初期万葉論 (中公文庫 B 20-2 BIBLIO)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122040953

作品紹介・あらすじ

万葉集の「見る」という語は、自然に対して交渉し、霊的な機能を呼び起こす語であった。人麻呂の解析を中心に、呪歌としての万葉歌、秘儀の方法としての歌の位置づけを明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • <立ち上がる万葉の呪歌>
    世界に冠たる白川漢字学を築き上げた碩学白川静は、漢字研究に取り組んだ初発の動機に、「万葉集」を読みたいがためだったと語っている。
    「万葉集」は漢字(万葉仮名)で書かれている。
    それを漢字から理解するために、漢字学を志すと言うのだから、なんたる壮大な遠回りか。
    そして、その壮大な遠回りが生み出した業績の何と巨大なことか。

    白川の漢字研究は、漢字を生み出した本場中国における研究も一気に抜き去り、驚嘆すべき最高峰のレベルに達した。
    今や漢字学の権威は中国にあらずして、日本にあり、なのだ。
    それは、白川によって、甲骨文字に刻まれた最古の漢字を徹底的に研究することで達成された。
    白川が登場するまで、漢字学のバイブルは、後漢時代の「説文解字」だった。
    その権威たるや2000年にわたり君臨した。
    白川は、その盤石と思われた「説文解字」の虚妄性(勝手なる思い付き)を容赦なく暴き出し、甲骨文字という物証に基づく全く新しい漢字学、白川漢字学を作り出してみせたのだ。
    (尤も、「甲骨文字」の存在を知らない時代の「説文解字」は大きなハンディキャップがあったことは間違いない)
    その偉業を成し遂げる原点に、漢字(万葉仮名)で書かれた「万葉集」を読みたいと言う目的があったのだ。

    本書は、白川が本来取り組みたかった課題に、漢字学を大成した後に、満を持して挑んだ万葉論だ。
    だから、そんじょそこらの万葉論とはレベルが格段に違う。
    特に、柿本人麻呂「阿騎野冬猟歌」解釈の衝撃度は凄まじい。
    この項(「呪いの歌の伝統」)を読むだけでも、この本を紐解く価値がある。

    「阿騎野冬猟歌」の人口に膾炙した歌は、
     「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」だ。
    これを「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて 反り見すれば 月傾きぬ」と読むのも凄い(普通「月西に渡る」と読んでしまう)が、その内実は人をして震撼せしめる。

    この歌は、持統天皇の孫にあたる軽皇子(文武天皇)の冬猟に侍従した柿本人麻呂が読んだ有名な歌だ。通常は、<壮大な自然情景を詠んだ万葉詩歌の傑作>として紹介される。教科書でそう教わったはずだ。
    しかし、白川は、この歌は叙景歌などではさらさらなく、死んだ魂を甦らせる「呪いの歌」だと言うのだ。
    つまり、若くして亡くなった皇太子の魂を呼び覚ます「魂乞の神事の歌」であると解釈する。

    何故、既に亡口なっている皇太子の霊を甦らせることが必要なのか?
    それは、この皇太子の忘れ形見、軽皇子に皇位を継承させるためなのだ。
    既に亡くなっている皇太子は、草壁皇子。彼は、持統天皇と天武天皇の間の皇子だ。
    天武の皇子には多くの優秀な皇子たちがいて、その皇子たちは天智王朝を滅ぼしたクーデタ、壬申の乱で活躍していた。
    その中にあって草壁皇子はそれほど活躍していない。
    大活躍したのは、天武に生き写しと言われた大津皇子。母親は持統の姉。その母親も持統も天智天皇の娘だ。
    血筋から言っても、人品人柄から言っても申し分ない。
    天武の死後、持統はその大津皇子を殺害する。
    (その非業の死を遂げた大津皇子の霊が蘇る物語を折口信夫は「死者の書」で描いている)
    我が息子、草壁皇子に皇位を継承させるためだ。
    しかし、なんたることか、その最愛の息子は天皇位を継ぐことなく病死してしまう。
    持統が自ら皇位を継承したのは、本来、息子草壁皇子が継ぐ筈だった皇位を、草壁皇子の忘れ形見、持統にとっては孫に当たる軽皇子に継承させるためだった。
    だから、持統は中天皇(中継ぎの天皇)と呼ばれる。

    しかし、祖母から孫への皇位継承など前例がない。
    それを、神話によって正当化した(祖母である天照大神から孫である瓊瓊杵尊への皇位継承の物語)のが藤原不比等だとすれば、言霊によって正当化しようとしたのが柿本人麻呂だったのだ。

    「阿騎野冬猟歌」と称される長歌1、短歌4からなる人麻呂の歌は、持統から文武に引き継がれる天皇霊を、一旦草壁皇子を経由させることで、持統朝の正統性を内外に示すイデオロギー的、呪術的な目的が込められていた、と言うのだ。

    沈みゆく月(「月西渡)が表象するのは日並皇子(草壁皇子)、
    上り行く太陽(「東野炎立)は軽皇子(文武天皇)、
    その両者を同時に見る位置にいるのは、持統天皇(中天皇)の代理としての人麻呂。
    こうして、歌を通じて、
    「月=日並皇子(草壁皇子)—>持統天皇(中天皇)—>日=軽皇子(文武天皇)」という、本来あるべき皇位継承の流れが「呪歌」によって正当化される。
    そのためには、一旦、死者である草壁皇子は甦らなくてはならない。
    甦りの日は、ある特定の日でなければならない。
    日の出と月の入りが同時に起こる日。
    軽皇子と人麻呂は、その日を目指して阿騎野に出向いたのだ。
    決して猟を行うとためではない。

    「雄渾な叙景歌」という評価は、現代的な歌の観点からこの歌を見た「時代錯誤」的解釈であることが分かる。そんなスッキリとした自然を詠んだものではないのだ。
    漢字が本来有する「呪術性」を最大限に生かした歌であり、柿本人麻呂こそ「呪歌」の大成者であったというのが、白川の結論だ。
    文字(漢字)の持つ呪術性を探り当てた白川だからそこ辿り着けた人麻呂の「呪歌性」だ。
    白川の漢字学の本をどれでも紐解いてみると良い。
    ひとつひとつの漢字が持つ呪術性がメラメラとたちのぼり、漢字自体が得体の知れない「何ものか」に見えて来て、頭がクラクラしてくるだろう。

    東から朝日が上り、振り返ると満月が沈みゆく情景は、阿騎野において、ある時点が特定される。
    その日を狙って、阿騎野行きが計画されたのだ。
    フランスに駐在時代、これと全く同じ情景を目撃して、異様な感銘を受けた。
    10月暮の朝まだき、会社に向かう車の中でバックミラーに当然映った燦然たる朝焼け。真正面の小高い丘には今しも白銀の満月が沈もうとしていた。
    これか、人麻呂が見たのは!
    天体の特異点に臨んだ人麿と文武の感銘を、遠くフランスの地で共有したと、その時思った。

    ともあれ、文字の持つ呪術性に感応しながら、この歌を万葉仮名で読み、「東と西」「太陽と月」「赤と白」「生と死」といった対比の妙を味わうのも一興。

  • 漢字や古代中国文学の研究家というイメージの白川静であるが、万葉について考説を試みることは、素願の一つであるということ。万葉を理解するために、万葉仮名、それを理解するために漢字のなりたちみたいなルートで遡っていった。

    その成果を万葉に当てはめた、とくに詩経との比較文学的な方法論をとったということのようで、この取り組みのあまりの壮大さに愕然としてしまう。

    内容は、難しくて、というか、そもそも万葉集を読んでいないので、なにが議論されているかもよくわからない。

    それでも、古代においては、まだ作者という概念はなく、自然を純粋に描写するような概念もない。とても呪歌、言葉の魔力によって、神、魂、死者に働きかけようとする試みだとする。

    それを具体的な歌の分析で示していくところが鬼気迫るものがある。

    さて、こうした歌の性格は、古代が残る初期万葉で、後期には急速に変化していくとのこと。それは、ある意味、律令国家という、ある種の法治国家の整理によって、呪術的なものが失われていくこととつながっていく。

    そういう古代性の衰退が、個人という意識を生み出し、それが歌として表現されるようになったということかな?

  •  「東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」における天皇霊の継承受霊が、中心だろう。雄略天皇歌における草摘みを魂振りのための予祝と述べるなど、基本的に、万葉集を呪術として読んでいく。そしてその術の裏には、貴族の宴会で作られたとかではなく、巡遊者たちがいたことが結論づけられている。それというのも、人麻呂の属する柿本氏人が、春日の和珥の分支であり、かれらは巡遊神人であったといわれ、額田王も小野神信仰に連なるものであり、前期万葉の歌は、巡遊者集団と深い関係にある。
     呪術と巡遊者集団と国家プロジェクトが結びついたのが万葉集であったことを述べている。

  • 私にはこの本を読むための前提となる知識が欠けているようだ。それでもともかく読んでみた。著者の漢字論と同じく人麻呂のころの呪術的な世界観を説いていく。大化の改新前後、天智・天武や壬申の乱ところの歴史の知識を仕入れたくなった。

  • 白川氏らしい洞察もありながら、独断的に感じる部分や、あまり興味をそそられない部分もあり。評価が難しい一冊。

  • 白川静さんは、万葉集を考えるために中国古代文学をはじめた、というのがまず驚きです。

  • 比較文学的和歌論

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