- Amazon.co.jp ・本 (488ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163915432
作品紹介・あらすじ
二〇〇四年の暮れ、北町貫多は、甚だ得意であった。同人雑誌「煉炭」に発表した小説「けがれなき酒のへど」が〈同人雑誌優秀作〉に選出され、純文学雑誌「文豪界」に転載されたのだ。これは誰から認められることもなかった三十七年の貫多の人生において味わったことのない昂揚だった。次いで、購談社の「群青」誌の蓮田という編集者から、貫多は三十枚の小説を依頼される。貫多にとって純文学雑誌に小説を発表することは、二十九歳のときから私淑してきた不遇の私小説作家・藤澤清造の“歿後弟子”たる資格を得るために必要なことであった。しかし、年が明けても小説に手を付ける気にはなれなかった。貫多に沸き起こった、恋人を得たいとの欲求が、それどころではない気持ちにさせるのだ。貫多は派遣型風俗で出会った〈おゆう〉こと川本那緒子の連絡先を首尾よく入手し、デートにこぎつける。
有頂天の貫多は子持ちの川本と所帯を持つ妄想をする。しかし、一月二十九日、恒例の「清造忌」を挙行すべく能登を訪れた貫多は、取材に来た若い新聞記者・葛山久子の、余りにも好みの容姿に一目ぼれをしてしまう。東京に戻るや否や、小説家志望の葛山に貫多は自作掲載誌を送るが、その返信はそっけないものだった。手の届く川本と脈のなさそうな葛山、両者への恋情を行きつ戻りつしながらも、貫多は「群青」に短篇、匿名コラム、書評を発表していく。そして、「群青」九月号には渾身の中篇「どうで死ぬ身の一踊り」が掲載されたが、その反響は全く感じられなかった。同じころ、葛山からは返信が途絶え、川本にはメールが通じなくなる。順風満帆たる新進作家・貫多の前途に俄かに暗雲が立ち込めるのだった。
完成直前で未完となった、著者畢生の長篇1000枚。
感想・レビュー・書評
-
前半は、主人公の身勝手さや女性蔑視のひどさに呆れつつも、そんな主人公を客観的にみている語り手や古書店主の視点がときどき挟まれるおかげで読み進められた。己の身勝手さを自嘲する芸なんだろうとも思えた。でも、後半二人の女性が主人公に振り回され、女たちに惚れているはずの主人公がちょっとでも都合が悪くなると淫売だの口臭さだの罵倒しまくる描写に、もうほんとうに結構です、とページを閉じてしまった。こういう男、時々いるんだけれど、ほんと怖いんですよね。二人とも無事貫多から逃げられてよかったね、と思いました。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ブルドーザーのような馬力のある小説。
小説家に興味がないといいながら、小説家に対する憧れ、そして女にもてないという悩み。強烈な肉欲。最大のサポーター新川との関係。
アップダウンを繰り返しながらぐりぐりと進んでいく。身勝手な欲望や耳をふさぎたくなるような罵詈雑言にはやはりリアリティがある。普通は自分にも隠してしまうだろう身勝手な醜い欲望を暴きたてる。それがやはり人を驚かせるし、共感を呼び起こすのだと思う。めちゃくちゃ心無いけれど、確かにこういう感情を自分も持ったことがあるなと。
性についても考えさせられる。貫多の支配欲、暴力性、フェティシズムを孕んだ性欲はきつい。相手の心を無視していると思う。そして卑しく欲情する自己へ嫌悪もある。一方で承認されたいという願望の切なさはやはりリアルでなんともいえない気持ちになる。
ただ昔、賢太の作品を読んだ時には破滅的自己のすごい暴露に驚いたが、本作を読むとかなり盛っていたのだなとも思う。本作中でも針小棒大に書いたと言っている。ちょっとそこだけは鼻についた。罵詈雑言には作り物感を感じなくもなかった。
でも、「どうで死ぬ身のひと踊り」を彼がどんな気持ちで書いていたかを知ると、もう一度読まないとなと思う。 -
終盤に向けて畳み掛けるように、面白くなってきたところで、絶筆。読後興奮冷めやらぬ体で、歩き回ってしまった。北町貫多のこの後の人生もまだまだ読みたかった。作品への姿勢や執筆方法についても書かれていた。
北町貫多 三十七歳 二〇〇四年 「けがれなき酒のへど」『文學界』転載 から『どうで死ぬ身の一踊り』単行本の第二校終わりかけ 二〇〇五年十二月
『文學界』二〇一六年十二月号〜二〇二二年四月号連載
-
年末年始の読書課題やっとこさ読了。終わらない話を読んだ。読んでいて、貫多や、もうこの話自体を不快に感じる人も正直多いだろう。特に最後の最後、なんだかんだと貫多を見捨てず貫多の最終的なお金の頼み処でもあった落日堂の新川への罵声はもう最低中の最低である。しかしその新川がなぜか謝ってきて(なぜなんだ~⁈)今後の貫多を前に進める発見を告げるのであるから、この展開に読者も度々覚えてきた不快感をまたしても飲み込んでいっしょに進んで「きた」のである。「さすが」の貫多の続きが読めないのはやはり残念というよりすこしさみしいのである。
-
遺作の本作。
こういう男女の話をユーモアたっぷりにかける作家もなかなかいないだろう。
あまりに身勝手な内容ではあったが、不思議と不快にも思えず、独特の感性を持つ作家さんでした。
最後まで笑わせてもらいました。 -
西村賢太のいつもの私小説であり、そんないつもの私小説を残して氏は逝ってしまった。
今回は商業作家人生の始まりから芥川賞受賞までが描かれている。これまでの作品と比べて明確に作家北町貫太が描かれており、貫太が小説論を打つ様は西村賢太のメタ的な語りであり、またサービス満点の手の内明かしでもある。
ここまで作家としてきたからこそ、この作が書けるということだろうか。
相変わらず誇大に誇大を重ねた貫太の尊大さや妄執が滑稽であり、それでありながらそのエモーションにジンと来させる時もある。これこそが西村賢太の魅力だろう。
もうこの物語が進むことがないのが残念でならない。 -
「あぁまたいつもの展開だなぁ」
と思うのに読むのをやめられない中毒性。
未完の遺作となった本作、これが最後かと思うと寂しい。さらば、北町貫多!
でもまだ読んでない作品は結構あるので、
ちょっとずつ舐めるように楽しんでいこう。 -
この本を読み一層この続きを読んでみたくてたまらなくなった。それは永久に叶わないことが寂しいの一言だ。
長年見守ってきた北町貫多が遂に芥川賞受賞となる日を待ちわびていたし、ようやくその時分の話となり、苦役列車を書いている時の状況や、今まで鬱屈していた感情が受賞により変化したのか、受賞セレモニーや審査員の石原等著名作家達も登場し、例の北町節で描かれるのか等々興味は大きく膨らんでいたのだが、その一歩手前で著者が亡くなってしまい未完となった。全く残念でならない。
デビュー前後の様子においてもこの本でその心持ちを詳細に書いてあるのであれば、尚更読んでみたかったのである。この本の連載は最終回途中での訃報ということで、最初に候補となる(小説はここまで)も落選してしまう迄の話であったか。落選となったとき、貫多がどう感じたかなども実に興味があったのだがなぁ。受賞したのは更に5年後だから、まだまだ小説のネタは沢山有ったのだろう。
貫多には特にその女性に対する言動に嫌悪を感じつつ、更には彼が好きになった女性への執着と愛憎の激しさに驚愕とある種の羨望を覚えつつ、彼女達のことが念頭から消失するほど小説に打ち込む姿勢や、彼の生き様に人間臭さというか、人間の本質を見て共感も湧いてくる。地方紙若手インテリ文学好き記者の”クチクサ”葛山や”淫売”おゆうに対する好意と、その後の悪態の表現は本当に著者独特でまさに真骨頂だと感心する。こういうもので著者の右に出るものは居ない。その後葛山やおゆうとの関係がどうなったかも結句判らずじまいだ。
貫多の事は彼の転々とされる住居やラッキーストライクや、根は到って・・・というところも我が事に思えるようで、どうにも気になって仕方ない。
しかし貫多が住んでいたような街の雰囲気も、令和となっては絶滅危惧種であり、かつてのそういう街を妙に上辺だけ小奇麗にし、過去を無かった場所にしてしまう風潮にはどうにも気味が悪い。人間もまた上辺だけ真っ当に見せ、その実腐っている輩が上にも多数存在するように感じる。
女性がこの本を読むことはまぁ無いであろうが、男というもの全般に対する免疫を付けたい人は読んでみるもの良いかもしれない。 -
西村賢太、2011年に「苦役列車」で第144回芥川賞を受賞した作家である。
そして驚くべき事に、今年(2022年)2月4日に、赤羽から乗ったタクシーの中で心疾患により54歳の若さで急逝した。
私が本書を読むまで、著者について知っていたことは上記がすべてである。
また、私は普段小説などを読む機会がなく、西村賢太の著作を読んだのも、日経新聞の書評に、本書が著者の遺作であり、かつ本書執筆中になくなったことから未完の状態である旨を知り、そこに興味を持ったためである。
しかも本書は「私小説」と言われるもののようだ。私小説とは、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説のこととある。
恥ずかしながら、私はこの言葉の意味もさることながら、この手の本を読むのも、齢50近くにして、初めてであった。
つまり本書は、西村賢太の半生(というかほぼ一生)を自らが綴った作品ということになる。
本書のあらすじは、主人公北町貫太(きたまちかんた、要は著者その人であるが)は、江戸川区で車修理工場を営む家庭で育ったが、後に貫太の父が強盗強姦罪で逮捕され、家庭が瓦解。
貫太は高校進学も断念し、いわゆる中卒のままで社会に放り出されることとなる。
その後、アルバイトなどを転々とする中、29歳の時(1996年)に酒に酔って人を殴り、留置場に入った経験から、大正期の私小説家藤澤淸造の著作に共鳴するようになり、その没後弟子と称するほどに彼に傾倒し、文学の道を選ぶ。
2003年に同人誌「煉瓦」に参加して小説を書き始め、翌年、「けがれなき酒のへど」が文藝春秋社の『文學界』12月号に転載され、同誌の下半期同人雑誌優秀作に選出される。
その後も、2006年に「どうで死ぬ身の一踊り」で第134回芥川賞候補の後も川端康成文学賞候補、三島由紀夫賞候補などを経て、ついに2011年に芥川賞を受賞した。
文筆の道に入るまでの人生はなかなか過酷なものがあったようだが、それ以降は遅咲きながら、比較的順調に階段を上り詰めた感もある。
そこからわずか10年後の急死とあって、それは本当に残念なことである。
さて、本書はこのような彼の人生を描きつつ、その中で悩み苦しんだ様子が克明に、独自の筆致で描かれる。
本書の主人公である北町貫太は、先に記した小説家として同人誌デビューし、それを足がかりに文藝春秋社の「文學界」に転載され、小説家としてある種文学の檜舞台に立ち始めたころまでが描かれている。
というか、そこで著者が急死したため、それ以降の話はなく、そこで終わってしまっているのである。
前述した、小説家としての受賞歴などをみると、とても順調な歩みのように見えながら、もちろんそんなに簡単な人生でなかったことが本書を読めば分かる。
ただ、その葛藤や悩みは、尊敬する藤澤淸造の歿後弟子として恥ずかしくない生き方をしているかと、女、つまりは煩悩という2つに収斂する。
それにしても、随分両極端だが、これこそが貫太のキャラクターを如実に表しているともいえる。
女?と思った方もいらっしゃるかも知れないが、女である。
本書にはいわゆる風俗で知り合った風俗嬢の川本那緒子と新卒の新聞記者葛山久子の2人の女性が登場する。
そして貫太は、これに二股をかけ、「二兎追うものは」云々という故事のとおりの失敗に終わるのだが、そこでの下劣な表現やある意味くだらない葛藤など、男の本姓をここまで赤裸々に書き切った度胸は、男として高く評価したいが、これを女性が読んだらどう思うのだろう(笑)。
貫太はその素行だけをみると、かなり破天荒な性格に見える。
人を殴って刑務所送りになったり、長年世話になっていたアルバイト先の古書店の店主にもかなり失礼な罵詈雑言を浴びせている点などにおいてである。
これに対して女性には直接的にそのような口汚い言葉は吐いていないものの、恋愛の雲行きが怪しくなると、「あの淫売女」だの、「口臭女」など心の中の叫びが書中に露見している。
しかしながら、その一方で、意外にもあれこれと心配をしたり、ヘンな気遣いをしたりするところが、いかにも不器用な人柄が表出していて面白い。
また、本書は著者の独特の筆致のお陰で、最初の数ページを読んだときは、それにとても馴染めず、500ページ近くもこれに付き合いきれないと思い、読むのを止めようと思ったが、読み進めるうちになぜか、この文体というか著者の文章のリズムの虜になった。
文章はおそらく、著者が師と仰ぐ藤澤淸造の影響なのだろうか、やや古めかしく硬い文体で、今まで見たこともないような漢字が頻出することにも驚いた。
また、主人公貫太があれこれと思いを巡らせている横で、もう一人別の人間が、「無論、根がどこまでも○○にできている質ゆえに、・・・・・」と貫太についてまことに的確な寸評をする、ある種ナレーターのような役割をするところが面白い。
例えば、それは、貫太が師と仰いだ藤澤淸造のコレクションを金欠(風俗に行く金がないこと)のあまりに売りさばこうとした際のこんなくだりである。
「一度はその決意を固めた自分が、空恐ろしくもなった。
とんでもない心得違いをしたものである。常日頃、自らの命と同等以上に大切だとまで広言していた淸造資料を、女会いたさたの為に売り払おうとした事実ーこれは貫太にとっては、かなりの痛恨事である。
いっときの気の迷いのなせる業とは云い条、実際、このフザけた了見をふとこってしまったことは間違いない。
それを思うと彼は己を空恐ろしく思うと共に、余りの慊さ(ありきたりなさ)から自らを蹴殺してやりたい衝動にも駆られた。
だが、根が至って結果主義にできているところの貫太は、そうは云っても最終的にその件は我に返って未遂、と云うか無事未然に防いだのだから、この反省も所詮は束の間のことでもあった。またすぐと、”小説家への道”が復活した喜びの方が心を満たし、自らの思い描く”歿後弟子への一本道”が拓けた状況に陶然となってしまう。」
硬い文章の中にユーモラスな表現、私はこれが著者の魅力のひとつと思った。
その早世が悔やまれてならない。