わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫 イ 1-3)
- 早川書房 (2006年3月31日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (537ページ)
- / ISBN・EAN: 9784151200342
感想・レビュー・書評
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ハードボイルド探偵が、上海で失踪した自分の両親を探す。
全く普通の探偵物語と思いきや…あれれ?という展開に。
そう、孤児であることで得られた想像力が、私たちを冒険に誘うのだ。
もちろん、カズオ・イシグロさんならではの残酷な展開ではありますが、
私は息子がいるので、真相をめぐるお母さんの気持ちに、涙。
ああー古川日出男さんのあとがきが全て。
「あなたは孤児になるために、この本を読むんだよ」
…なんと奥深い! -
大好きなカズオ・イシグロ。
『日の名残り』を読んで以来、夢中になり順番に読んで来ました。
これで彼の物語で翻訳され本として出版されているものは全て読んだことになります。
『わたちが孤児だったころ』は正直、私にとっては難解で読み終えるまでの時間が1番かかった物語でした。
カズオ・イシグロの物語は全容がけっこう読み進めないと見えてこないという印象が強いですが、特に今回は本当に最後の最後まで良く分からず・・・
ただその分、残り十数ページで全てが繋がりはじめた時の快感は格別でした。
最後のページの最後の行を読み終えた瞬間、主人公が物語の中で見てきた風景や彼の子どもの頃の思い出が、まるで自分がかつて経験したかのように次々と思い出されて行くのには驚きました。
しばらく時を置いてからもう一度読んだら、また違う受け止めかたができそうな一冊です。 -
『充たされざる者』と二卵性双生児の趣がある。
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カズオ イシグロの小説 私を離さないで が日本でテレビドラマ化されるらしい。そんな事もあって、本棚を覗き、この本を手に取った。
彼の世界観を語れる程、私は彼の著作を読み込めてはいないかも知れない。しかし、何か共通する底流のようなものが、あるような気がしている。孤児というキーワードは、大人が押し付け抗えない運命により、子供が置かれた状況だ。運命による無力感は、子供だけではなく、戦争状態に置かれた大人、組織の利害の渦中に置かれた大人にも生じる。そう、大人であっても、孤児同様、抗えない運命に左右されるのだ。この事が、日系英国人としての運命を背負ったイシグロの醸す雰囲気の原点なのかも知れない。
我々は、より大きなものの利害により、自らの選択肢を狭められ、時に選択を強制される。両親の選択、叔父や友の選択。選んでいるようで、実は選ばされている。この物語のどこに救いがあるというのか。いや、あった。物語の最後、彼は自ら孤児を引き取り、暮らしを選ぼうとするのだ。ようやく初めて、タイトルの通り、孤児は過去形になるのである。 -
カズオ・イシグロの想像力は現実の枠を超える。そのことは「私を離さないで」を読んでよくわかったのだが、本作でも子供時代の探偵ごっこそのままに探偵になった男が登場する。彼が戦火の上海で20年前に行方不明になった父母を探し始めるに至り、この小説は「私を離さないで」のような妄想を籠めたフィクションなのか、それとも現実の範疇に収まる話なのか、が気になってくる。結果はここには書かないけれども、彼の想像力の巨大さに今回も圧倒されてしまった。その意味で、期待を裏切らない一作だったと言える。
思えば、カズオ・イシグロ自身が子供時代のごっこ遊びをそのまま頭の中に抱えているのかもしれない。
「ノスタルジックになるっていうのはすごく大事なことだ。人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。子どもの頃に住んでいた今よりもいい世界を。」
(444ページ) -
失踪した両親を探すため、第二次世界大戦前夜の上海の巨大な流れの中で丸腰の主人公の要求が簡単に人を動かすことができる途轍もなさ。
「呆れる」としか言いようのない都合の良い展開と思えたが、どんな大きな流れでも良し悪しの事象は超個人的な欲望が核心に存在し、力を持つものが機動力を持つのだと分かる気がした。
(どんな大人物だったとしても、それだって生身の人間なのに、どうして社会はその人物を怖がり、それを覆すことができないんだろう。たとえば、あの国のような指導者についても・・)
コンプレックスがないと小説は書けないと言うが、カズオ・イシグロの強いコンプレックス(国籍やアイデンティティの問題)をここでも感じる。彼の生い立ちを知らない方がこの小説を楽しめるかも。
いつもの回想の語り口は昨日のような近接過去でも「今」現在の話としてとらえられない。薄暗闇で手探りしてる表現が時間の感覚を朦朧とさせる。
無知過ぎた私は、以前、陳舜臣の「阿片戦争」をなぜ中国は麻薬を欲しがったのかと思って読んだら、阿片という悪と戦う話だったのに驚いた。ここでまた「阿片」が出てきてHello againな思いがした。
中国の「阿片」を考えると闇の深さにのとてつもなさに思い当たる。知らぬが仏。この小説で感じる「呆れ」はそんなところにも通じているのだろう。
それでも世界を良くしようという人のいることにわたしはときどきびっくりしてしまう。 -
独特の雰囲気があります。よくわからないけどひきつけられる。訳もいいんだろうなあ。
「わたしを離さないで」よりはエンタテイメントじゃなかったです。「孤児」の意味が、あとでどんと来ます。 -
どこか不安を持たせながらも、ぐいぐいと読ませていく筆致が素晴らしい。
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カズオ・イシグロの本を読むのは、これで7冊目になる。流石に少し、信頼できない語手にも飽きてきた。文庫本末尾の解説を読むに、おそらく初読の方であれば、この本に没入することもできたのだろうが、読み慣れてしまった人間にはそれができない。カズオ・イシグロという、書き手そのものの存在がノイズとなってしまっているのだ。
だが、それだけが彼の作品の魅力ではない。たとえ、初読者の感動を得ることができなくとも、彼の作品の中には等身大の人間がいる。それは、主人を亡くした執事や、敗戦国の画家という形で現れるが、彼らに共通している無常感こそが、私が真に求めるものなのだ。
信頼できない語手というのは、客観的現実を受け入れられずにいる彼らの内面を、主観的に描写したテクニックに過ぎない。このテクニックにより、読者は語り手の目線で世界を眺め、その歪さに時折気付かされながらもページを捲り続けることができるのだ。それは、語り手本人の世界への対し方と類似している。読者は、まるで役者のように、語り手の立場になって想像上の劇に参加することができるのだ。そこから得られる没入感は、中々他の小説からは得られない。
先ほど述べたように、カズオ・イシグロの作品の特徴は、この信頼できない語り手と、その無常感である。まるで、イギリス国民が大英帝国の栄光を懐かしむように、彼らはノスタルジックに浸るのだ。その様子は、客観的に見れば無様で見苦しいものだろうが、信頼できない語り手は読者を自分の味方にしてしまう。その瞬間、読者は当事者の目線から、盛者必衰の理を眺めることができるようになるのだ。そこに現れる物悲しさや、客観的現実を受け入れた後の清々しさからくる、一種のマゾスティックな快感は、ほろ苦い後味を読後に残してくれる。 -
系・院推薦図書 3系(情報・知能工学系)
【配架場所】 図・3F開架
【請求記号】 933||IS
【OPACへのリンク】
https://opac.lib.tut.ac.jp/opac/volume/468233 -
カズオ・イシグロの作品で初めて読んだもの。全部繋がってはいるけど、長かった。ジャンルをつけがたい不思議な作品。かなり読み進めて、ようやく物語が動き出した感があり、どこか欠けてもダメなんだろうけどやっぱり長かったなという印象。とにかく主人公のクリストファーにいらいらしてしまう。人間らしい作品。みんな思い込みで生きてるよな、いいわけいいながら生きてるよなを、突きつけられた。
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何でもない生活の描写や子供の頃の思い出話で惹きつける流石の筆力。でも回想が幾重にも重なり時系列が迷路のようで読みにくい。流れに身を任せて読み進めると段々と情景が浮かび上がる。長くも感じるが、最後の怒涛の展開は止まらない面白さなので耐えて読み切りたい。
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コロナ感染ひきこもり生活中、3,4,5日目で読んだ。少し読んでは寝たり、映画を観たり、ドラマを見たりしていたから記憶がいろいろと入り乱れている。サラとの関係も気になるところではあるが、何よりもアキラとの場面がもっとも印象深い。7歳や8歳の少年が、イギリスと日本を代表しているところがおもしろい。どちらが我慢強いかとか。アキラが日本には二度と行きたくないという気持ちになったのが何とも残念だ。戦後80年近く経ついまでも似たようなことが起こっているだろうから余計に。2人が中国人の部屋から瓶を盗んで、戻しに行く話があった。そのとき、父がいなくなったために、結局、アキラのところに向かうことができなかった。サラとマカオに逃げようとしているときもそうだった。両親が幽閉されている家を見つけ出すために、結局約束を破ることになった。両親がいなくなってから何十年も経っているというのに、どうしてずっとそこにいるというふうに思い込んでいたのだろう。そして、その家を探しているときに出会った日本兵は本当にアキラだったのか。それとも幻想だったのか。最後に、相手がどのような状態であろうとも、母親と再会できたのは良かった。そしてサラの後日譚。きっと怨んでなんかいなかったと思う。重厚な映画を観ている気分で読み終えることができた。カズオ・イシグロを読むといつも、躍動感のようなものはあまり感じないが、厳かな雰囲気を味わうことができて、大切な時間を過ごすことができる。そういう意味で僕は、本書は前半の方が好きだった。クリストファーがロンドンにいて、幼いころの上海を思い出しているところが。
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後半ぐだぐだだったが終盤で盛り返し一気にクライマックスな1冊だった。
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933
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上海の租界に暮らしていたクリストファー・バンクスは十歳で孤児となった。貿易会社勤めの父と反アヘン運動に熱心だった美しい母が相次いで謎の失踪を遂げたのだ。ロンドンに帰され寄宿学校に学んだバンクスは、両親の行方を突き止めるために探偵を志す。やがて幾多の難事件を解決し社交界でも名声を得た彼は、戦火にまみれる上海へと舞い戻るが…現代イギリス最高の作家が渾身の力で描く記憶と過去をめぐる至高の冒険譚。
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イシグロの時間の不思議な時間の扱い方に驚嘆する。
ねじれた結末については、どうかと思うわけだが。 -
カズオイシグロを読んでみよう!と手に取ったものの、語り口に馴染めず読了ならず。原文で読めばおもしろいのかな...
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チープな結論でびっくりした。
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わたしたちが孤児だったころ
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上海の租界に暮らしていたクリストファー・バンクス
10歳で両親が相次いで謎の失踪
ロンドンで大人になった主人公が探偵として名をなし
ついに両親疾走の謎を解くために中国へと向かう
やがて明かされる残酷な真実
淡々とした文章で読むのがつらい。
探偵ってこんなに権力あるの?という疑問や
主人公の突っ走りすぎる性格にイライラしたり。
シーーンとした読後感 -
第一大戦後から第二次大戦後までの時代を描く。
主人公は私立探偵で、彼の回想によって物語が綴られる。 -
カズオ・イシグロの小説を読んでいるときのこの胸をしめつけられる感じは結局なんなのだろうか、と考えてみると、個人的にはやはり「取り返しのつかない過去」について、否応なく気づかされることの切なさではないかと思うのだ。
「日の名残り」にせよ、「私を離さないで」にせよ、描写は基本的に「回想」なのだが、その中で頻繁に「あれは今思えば」とか「後で考えてみると」といった説明が差し込まれる。そしてそれがストーリーを追うごとにひたひたと積み重なっていく・・・
「わたしたちが孤児だったころ」は第二次大戦期前夜に上海で少年時代を過ごした主人公が、かの地で次々と失踪した父と母とを探す物語。孤児として母国イギリスに戻り、探偵として社交界で名をなし、運命に導かれるように再び上海の地に辿り着く。
この小説家の書く作品は毎回おそらく核心部分は同じだと思うのだが、うすい靄がかかったようにそこに容易にたどり着くことができない。こと本作に関しては、主人公が引き取った孤児のジェニファーに語りかける以下のセリフがもっともそれに近いものではないか、という気がした。
「時にはとても辛いこともある。・・・(中略)まるで、全世界が自分の周りで崩れてしまったような気になるんだ。だけど、これだけは言っておくよ、ジェニー。きみは壊れたかけらをもう一度つなぎ合わせるというすばらしい努力をしている。・・・決して前と同じにはならないことはわかっている。でも、きみが自分の中で今それをがんばってやっていて、自分のために幸せな未来を築こうとしているってことがわたしにはわかっている。わたしはいつもきみを助けるためにここにいるからね。そのことを知っておいてほしいんだ」(入江真佐子訳、ハヤカワEpi文庫) -
翻訳物は苦手ながらノーベル賞を受賞されたカズオ・イシグロ氏の著作ということで一冊くらいは読まなくてはと購入。
ロンドンの名探偵の設定からなかなか馴染めず読了まで時間がかかってしまった。
後半からは物語として面白くなってきたが、探偵である必然性が感じられなかった。
原文で読めれば深い部分まで共感できたのかもしれないが和訳がすとんと理解しにくかった。
前半の霧に包まれたような不可解な点が後半で解決に向かうのだが「母を訪ねて三千里」の戦中版のような気がした。 -
不思議な感じの小説である。主人公と周りの世界とのズレを匂わせながら展開していき、上海での両親探索にて主人公は異世界に入り込む感じになる。でも何事もなかったように終わる小説。
前に読んだ「日の名残り」も、同じく一人称独白振り返り式だったが、そちらは主人公のズレがエンディングで明らかになるのとは本書は一味違う。