- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166602513
感想・レビュー・書評
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◆寝ながら学べる構造主義
・官僚の国会答弁は、議論の根本になっているはずのことは決して問われず、専門的語彙と専門的知見に満ち溢れているので、苛立ちが溜まるのは仕方ない
・ポスト構造主義とは、構造主義の考え方が自明になった世界
・技工の伝承に際して、師を見るのではなく師が見ているのもを見る必要がある
・ニーチェは俗物を嫌い超人を切望することが必要だと述べたが、超人についての説明はしていないし、その考えには俗物の存在が必要となる
・四季は人が勝手に定めた区分であり、4つである必要はない。しかし4つに分けたことで、その構造に支配されて生きている
・自分が語っていることは、誰かに影響を受けて話しているにすぎず、全くのオリジナルは存在しない
◆構造主義において重要な4人
◆フーコー
・フーコーは系譜学的思考で、人はいま・ここ・私に向かって歴史が進んでいると考えていると論じた
・近代は組織から外れる狂人を排除し、標準的な人間が生きる社会になった
・明治維新まで日本人は農業に適したナンバで歩行していたが、軍隊の行進をするために100年以上の歳月をかけて朝礼により新しい歩き方を強制した
・森有礼は素人を一律の軍隊にするため、学校教育に兵式体操を導入し、身体の統制を図った
・政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず身体を標的にする
・体育座りで両手を組むのは子どもの手遊びを縛る残酷な行為ではないだろうか
◆バルト
・バルトは記号学で、ある記号が意味をもつことについて論じた。
・私たちはエクリチュールの囚人である。男の子が一人称を「ぼく」から「おれ」に自主的に変更したとしても、選べれた語り口そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものである。
・テクストを支配しているのは男性主人公なので、言語の構成からすでに男性社会なのではないだろうか
・村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんて書きません」と苦い顔で答えていた
◆レヴィ・ストロース
・レヴィ・ストロースは自分の物差しで異文化を評価することが誤りだと論じた
・サルトル=カミュ論争
・「を」のように使いづらい発音は同じ言語でも次第に消えゆく。・長い時間をかけて母音・子音が統一される時代がくるかもしれない
・反対給付。贈り物を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、お返しを市内と気が済まない気分になる
◆ラカン
・ジャック・ラカンはフロイトの精神分析をさらに突き詰めた
・こぶとり爺さんの教訓は、不合理を受け入れること。鬼は権力者であり親で、その気まぐれに爺さん=子どもは従わなければならない
◆結局のところ
・レヴィ=ストロースは「みんな仲良くしようね」
・バルトは「ことばづかいで人は決まる」
・ラカンは「大人になれよ」
・フーコーは「私はバカが嫌いだ」
と言っているらしい詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2、3年ぶりに再読。
分かりやすかったと思う。
前から感じてたけど、構造主義ってどこかかなしいというか切ないと改めて思った。
構造主義の次に現れるのはどんな思想なんだろう。
ソシュールとかフロイトとか学生のときに一度ちゃんと読んでおけば良かった。 -
構造主義の入門書を謳いながら、実は、現代社会(思想)を読み解くための概説書だったりもする。
「どうして?」「なぜ?」――誰もが答えを知らないことを、考える。そして、それを誰かに伝え(教え)ようとすること。結局、内田さんが「まえがき」でおっしゃられていることこそ、専門家が本当にすべきことなのだろう(だから、この本は価値がある)。
しかし、構造主義だろうがポストだろうが、「自分とは?」の問いかけなしに、このグローバル化の進む世界で、私たち自身が確固たる《私》を保ちながら生きていくことは(さらに)難しくなっていくことであろう。 -
読みやすくてわかりやすい!
頭の体操になります。 -
構造主義のことがなんとなくよく分かった
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たまーに出してきて読む本。
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ずっと気になっていた構造主義!ここまで面白く、わかりやすかったのは、きっとこの本がこれまでの構造主義について書かれた本とは違った切り口でかかれているからだろう。再読したい一冊。
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構造主義の雄、フーコー・レヴィ・ストロース・バルト・ラカンについて、この上ないほど平易な文体で解説されている。初回に読んだときはわかりやすすぎて衝撃的なほどだったが、再読してみると物足りなく感じる場面も。
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寝ながら学べた。
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マルクス、フロイト、ニーチェの流れがあって、ソシュールが登場する。
そして、構造主義の四銃士はフーコー、バルト、レヴィストロース、ラカン。
とりあえず、構造主義という言葉と、主要人物の名前は繋がった。 -
20110918 やはり寝ながらでは無理 わかったようなわからないような
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糞本。著者の名前だけは有名だから一冊くらいは読んでみようと昔買ったのは間違いだった。個別の現代思想家について軽くさらってあるだけで、結局構造主義が何なのかは説明されない。
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結局、一度も寝ずに読みきりました。面白すぎて興奮しました。
ただ、すべてがすべて正しいかどうか判断する知識を持ち合わせていないので、これから勉強していく上で検討したいと思います。 -
良書。
すっきり。
フーコー、バルト、レヴィストロース、ラカン、そもそもソシュール、地ならしとしてのマルクス、フロイト、ニーチェ。
さすがに聞いたことはあるし、それぞれの概説はどこかしら、主に駒場教養の準必修で受けてるけど、すみません整理できてません。
すっきり筋が通って一冊。巧いなぁという感じ。 -
この前に読んだ「身体の言い分」のなかで著者の方が、
構造主義そのものより構造主義者のやりかたに興味を持った、と
この本について言っていた。
構造主義者たちの仕事は徹底的に考えたうえのフィールドワークで
現実から理論モデルを抽出し、証明してみせる力技。
それでもその成果はあくまで仮説と言い切る発想の自由度と
知性の節度を持っている、これだと思った、って。
それなら構造主義知らなくても楽しめるかも。と
軽い気持ちで読んだら・・(汗
構造主義のあらましと学者たちの仕事が
要点を押さえてわかりやすく書かれていました。
でもその「要点」が多岐にわたる上に深く、複雑で・・難解。
で、いちいち面白い。
ことばや身体、親族関係、神話や精神分析・・
主要な学者たちのいろいろな研究について面白く読んだけど、
構造主義はこういうもの!とばしっとつかむことは・・あきらめました。
でも、歴史にも人間の中にも確かなものなどない前提で、
どうやって人が認識し考えて生きてるか、っていうのが
いろんな角度から検証されてると知って、読んでいて楽しかった。
不条理とかコミュニケーションなど、現実社会に近い感じが
どこか泥臭くて面白い。
あとがきのように「なんだ、そういうことが言いたかったのか。」と
しみじみできるには現実での経験をつんでこそだろうなぁと感じた。
その境地をわかりやすくちょっと覗いて、
なるほど~構造主義って、オトナの学問なんだなあ。
などと思えてしまう、ありがたい本。 -
構造主義という言葉をそれなりによく耳にする割には全く意味を知らなかったので読んでみた。著者もその道のプロというわけではないらしいが、そういう人が改めて確認しつつ書いた書籍ということで、初心者にもそれなりに分かりやすい。もちろん、寝ながら学べるほどやさしくはないが。
内容的には、構造主義の黎明期から発展まで、順を追って解説している。大きく分けると、
プレ構造主義:マルクス、フロイト、ニーチェ
構造主義の黎明:ソシュール
構造主義の発展:フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン
という感じだろうか。
初心者向けにかなり噛み砕いて書かれているので、思想の表面をなぞっていく感じであり、流れを理解するのには良いが、読後に思い返すと実はそんなにわかっていないような気もする。なんとなく、構造主義全体が雲のような塊として頭の中に入る感じ。
これを1回だけ読んだ自分には、結局、構造主義ってなんなの?って聞かれても明確に一言では答えられない。 -
これはわかりやすい。「寝ながら学べる」は嘘ではありません。
まず手始めに、構造主義の土台となる、マルクス、ヘーゲル、フロイト、ニーチェ辺りの思想を軽く流して、本題となる、ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカンの紹介をこれまたさらりとしている。
これをもって「構造主義を理解した」というレベルに達するわけではないが、構造主義をになっている著名人たちの思想の基本概念がなんとなくはわかるようになる。
構造主義といってもひとつのフレームワークなので、一口に「構造主義とは〜である」と言い切れるもんでもないな、ということがわかった。 -
読んでも構造主義ってよくわからなかったけれど、いろいろな思想を概説してくれていておもしろかった。
自分って思ったほど絶対的ではないし、社会システムとか環境に無意識に支配された存在なのだ、ってことだろうか。 -
今、大学生なのですがこれは役に立ちました。哲学書を読んでも分からないかもしれないと思っている方々がいるかも知れませんが、これなら読めちゃいます。でも深いところまでは知ることはできないかも知れません。作者も言っているようにあくまでも入門書なんです。でもでも重要なポイントはしっかり分かります。
構造主義だけでなく、フロイトやニーチェなどの勉強になります。正直、私は構造主義が理解できていません。でもフロイトやニーチェ達を知ることが、構造主義を知ることになるのではないでしょうか。(当たり前か!!) -
まえがきからあとがきまで、余すとこなく面白かった。
かつて20歳だった内田樹が欲した「構造主義の解説書」。
それを30年後に自分で書き上げたと言う。
これを読んだ俺も20歳。
この本は俺に、何をもたらすのかな。
内容については、特に挙げるならばジャック・ラカンの精神分析論がカタリバに長くいる自分としては実感をもって理解できる箇所が多かった。
カタリバのチェッキングに、ラカンの言うユーバートラーゲンの技術をそのまま活かせるのではないか。
カタリバ人に、というかコミュニケーションの力を信じる全ての人に、この本を読んでほしい。
文句なしに☆5。 -
なかなか分かりやすくて良い
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うーーーむ。寝ながらというか眠たくなる。第2章、ソシュールの「記号」が解かり易かった。
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現・神戸女学院大学文学部教授(フランス現代思想)の内田樹による構造主義の入門書。
【構成】
第1章 先人はこうして「地ならし」した-構造主義前史
第2章 始祖登場-ソシュールと『一般言語学講義』
第3章 「四銃士」活躍す その一 -フーコーと系譜学的思考
第4章 「四銃士」活躍す その二 -バルトと「零度の記号」
第5章 「四銃士」活躍す その三 -レヴィ=ストロースと終わりなき贈与
第6章 「四銃士」活躍す その四 -ラカンと分析的対話
以前、同じような構造主義入門用の新書で橋爪『はじめての構造主義』(講談社現代新書)を読んだが、その本はレヴィ=ストロースを中心的に叙述しており、その他の思想家達は点描にとどめられていた。本書は、その構成からもわかるように前史→ソシュール→構造主義四銃士という進め方になっており、そういう意味では『はじめての構造主義』よりも幅広い記述がなされている。
ただ、著者がしばしば引き合いに出す喩えが、あまり要領を得ていなかったりするところもある上に、(入門書という制約もあるのだろうが)断定的に表現する時の根拠が希薄であったりする部分が散見される。個人的に気になったのは、後半部分で「歴史」に対する認識がかなり表層的であると感じた。 -
もっと早く読んでおけばよかった。
と思ったけど、やっぱりこれを「寝ながら」読むためには結構な人生経験とかが必要な気もする。実際高校生の僕はこれを読みながら気がついたら寝てた。
現代人の使命は、人間を疑いなおすことだと思う。
生まれながらに何かにとらわれ、既存の構造に組み込まれている人間は、おそらく本当の意味で自由になんてなれない。何かに拠って立つことで背筋を伸ばすことができる人間は、もしかしたら自由なんて、求めてはいけないのかもしれない。
マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンの主概念がダイジェストで紹介されているかたち。わかりやすいし面白い。意味もなく人に話したくなる。構造主義とか現代思想家の本って正直抽象的過ぎて何言ってるかわかんないし、正しいかはともかく(実際引用文の解釈で「そうか?」って思うところは何回かあった)、こういう具体例にあふれた入門書でざっくり「ふーん」って知ってから読むといいんでないだろうか。
個人的にはバルトの章が興味深かった。小説の書き方とか、読み方について考えさせられた。
ただちょっと生きることに息苦しくなる気がする。こういう考え方を知らないほうが絶対幸せだろうなとも、どこかで思ってしまう……のは僕だけでしょうか。 -
読みやすく書かれており、前提知識が無くても読めると思う。詳細を学ぶものではなく、全体のぼんやりした姿を掴む為の本。
p12
「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(そして、いさかか気ぜわしい人たちが「構造主義の終焉」を語り始めた時代)だというふうに私は考えています。
p38(狂言の『ぶす』の文脈で)
それは太郎冠者が主人を内心では侮っているために、自分より愚鈍であるはずの主人に自分の下心が見抜かれているという可能性を認めるわけにゆかなかったからです。主人は自分より愚鈍であって「欲しい」という太郎冠者の「欲望」が、怜悧な彼の目をそこだけ曇らせたのです。こうして、「『太郎冠者が何ものであるかを主人は知っている』ということを太郎冠者は知らない」という構造的無知が成立することになります。これが「抑圧」という機制の魔術的な仕掛けです。
p44
技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下がるにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって墜落してゆきました。)
それを防ぐためには、師やその制作や技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心象を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
p125
つまり、その本からは新しい「意味」を読み出すことのできる「読める主体」へと私を形成したのは、テクストを読む経験そのものだったのです。