眼もだが、特徴的なのは窓枠と思われる縁をこえてこちらの方に突き出された指輪をつまんだ左手だ。二次元の絵画からそこだけ三次元になったように突き出して見える。なるほど、これがバルトか。そういわれてみると、そのような気がしてくるから不思議だ。もちろんフィクションなのだから、そんなことはあり得ないのだが、本作の主人公の一人がフランチェスコ・デル・コッサその人なのだ。

    この本には「第一部」が二つある。まちがいではない。聞くところによれば、流布されている本の中には、二つの「第一部」の順番が入れ替わっているものがあるとか。手許の本の場合、フランチェスコ・デル・コッサを主人公とするクワトロチェントの画家の物語は後半に置かれている。どちらが先でも構わないということらしい。なかなか面白い趣向ではないか。

    それでは前半に置かれた「第一部」はというと、舞台は現代のイギリス、オックスフォード。主人公は十六歳の少女ジョージ。女なのにジョージはおかしいだろう、と思うのは当然だ。実は、60年代にヒットしたザ・シーカーズの『ジョージー・ガール』にちなんで、母がつけた名前なのだ。懐かしい!元々は同名のイギリス映画のタイトル曲で、実は主人公のジョージィは、男っぽくてあまりさえない女の子に描かれている。自分の大事な娘にそんな名前をつける母親ってちょっと変わってる。

    男の名を持つ女の子、というのが『両方になる(How to Be Both)』という本のテーマに関わってくる。もう一つ、実在するフランチェスコ・デル・コッサという画家が、この本の中では女性とされている。当時女性の画家はいなかった。その腕を惜しんだ父親の機転で、男性として絵を描く仕事に就いたのだ。先に触れたバルトは子どものころからの親友で、女であることがばれて一時疎遠になるも、後にまた友人となる。肖像画は結婚して父の跡を継いだバルトを描いたものということになっている。

    二つの物語は、フランチェスコ・デル・コッサの描いた絵を間にはさんで、表と裏、前と後ろの関係になっている。邦訳はジョージの物語から始まるので、かいつまんで紹介する。ジョージは母親の喪に服している。美術史を学び多方面で活躍していた母が突然病死し、父は酒浸りとなり、ジョージは笑わなくなった。生前、母がジョージと弟をつれ、訪れたのがフェラーラの宮殿に残されたフランチェスコ・デル・コッサの描いたフレスコ画だった。

    当時の母は、友人リサとの間がこじれてすさんでいたが、その絵の前では生き生きして見えた。母は政治的な活動にも参加しており、一度現役政治家を揶揄したことで当局に目をつけられていた。郵便物も開封されていたらしい。リサは互いに惹かれあう関係となった同性の友人だったが、その正体が知れないところがあり、関係を断っていたのだ。ありていに言えば当局のスパイではないかと疑ったわけだ。その後母は急死している。

    いじめにあったのがきっかけでジョージに心の許せるやはり、同性の友だちができる。二人は協力してフランチェスコ・デル・コッサについて調べたことを発表しようと決める。つまり、もう一つの「第一部」は、二人が創作したクワトロチェントの画家の生涯についての物語、というふうにも読めるわけだ。もちろん、そう読まねばならない理由はない。というのも、フランチェスコ・デル・コッサの方も、ジョージを見ているからだ。当然生きてはいない。突然現代のイギリスに空から舞い降りた形になっている。実体はない。姿は見えないし声も聞こえない。まあ、幽霊のようなものと考えてもらえばいい。

    フランチェスコが降り立ったのが美術館。目の前には自分の描いた絵を見る少年がいた。15世紀の画家の目にはジョージは少年に見えたのだ。ジョージは美術館でフランチェスコ・デル・コッサ描くヴィンチェンツォ・フェレーリを見ている問題の母の友人リサを見つけ、後をつける。引きずられるようにフランチェスコもその後を追う。後半の物語は、画家が語る自分の生涯と現代でジョージが行うリサの監視を話者として物語る構成になっている。

    タイトルの意味は、男と女、友人と恋人、母と娘、その他数多ある組み合わせの「両方になる」ことを意味しているようだ。前半に埋め込まれたいくつもの伏線が、後半の物語の中で回収されていくわけだが、その逆もある。DNAの二重らせん構造のように二つで一つの物語になっている。後半の物語にはフランチェスコ・デル・コッサと同時代の画家、コズメ・トゥーラや、弟子のエルコレなど、クワトロチェントの画家が、多数登場するのも美術好きにはたまらない。画集などを引っ張り出してきて、いちいちあたってみるのも愉しい。

  • 読み終わったときに(そしてある"仕掛け"を知ったときに)まさに「両方になる」ことを体感できた。そもそも一つの出来事に対して抱く感情はひとつだけとは限らない。というか、ほとんどあらゆる全てのことに対して、相反する気持ちを同時に抱くのが人間なんだろうな、と感じた。嬉しいんだけど悲しい、とか。満たされているけど不安、とか。傷つくと同時に深い安堵感、とか。どれかひとつだけを”正解”として選ぶ必要はない(それでもついジャッジしてしまいがちなんだけど)、なんだかよくわからないけど全てが正解なんだ、と思えるような懐の深い小説。ネタバレしたくなくてこんなぼんやりした感想に。

  • 『若い男か女、どちらでもありえそうな人物がいる。美しく華やかな服を着て、手には矢か棒のようなものと金の輪を持っている。まるですべては魔法を使ったゲームだと言いたげだ。男、女?と絵の下に立っている母にジョージが訊く。さあね、と母が言う。母はほほ笑みを浮かべながら、ぼろを着た男を指差し、次に宙に浮かぶ女、そして華麗に装った、遊びや芸術が好きそうな人物を順に指し示す。男、女、両方と彼女は言う。みんな美しいわ、羊も含めて』―『第一部(監視カメラ)』

    「五月、~」に刺激を受けて、アリ・スミスの長篇を読む。案の定、一筋縄ではいかない小説。すらすらと読み通すという感じではない。けれど読む速度は印象に反して徐々に上がる。

    主人公(たち)の生真面目さは作家のそれを反映したものなのか。「非情に軽いタッチで」と翻訳者が評するアリ・スミスの文体は確かに一見ふわふわと落し処が定まらないようではあるけれど、それは一つの言葉に付着した多様な意味を巡りながら芯に近付こうとする「真面目さ」に溢れたアプローチであるようにも思える。あちらこちら漂っているようでありながら、それは何処か一つ処の周りをぐるぐると旋回しているよう。文法、言葉の定義に執着するティーンエイジャーの主人公とその母親という組み合わせは、イーユンリーの「理由のない場所」を思い出させるが、この小説の中で亡くなっているのは子供の方ではなく、母親の方。しかし果たして、本当にそうだと言い切ってよいのか。アリ・スミスの問い掛けるような文章に触れていると、それさえじわじわと曖昧になる。

    旋回[ツイスト]、と言えば、この本は構成そのものが、遺伝子の二重螺旋、を意識しているように読める。各々「第一部」と掲題され、ノンブルもふり直された二つの小説は、観る側と観られる側の二人の登場人物が入れ替わり進行する。また、本来、順序としては第二部となるべき「目」のイラストが中表紙に描かれた「第一部」は、「始まり」と「終わり」の文章が「螺旋」を思わせる段組みで記される。本全体が二重螺旋を思わせる非常に凝った作り。

    それは「対[ペア]」となるもの、「男と女」あるいは「今と昔」のように二項対立しがちなものの組み合わせが、二つで一つという世界に繋がっていることを意識させる。「アデニン - チミン」、「グアニン - シトシン」、連綿と続くその組み合わせの鎖のどちらからでも「同じもの」が複製される。オリジナルに拘ることの怪しさが示唆的に内包されているような生命の絡繰り。「両方になる(How to be both)」というタイトルの意味の一端が見え隠れする。この作家は、単純なシスターフッドや多様性を信奉している訳ではなく、本来的な斉一性を信じているのだろう。

    二つ目の第一部を読み始めた途端、つまり観ていた側の人物が観られる側へと転じた途端、少し小難しい年頃の主人公が母親を亡くしたことによる喪失感から抜け出す物語だと思っていた小説は、一気により普遍的な題材を扱う小説へと変貌する。それもたった一言、観られていた側の人物が観る側になって発する「絵の前にいる少年」という一言によって。翻訳者は、こちらの第一部を最初の第一部の登場人物による創作である可能性を示唆するが(確かにFrancescoがFranceschoと綴られることに隠された意味についての解釈は興味深い)、それがそうであってもなくても、どちらであっても提起される問題の本質が変わることはない。視点が変われば全ての意味は変わってしまう。「A」にとっては「T」が従だが、「T」にとっては「A」が従。「主」となる視点が常に正しいとは限らない。第一部でカウンセラーとの会話を通して投げ掛けられたその問いは、二つ目の第一部で時間の経過による視点の変化を通して強調される。

    『私には、彼の顔が初めて見える。まず目に入るのは、目の周りを囲う悲しみの黒だ (鼻梁上端の両脇に、曲線に沿って塗られた、焦げたピーチストーン色)。少年はまるで、影に浸した白い毛皮のようだ。それから私は、彼がとても少女っぽいことに気付く。この年頃にはよくあることだ。偉大なるアルベルティ、母が私を産んだ年にすべての絵描きのための本を出版し、そこに(少年や若い女の動きに対して)男の動きには力強さが足りないと記し、両方になるのに必要な柔軟性と簡素さを理解していた人物』―『第一部(目)』

    もしかすると、実在したルネサンス期の画家フランチェスコ・デル・コッサがつぶやくこの言葉に、作家アリ・スミスの言いたかったことは集約されているのかも知れない。

  • テーマはまさに「両方になる」。
    読み進めていかないと、いっても、理解できたのかはわからない。不思議にあたたかい読後感で、わからないのに、良いものに出会えたということは確かに感じる。
    どういう思想をしていたら、こういうお話が書けるんだろう。

    "仕掛け"の件があるので、内容を程よく忘れた頃に再読したい。

  • 多分作者は自己顕示欲が少ない人なんじゃないかなあ。わかってもらえない人にわかってもらう努力をするより、その世界観の存在を守ることをしたい人だと思う。この本が訳され世の中に出た頃も、やれ仕掛けが、読んだ人にしか味わえない、とかの煽りにうんざりしたけども。個々がそれぞれ自分で味わえばそれでいいと思う。映像作品と違い、読書に共感は必要ないと思っている。独りで歩き、独りで対峙する。そのことの一つが読書だと思う。

  • 友情と家族愛に満ちた不思議でどこか切ない物語。現在と過去、男性と女性、正義と不正、父と母…。この本は対立概念の両方になる物語だと思う。
    両方になることは両方を手にすることではなく、むしろそれぞれの概念からの解放なのかもしれない。

    私はこのように受け取ったけれど、読む人の数だけ解釈があるんだろう。しかも、全く異なる解釈が。それがこの本の素敵なところ。

  • さすがジョイスを生んだイギリスらしい、知的興奮を誘う小説だった。ただし、この本を読むのにはかなりのエネルギーを要する。休み休み、行ったり戻ったりしながら、結局読み通すのに十日ほどかかってしまった。「両方」とは時間、空間、性別(ジェンダー)等々、様々な要素が織り込まれているわけだが、それを謎解き風に分析していてはこの小説の面白みがなくなる。ひたすら、この小説世界の中に耽溺して不思議な時間を過ごすことに意味がありそうに思う。音楽に例えると、形式なり内容なりが簡単に伝わってくる古典派音楽、せいぜいロマン派音楽を情緒的に聞いていると、それなりにわかった気になるが、60年代以降の現代音楽では、そこに意味を見出そうとすること自体が無意味な音楽を聞くのと同じではないかというのと同じような感覚で読んでしまった。いやぁ、面白い本だが、もう一度読みたいと思うだけのエネルギーはもうない。

  • 翻訳家泣かせなのか翻訳家冥利につきるのか微妙だが、非常にご苦労された後がうかがえる。文節文節、読んでて楽しいのだが、全体像、つまり二つの物語の連結ポイント。を捉えるのはけっこう難しかった。その壮大な試みは訳者あとがきを読んで判った次第でそこまで含めて、読んで良かったと思えました。実験的な小説。

    • トミヲ(oıɯo⊥ ıʞɐzɐʎıW)さん
      文学的表現に溢れておりセンテンスは読んでて楽しいが、全体を捉えると技巧がありすぎて理解しにくさが多少あった。
      訳者あとがきを読んで色々と納...
      文学的表現に溢れておりセンテンスは読んでて楽しいが、全体を捉えると技巧がありすぎて理解しにくさが多少あった。
      訳者あとがきを読んで色々と納得。読んでよかったと思った。
      2019/01/10
  • 15世紀の画家と現代の少女の物語。ト書きのような、頭の中で考えていることをそのまま文字にしたような、リズム感がある短めの文が多く、テンポよく進んでいく。時間も場所もあちこちに移り変わるので、はじめはついていくのが難しい。でも、読み進めていくうちに心地よくなってくるし、2人の物語の繋がりが少しずつ見えてくるというのもおもしろい。前半部で何をしているのかよくわからないながらも印象に残った「その様子はまるで幼虫がさなぎから出て羽を伸ばし、大きな回り道を終えた成虫が姿を現しているかのようだった。」という部分は、後半部を読んでから感動してしまった。
    『両方になる』というタイトルどおりに相反するものが多く出てくる。「両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。」「誰がそう決めたの?どうしてそうでなくちゃいけないの?」二項対立で単純に割り切るのではなく、複雑なものは複雑なものとして受け止めるという姿勢。それがあるから、読んでいて心地よかったのかと思う。

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著者プロフィール

1962年スコットランド生まれ。現代英語圏を代表する作家のひとりで短篇の名手としても知られる。『両方になる』でコスタ賞など受賞多数。おもな著書に、『秋』『冬』『夏』『春』の四季四部作など。

「2023年 『五月 その他の短篇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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