寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166602513

感想・レビュー・書評

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  •  なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう? なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
     それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。「知りたくない」からです。
     より厳密に言えば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
     無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。」


    内田樹が構造主義を解説した本を書いてたなんて迂闊にも今まで知らなくて、珍しいもの見たさに電子書籍で入手して読んでみたら、これがなかなかの拾いもの!!!
    「まえがき」の中にあった上掲の文章のインパクトにまずやられて、そして本文を読み進めるうちに、構造主義という知の闘いが人間精神の何をめくろうとしてきたのか、なにを切り開いてきたのか、それを鮮やかに描き出してくれた。
    すごくとっつきのよい、題名のとおりに「寝ながら読める」のだけど、ここから得られる精神覚醒の揺さぶりは相当のもんだった!
    強くお勧めしたい。

  • 面白かったしわかりやすかった。最後にラカンが出てくるまでは。
    でもラカンはどっちみち誰が説明しても分からないので仕方がない。内田樹は悪くない。

  •  ワークショップ等の業界で良く言われる「もやもや」するの原因は何なのかと説い続けた結果として行き着いているのが今の所「(ポスト)構造主義」である。これはそれをとても分かりやすい例で示している。「ぶす」の話は最高である。
     「私たちがあることを知らない理由は…「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」から」という「まえがき」からガツンとやられる。このつかみがすでに「構造主義」になっているというところが何とも奥深い。
     ビジュアル・ファシリテーションやグラフィック・レコーディングをしていると話題になるのはイベントの参加者の腹落ちと成果物のわかりやすさ。この手の議論をする時に構造主義に立つか、実存主義に立つかは大きな分かれ目だ。かつ実存主義者同士もそれぞれの原点を持っていて正しさを主張するものだから厄介だ。どうやら話を合わせているらしいのだがどうもピントがボケていると言うか言葉尻だけの類似で同じであると判断している場合もよくある。
     自分に振り返って考えると構造主義の本をどうやらそれなりに読んでいるらしいのだが、毎回忘れてしまっているようだ。ブクログの感想を書こうと思ってこの画面を開くとすでに感想がある。構造主義を実践すると自分の「ダメ」と向き合わざるを得ない。「ぶす」の話も自分に置き換えれば「平然とウソをつく」「誤魔化す」「相手を蔑み偉そうに話す」などの悪癖が自分にあることをそれこそ「知りたくない」から自然と忘却の方向にいくのだろう。
     さて、この感想も忘れてまた書こうとしてしまうのだろうか。。。楽しみだ。

  • 私たちの意識というものは、うまれながらの自分固有のものではなく、すでに言葉のない時期から所属する社会的にプログラミングされていて、その内容は構造主義の四銃士にてある程度が解明されてしまっている。
    私とは?社会とは?というものを考え始めると止まらないので、「寝ながら学べる構造主義」を読み始めると、まったく眠れなくなってしまった。

  • 難しい構想主義を分かり易く書かれて内容
    。ただ余りにも基礎知識がない為平易な言い回しであっても理解しがたい点は、多々あった。後書きのレヴィストロースは、皆んななかよししようね。
    バトルは、言葉つがいで人は決まる。
    ラカンは、大人になれよ
    フーコーは、私は馬鹿が嫌い
    と言い切っているところが潔く再読する機会になるかもしれない。

  • 「まえがき」が素晴らしい。
    著者は「入門者のための」解説書や研究書をよく読む、理由はおもしろい本に出会う確率が高いからだという。この本は入門者のための、平易に書かれた構造主義の解説書。よい入門書は、「私達が知らないこと」から始めて、「専門家が言いそうもないこと」で進むという。新しい分野に取り組むときは、そういう本を探したい。
    無知というのは、「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果。親のお説教など、知りたくない、目を逸らしたい、と不断の警戒を怠らない結果。
    この本は、「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしのよい思想史的展望を示すことをめざした、とある。概ね、見晴らしのよい話だったと思えたので、著者の意図通りに読むことができたのか。

    本題の「構造主義」とは、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」という考え方。「自分が思っているほど自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない」とも。

    人と社会や他者との関係に関する考え方かと、読む前は想像していたが、もっと哲学的、心理学的な要素も強いらしい。

  • 非常に面白くスラスラ読める。
    これでわかった気にならないこと大事そう。

  • 「構造主義」の超入門書。
    とにかくすらすら読めたし、著者の語彙力が豊富で何度も「ほぉぉぉ」と感嘆した。初めてでもすんと腹落ちさせるよう、具体例が随所に散りばめられていて著者の心意気を感じる。

    日頃から「世の中のものごとをおおいに抽象化して見る」ことに快楽にも似た嗜好性を持つ私には、ご馳走のような一冊だった。

    とはいえ「構造主義」に初対面だったこともあり、中々理解が及んでないテーマも多い。
    それでも今後も思考のテーマにしたいあれこれを抜粋してみる。

    ・そもそも「構造主義」とは
    「構造主義というのは 、ひとことで言ってしまえば 、次のような考え方のことです 。私たちはつねにある時代 、ある地域 、ある社会集団に属しており 、その条件が私たちのものの見方 、感じ方 、考え方を基本的なところで決定している 。だから 、私たちは自分が思っているほど 、自由に 、あるいは主体的にものを見ているわけではない 。むしろ私たちは 、ほとんどの場合 、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に 「見せられ 」 「感じさせられ 」 「考えさせられている 」 。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは 、そもそも私たちの視界に入ることがなく 、それゆえ 、私たちの感受性に触れることも 、私たちの思索の主題となることもない 。」

    私が「オリジナル」で考えたり話したりしているように思えることも、実は私が属する社会構造に誘導されているんだと。
    構造主義はそれへの批判の難しさも特徴の一つ。「構造主義はおかしい」「あぁ、そんな風に考えざるをえない社会構造の中で生きてきたのね」とかわされる。
    もはや私たちは気付かずとも「構造主義」にずっぽりハマっているのだ。構造主義者に言わせると、だけれど。

    「主体性の起源は 、主体の 「存在 」にではなく 、主体の 「行動 」のうちにある 。これが構造主義のいちばん根本にあり 、すべての構造主義者に共有されている考え方」

    「自己の存立根拠の足場を 「自己の内部 」にではなく 、 「自己の外部 」に 「立つ 」ものに置くのが実存主義の基本的な構えです 。」
    「「実存は本質に先行する 」というのはサルトルの有名なことば」
    「「根はいい人なのだが 、現実的には悪いことばかりしている人間 」は 、実存主義的には 「悪もの 」と評価されるわけです 。」

    つまり「実存主義」がすべての「構造主義者」に共有されている考え方ということなのか。(推測)
    「実存は本質に先行する」とはなんとも救われる言葉。「自分が本当はどんな人間なのか」は「毎日何をしている人間なのか」「日頃どんな行動をとっているのか」を見れば分かるということだ。
    「根」や「本質」を見極めようとするのは、不毛な癖だ。

    ・マルクス、ニーチェと並ぶ「構造主義」の地ならし役、フロイト
    「フロイトは人間は自由に思考しているつもりで 、実は自分が 「どういうふうに 」思考しているかを知らないで思考しているということを看破しました 。」

    「フロイトが発見したのは 、第一に 、私たちは自分の心の中にあることはすべて意識化できるわけではなく 、それを意識化することが苦痛であるような心的活動は 、無意識に押し戻されるという事実です 。私たちの 「意識の部屋 」には番人が許可したものしか入れないのです 。」

    私たちは自分の考えたいことしか考えていない、ということ。
    このことは誰もが知っている狂言『附子』を解説することで分かりやすく説明できると言う。

    「太郎冠者は自分のことをあらゆる可能性を勘定に入れることのできる狡猾な人間だと思い込んでいます 。ところが 、その太郎冠者は 、 「自分が噓つきであることを主人は知っている 」という可能性だけはみごとに勘定に入れ忘れたのです 。この太郎冠者の 「構造的無知 」は実は物語のはじめから私たちには知られていました 。というのは 、主人が砂糖を 「毒だ 」と言ってごまかそうとするのは 、そうでも言わないと 、太郎冠者はすぐに盗み食いをするに違いないということを主人は 「知っていた 」からです 。太郎冠者が不忠者であることは物語の最初から太郎冠者以外の全員が知っており 、太郎冠者だけが 「みんながそれを知っていることを知らなかった 」のです 。なぜ 、そんなことが起こるのでしょう 。それは太郎冠者が主人を内心では侮っているために 、自分より愚鈍であるはずの主人に自分の下心が見抜かれているという可能性を認めるわけにゆかなかったからです 。主人は自分より愚鈍であって 「欲しい 」という太郎冠者の 「欲望 」が 、怜悧な彼の目をそこだけ曇らせたのです 。こうして 、 「 『太郎冠者が何ものであるかを主人は知っている 』ということを太郎冠者は知らない 」という構造的無知が成立することになります 。これが 「抑圧 」という機制の魔術的な仕掛けです 。この無知は太郎冠者の観察力不足や不注意が原因で生じたのではありません 。そうではなくて 、太郎冠者はほとんど全力を尽くして 、この無知を作り出し 、それを死守しているのです 。無知であり続けることを太郎冠者は切実に欲望しているのです 。」

    「構造的無知」も初耳。普段口にする「知っている知っていない」という意味ではなく、無意識に「知りたくない」という抑制が働き、自ら能動的に「知らない状態」を選んでいるということを指すのだろう。
    考えたいことだけを考えているということだ。
    通勤途中にあるポストの存在に数年経って始めて気付く(これは積極的認知対象ではないから)こともある。
    「構造的無知」はそれより一歩踏み込んで、何らかの意図が無意識に働き、積極的に意識から排除している状態だと捉えた。



    ・「構造主義」の始祖、ソシュール
    「名づけられることによって 、はじめてものはその意味を確定するのであって 、命名される前の 「名前を持たないもの 」は実在しない 、ソシュ ールはそう考えました 。」

    「もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば 、ある国語に存在する単語は 、別の国語のうちに 、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである 。しかし現実はそうではない 。 (略 )あらゆる場合において 、私たちが見出すのは 、概念はあらかじめ与えられているのではなく 、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である 。」

    例えば、日本では羽を持ち飛翔する昆虫のうち、区別された「蝶」と「蛾」という二つの単語を持つ。しかしスペイン(?)語では、「羽を持ち飛翔する昆虫」を表す「パピヨン」という単語一つしかない。
    同様に日本にはないが、世界には名詞を「女性」と「男性」に区分する言語が存在する。
    つまり日本語を母国語とする私と、その他の言語を母国語にする他者とでは保有する単語(シニフィアン)が異なり、すなわち保有する概念(シニフィエ)そのものが異なるということだ。

    「英語では 、根を詰めて仕事をすることを 、 「重荷を背中に背負う 」 c a r r y a b u r d e n o n o n e ' s b a c kと言い 、熱心に働くことを 「背骨を折る 」 b r e a k o n e ' s b a c kと言います 。ですから 、英語話者は仕事のストレスを 「肩 」ではなく 、 b a c kに感じ取っている 、ということが分かります 。」

    使用する言語体系が違うと、働きすぎた時に痛みを感じる体の部位まで違ってくるなんて!
    負荷がかかるのは、日本語圏では「肩」だけど英語圏では「背中」なのだ。


    「ある語が持つ 「価値 」 、つまり 「意味の幅 」は 、その言語システムの中で 、あることばと隣接する他のことばとの 「差異 」によって規定されます。」

    「ソシュ ールは言語活動とはちょうど星座を見るように 、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて 、まとまりをつけることだというふうに考えました 。
    ある観念があらかじめ存在し 、それに名前がつくのではなく 、名前がつくことで 、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです 。」

    「ソシュールは 、私たちがことばを用いる限り 、そのつど自分の属する言語共同体の価値観を承認し 、強化している 、ということを私たちにはっきりと知らせました 。」

    「私がことばを語っているときにことばを語っているのは 、厳密に言えば 、 「私 」そのものではありません 。それは 、私が習得した言語規則であり 、私が身につけた語彙であり 、私が聞き慣れた言い回しであり 、私がさきほど読んだ本の一部です 。」

    「私が確信をもって他人に意見を陳述している場合 、それは 「私自身が誰かから聞かされたこと 」を繰り返していると思っていただいて 、まず間違いありません 。」

    つまり日本語を使う私が、私の意のままに喋っているつもりの時、日本語の言語規則により、日本語の語彙により、聞かされ続けた誰かの言い回しにより、好きな本たちにより、つまり属する社会構造により、喋らされているってことなのね。


    ・四銃士の一人、フーコー
    「政治権力が臣民をコントロ ールしようとするとき 、権力は必ず 「身体 」を標的にします 。いかなる政治権力も人間の 「精神 」にいきなり触れて 、意識過程をいじくりまわすことはできません 。 「将を射んとすればまず馬を射よ 」 。 「精神を統御しようとすれば 、まず身体を統御せよ 」です 。」

    「軍事的身体加工の 「成功 」 (西南戦争の勝利 )をふまえて近代日本は 、 「体操 」の導入に進みます 。
    国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません 。そうではなくて 、それはなによりも 「操作可能な身体 」 、 「従順な身体 」を造型することでした 。」

    「権力が身体に 「刻印を押し 、訓育し 、責めさいなんだ 」実例を一つ挙げておきましょう 。一九六 ○年代から全国の小中学校に普及した 「体育坐り 」あるいは 「三角坐り 」と呼ばれるものです 。
    生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に 、教師たちはこの坐り方にたどりついた
    竹内によれば 、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で 、一九五八年のこと」

    なんと、体育座りにそんな意図が込められていたなんて。従順なマインドは従順な体・態勢に宿るということか。権力者は「行動が思考を規定する」ことを熟知しているのだ。
    国家の思い通りに動く国民を増産するため、統制しやすい体づくりを教育課程に組み込んだということらしい。


    ・四銃士の一人、バルト
    「私たちの社会における 「自然な語法 」とは 、実は 「男性中心主義 」的な語法です 。それはあらゆる記号操作を通じて 、繰り返し男性の優位性と威信を語り 、政治権力と社会的 ・文化資源がもっぱら男性にのみ帰属することを正当化する 「ことばづかい 」である 、というのがフェミニズム言語論の主張するところ。
    知らず知らずのうちに 『男として読む 』ように訓練されてしまっているのではあるまいか ?テクストを支配しているのは男性主人公なので 、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと 、私たちは訓練されてきた 。男性主人公の見解が 、世界全体を見る基準であると 、私たちは思い込まされてきた。
    テクストのほうが私たちを 「そのテクストを読むことができる主体 」へと形成してゆくのです。」


    なんとも深遠だ。
    私が思考を深めるために、知恵や教養を身につけるために好んで読んできた「テクスト」は皆「男性中心的」な視点で書かれていて、読めば読むほどその視点が養われてきたということか。物事の見方が、男性主義的なものになっている?
    実感は伴わないけど。


    「村上龍はあるインタビュ ーで 、 「この小説で 、あなたは何が言いたかったのですか 」と質問されて 、 「それを言えるくらいなら 、小説なんか書きません 」と苦い顔で答えていましたが 、これは村上龍の言うとおり 。答えたくても答えられないのです 。その答えは作家自身も知らないのです 。もし村上龍が 「あの小説はね … … 」と 「解説 」を始めたとしても 、それは 「批評家 ・村上龍 」がある小説の 「解説 」をしているのであって 、そこで語っているのは 「作家 ・村上龍 」ではありません 。
    媒体からの主題や文体や紙数の指定 、同時代的な出来事 、他のテクストへの気づかいと競合心 … …それぞれのファクタ ーはてんでに固有のふるまいをします 。しかし 、それらが絡まり合って 、いつのまにか 「テクスチュア 」 ( t e x t u r e )は織り上がります 。これを前にして 「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか 」と限定的に問うことはそれほど意味のあることなのでしょうか 。
    テクストの統一性はその起源にではなく 、その宛先のうちにある 。」


    これも、「見たいものしか見ていない」「見たいように見ている」ということか。
    国語の問題で「作者は何を伝えたかったのでしょう」とよく問われるが、それも意味のない問いだと。読み手が感じたことが全てで、そこに作者の意図なんて極々わずかしか影響しない。仮に万感の想い・意図を込めて織り上げた作品だとして、読み手もその「想い」を何らかの場で知ったとしても、読み物として完成し手放した時点で、解釈の対象でしかなくなるのだ。「本当は」なんて意味がない。「込められた意図」ではなく、「与えた影響」が全てだという意味では、実存主義的か。


    ・四銃士の一人、レヴィ・ストロース
    「それぞれの社会集団はそれぞれの実利的関心に基づいて世界を切り取ります 。漁労を主とする部族では水生動物についての語彙が豊かであり 、狩猟民族では野獣の生態にかかわる語彙が豊かです 。
    「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく 、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである 。 」」

    「私たちは全員が 、自分の見ている世界だけが 「客観的にリアルな世界 」であって 、他人の見ている世界は 「主観的に歪められた世界 」であると思って 、他人を見下しているのです 。」

    属している社会構造によって世界の見え方は違う。関心を持つ対象もその深さも違う。
    私たちが考えていることは、社会構造により考えさせられていること。
    であれば、違う考えの人たちを「知的でない」なんて評価できるはずはない。傲慢になるな。各々の構造において必要な知性を身に付けているのだ。


    ・四銃士の一人、ラカン
    「私たちが忘れていた過去を思い出すのは 、 「聞き手 」に自分が何ものであるかを知ってもらい 、理解してもらい 、承認してもらうことができそうだ 、という希望が点火したからです 。だとしたら 、そのような文脈で語られた 「自分が何ものであるか 」の告白には 「自分が何ものであると思って欲しいか 」のバイアスが強くかかっているはずです 。」

    「全力を尽くして 、被分析者は自分について語っているつもりで 、むなしく 「誰かについて 」語っているのです 。 「その誰かは 、被分析者が 、それこそ自分だと思い込んでしまうほど 、彼自身に似ている 」だけなのです 。しかし 、それでよいのです 。
    ある病的症状がより軽微な別の症状に 「すり替え 」られたとしたら 、それは実利的に言えば 、 「治療の成功 」と言ってよいのです 。それが 「無意識的なものの代わりに意識的なものを立てること 、すなわち無意識的なものを意識的なものに翻訳すること 」というフロイトの技法なのです 。
    病因となっている葛藤が解決されるなら 、極端な話 、何を思い出そうと構わないのです 。精神分析の使命は 「真相の究明 」ではなく 、 「症候の寛解 」だからです 。」

    「分析主体が知るべきなのは 、自分の症候の 「真の病因 」などではありません 。そんなものはどうでもよいのです 。大事なのは 、この対話を通じて 、欲しいもの (いまの場合でしたら 、 「自分の成り立ちについてのつじつまのあった物語 」 )を手に入れるためには他者 (分析家 )を経由しなければならないという人類学的な真理を学習することなのです 。
    「お金を払う 」ことは非常に重要なのです 。なぜなら 、被分析者は分析家に治療費を支払うことで 、精神分析の診察室において 「財貨とサ ービスのコミュニケ ーション 」である経済活動にも参与することになるからです 。
    精神分析の目的は 、症状の 「真の原因 」を突き止めることではありません 。 「治す 」ことです 。そして 、 「治る 」というのは 、コミュニケ ーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケ ーションの回路に立ち戻らせること 、他の人々とことばをかわし 、愛をかわし 、財貨とサ ービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません 。」

    カウンセリングの目的は症状を発生せしめた「原因」を特定することではない。「思い出」そうとするうえで一連の対話を交わし、自分に施された「治療」に対価を支払うことにより、ある意味ではこころを軽くし、そして大切なことに人間世界で言葉や財産を交換(コミュニケーション)できる状態に回復させることだ。良く生きるうえで必要なことに、巻き込むことだ。
    だから、思い出す内容は何だっていい。患者の勘違いでも作り話でもいい。「自分をこう見せたい」という健やかな欲望のもと、目の前の相手と言葉を交換し、価値を交換し合う過程にこそ意味がある。


    「人間の 「社会化 」プロセスこそ 、 「エディプス 」と呼ばれるものなのです 。
    「エディプス 」とは 、図式的に言えば 、子どもが言語を使用するようになること 、母親との癒着を父親によって断ち切られること 、この二つを意味しています 。これは 「父性の威嚇的介入 」の二つのかたちです 。
    「父 」は子どもと母との癒着に 「否 」 ( N o n )を告げ 、 (近親相姦を禁じ ) 、同時に子どもに対して 、ものには 「名 」 ( N o m )があることを (あるいは 「人間の世界には 、名を持つものだけが存在し 、名を持たぬものは存在しない 」ということを )教えるのです 。
    子どもが育つプロセスは 、ですから言語を習得するというだけでなく 、 「私の知らないところですでに世界は分節されているが 、私はそれを受け容れる他ない 」という絶対的に受動的な位置に自分は 「はじめから 」置かれているという事実の承認をも意味しているのです 。
    この世界は 「すでに 」分節されており 、自分は言語を用いる限り 、それに従う他ない 、という 「世界に遅れて到着した 」ことの自覚を刻み込まれることをも意味しています 。」


    子どもに対する「父性的」役割の一つは「言葉を教えること」。これは、世界の切り取り方を教えることであり、子どもが生まれた時点ではすでに決まってしまっている「世界の分節」を(理解出来る、出来ないに関わらず)(納得出来る、出来ないに関わらず)そのまま有無を言わせず受容させることである。
    その意味で「父性」は権力的で威圧的で一方的だ。
    この、「理不尽を受け入れる作業」を子どもたちがすんなり遂行できるよう、世界のあちこちで誕生し、語り継がれてきた「物語」がその背中を押している。
    『こぶとりじいさん』も役立つ一作だ。
    鬼の前で同じくらい下手くそに踊りを披露したお爺さんの、一方はコブをとってもらい一方はコブを増やされた。
    物語ではその理由が説明されていないのだ。極めて理不尽だ。だけど私たちはどうにかすんなり受け容れている。

    「実は 、この物語(こぶとりじいさん)の教訓は 「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ 」という命令のうちにこそあるのです 。この物語の要点は 「差別化 =差異化 =分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは 、理解を絶しているが 、それをまるごと受け容れる他ない 」と子どもたちに教えることにあります 。
    彼らの仕事は 、この世には理解も共感も絶した 「鬼 」がいて 、世界をあらかじめ差異化しているという 「真理 」を学習することです 。それを学び知ったときはじめて 、 「子ども 」はエディプスを通過して 「大人 」になるからです 。」

    私たちは、「日本語になぜ一人称が多く存在するのか」「日本人が保有する単語にはなぜ性別の違いがないのか」「日本にはなぜ羊と羊肉を区分する概念がないのか」と疑問を持つ前に、その理由を知る前に、それに納得する前に、「日本的構造」に属せられ、その構造により世界を見させられ言葉を発っせさせられる。
    諦めでも自棄でもなく、「私は日本語を母国語にしているから、その枠組みで世界を見ている」という事実を、事実として分かっておくことだ。一から十まで自らが選び取ることができるわけではなく、属している社会構造により予め規定されている「理不尽」をまずは一旦受け容れるところからだ。それは同時に「私はとんでもなく偏っている」し、「私はとんでもなく主観的に物事を見ている」ということを意味する。


    「ラカンの考え方によれば 、人間はその人生で二度大きな 「詐術 」を経験することによって 「正常な大人 」になります 。一度目は鏡像段階において 、 「私ではないもの 」を 「私 」だと思い込むことによって 「私 」を基礎づけること 。二度目はエディプスにおいて 、おのれの無力と無能を 「父 」による威嚇的介入の結果として 「説明 」することです。」

    分かるような分からないような。。



    ・あとがき
    哲学の一端を覗き見するうえで、著者の分かりやすい解説に何度も助けてもらった。
    あとがきのこの一節はそのことを象徴する書きっぷりだ。

    「レヴィ =ストロースは要するに 「みんな仲良くしようね 」と言っており 、バルトは 「ことばづかいで人は決まる 」と言っており 、ラカンは 「大人になれよ 」と言っており 、フ ーコ ーは 「私はバカが嫌いだ 」と言っているのでした 。
    人と仲良くすることのたいせつさも 、ことばのむずかしさも 、大人になることの必要性も 、バカはほんとに困るよね 、ということも痛切に思い知らされ 、おのずと先賢の教えがしみじみ身にしみるようになったというだけのことです 。」

    よくぞここまで言い切った!と感じると同時に、
    「そうか、きっと何年か経って読み直すともう少し理解できるのかもな。」と心が軽くなった。
    そうだ。だって私は、無意識のうちに自らの興味領域を決めてしまっているのだから、その領域が自ずと広がったタイミングでこれを読めば、今気付けなかったことに容易に気付くかもしれない。それに私は、属する社会構造の枠組みで世界を見ているのだから、少しずつ変化する社会構造に適応していく過程で、ピックアップできる内容や考えを深め言葉にできるテーマも変わってくるのだろう。

    まんまと「構造主義」にハマっている。





  • 寝ながらは、無理かもしれないけど
    難解な内容が語り口の巧みさで
    スルスル入ってくる。

    後書きにもあるけど
    確かに年齢を重ねることで
    分かってくること、あるなー。

  • 自分が学生時代を送った頃には、すでに浅田彰とか栗本慎一郎とかのブームは終わりきっていて、正直、キャンパスでそういった名前を聞くこともほとんどなかった。「レヴィ=ストロースが~~~」とか語り出す人間もいなかったし。と言ってもニューアカ的な見方をすることが古くなっていた、ということではもちろんなく、何かを議論する際には、構造主義的な見方は前提視されていて、その意味では、ポスト構造主義だったわけですね。少なくとも実存主義的な問いで人生を悩む隣人、なんてのは皆無。
    ともあれ、そのすでに考える手法としては埋め込まれてしまった構造主義を、真面目に学ぶこともなく学生生活を終えてしまったわけですが、肩肘張らずにこういう本を読めるようになったのは幸せですね。
    いろいろな方面で顔を見せている著者ですが、プロフィールみると、専門の欄の一番はじめにフランス現代思想、とあるから、一応本職の仕事のようですね。各人の思想をわかりやすく切り取っていて、すぐに読み終えられます。飛行機の中でさくっと読めました。
    実存主義がどのように葬り去られたのか、など歴史的な背景・事件と絡めて読み解くと、より理解が深まりますね。
    でもねぇ、著者によると、レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っているそうなのですが、そこはまだ理解できず。まだまだ歳の取り方が足りないようです。


    昔、試験監督のバイトをしていたとき、不正行為を見張るのには、前に立って睨みをきかせるより、みんなの後ろにいて、彼らの視界から消えたほうが効果があることを発見し、よく一番後ろに椅子を運んで寝ていました。なんてオレは頭いいんだろう、とか思いながら。
    でも、このからくり、ベンサムさんという人が、200年も前に発明していたんですね。
    フーコーを引用した本の、パノプティコンから自我を説明するくだりのところで知りました。

  • 平成が始まったばかりの頃、学生の私は先輩に勧められて「構造主義」の本を読んだ。

    平易に書かれていたであろうその新書は、当時の私には難解だった。

    ただ、現代の思想の最先端といわれる構造主義ってなんだろう?
    その問いかけだけは、自分の中に残り続けた。

    「大人のための読書の全技術」(齋藤隆)の「社会人が読んでおくべき50冊」の中の1冊で、この本を見つけた。
    同窓会で、優秀な先輩に出会ったかのような感覚がした。

    著者は語る。
    「専門家のための解説書・研究書はつまらない。入門者のためのそれは面白い本に出会う確率が高い」と。
    それは、知らない人のためにわかりやすく本質的なことを伝えようと努力するからだ、とも。

    では、私たちはあることをなぜ「知らない」のか。
    それは、「知りたくないから」。「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からだ、と。子どもが親の説教をシャットアウトするように。

    「寝ながら学べる」とのタイトル通り、近現代の難しい哲学的課題をわかりやすく伝えることに見事に成功している「敷居の低い」一書。

  • 前に『はじめての構造主義』を読んでいて、その時は解ったような気になっていたのだが、こうして別の切り口で説明されると新しい気づきやより深い理解が得られたように思う。
    とかく学者の書く文章は正確性を欠かない事を優先するため、結局何を言っているのか解らないものが多い中、この著者は思い切り良く構造主義を定義していて理解しやすい。

  • なるほど~と思う箇所がたくさんあった。常識と思っていることでも、「若い常識」と言う表現を使っていたりして、常識が変移していきながら、考えやその前提も変化する例えがわかりやすかった。
    太郎冠者の抑圧のメカニズムをわかりやすく説いていておもしろい。
    ”太郎冠者はほとんど全力を尽くして、この無知を作りだし、それを死守しているのです。無知であり続けることを太郎冠者は切実に欲望しているのです。”
    私達は嘘をつくとき、相手を自分より愚鈍だと思っている、と言う邪悪な部分を見ないようにして嘘を付いたり誤魔化したりしている。でも、こうやって見ない個所を作ることで、相手からは何を見てないかが良く見える。そうやって見ないようにする努力は、ついには「当たり前の様に出来ること」になり、「見ないようにしなくても」、「普通に見ない」、そして、「見えない」と言う風になっていくことに納得。
    そして、この抑圧こそが、その人の個性を強く作り上げていて、だからこそ人間として人間臭く面白いのかもしれない。

    ”歴史は「いま・ここ・私」に向かっていない”と言う話もとても興味深く、視点があちこちに存在することを教えて貰った感じ。日本にあった独特の歩き方があり、それが排除されたことや、体育坐りが”日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例”と捉えることも出来ることなど、いつの間にハマりこんでいる構造が少しずつ見えてくる。

    入門書と言えど、知らない人物や言葉もあったり、簡単と言う訳では無いけど、物事を深く広く捉えたり、考え方の応用にも活かせる良い本だと思う。

  • 『街場』シリーズの内田樹が、フェルディナン・ド・ソシュールと、「構造主義の四銃士」であるクロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ロラン・バルトを取り上げて、構造主義を解説している。
    著者によれば、「私たちは自分では判断や行動の『自律的な主体』であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績」であり、9.11同時多発テロの後のアメリカによるアフガン空爆を例にとれば、相反するアメリカの国民の見方とアフガンの国民の見方は「等権利的」であるとする今や常識化した捉え方こそが構造主義の根本的な考え方である。
    また、四銃士のそれぞれの主張を極めてシンプルに言うと、「レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っている」のだという。
    本書は、『使える新書(教養インストール編)』(斎藤哲也編)で、「内田樹氏は、天才的な批評眼の持ち主か、稀代の大ボラ吹きのどちらかである。そうでなければ、フーコーやらラカンやらの難解な構造主義の知見にピタリとはまるたとえ話を次々と思いつくはずがない。・・・とにかく本書は究極の入門書と言ってもいいくらいわかりやすい。しかもそれは内容を薄めたわかりやすさじゃない。果実の味を果汁100%ジュースで味わわせてくれる ― そういうわかりやすさなのだ」と紹介されているが、現代思想特有の言葉の難解さは付きまとうとはいえ、専門外の私にも相当程度分かった気にさせてくれた。
    著者が目指した通り、「入門者のための、平易に書かれた構造主義の解説書」となっている。
    (2005年11月了)

  • これは面白かった。というか今後内田樹の本を読む上での基礎知識として必要っぽいしこれ一番最初に読んでよかった。人によって視点が違うというのは最近の考え方だというのは意外だったし、昔は絶対的・普遍的な何かが必ず存在するって考えていたなんて・・・つまり50〜100年後の考え方は一体どんな風なのか非常に気になる。
    敬語で書こう。
    この本は様々な学者の主張や考え、学びを大雑把に、本質的なところを抜き取って分かりやすく説明してくれた本で、そういったものに興味が有る自分にとっては素晴らしい書物でした。一ヶ月前くらいに読んだので、詳しくはノートを見ながら書きますが、・・・いや、ノートに書いてなかったです。とりあえずラカンは難解なのは伝わりました。
    〜らしさ のくだりは印象に残っています。「男なんだから」とかはセクハラにならないのになんで「女性らしく〜しろ」みたいなことはセクハラになるんでしょうか。女性がこれまで受けてきた迫害や不平等などに対するカウンターとしてそういった文化や認識が育まれているのだろうか・・・。この本読んだ後気になったのは、姉と母の会話で、姉の同僚の飲み会で男子が多く払うのは当然のように会話で扱われており、散々女性の権利だの平等だの言うくせにそういった場面では昔ながらの価値観に従うのかと、若干憤慨しました。
    この本は面白い考え方を紹介している本なので、本当にすごいのはここで紹介された学者た考えなのだけれど、それでもこういう本は価値あるものだとおもった。

  • ずいぶん前に出版されている本です。だいたい、刊行当時に見逃したりで買わなかった本は、図書館とかで借りたりもらったりするのを除いて、手にすることはほとんどありません。その本とは縁がなかったのだから、なんて勝手に思っています。この本については少し前から気になっていて、内田先生の最近の本を買おうと思って本屋をのぞいたのですが、それよりもやはりこっちでしっかり現代思想の勉強でもしようと思って、探して入手しました。読んでみて驚き。「目からウロコ」の連続。「なーんだ、そんなことだったのか」(帯にそう書かれています)と思える個所が多数。もちろん、いつものことながら、他人に説明できるほど自分の中でこなれてはいないのだけれど。ただなんとなくではあるけど、学生時代に少しかじった科学思想史であるとか、文化人類学などで感じていたこと、そして自分にとってしっくりいって、自然と身についている考え方が、構造主義から来ているのだということは分かりました。現在の自分たちの尺度で過去あるいは他の文化をはかってはいけない。想像力を豊かにして、相手の気持ちになって考えることが大切なのだといつも思っています。ユダヤ人の本に比べるとずいぶんと読みやすかった。

  • ラカンの章だけよく分からないのでラカンの難解さを慮る。大学生の時、教授でさえ「ラカンは難解で自分でもちょっと不安」と言っていたのを思い出した。個人的にはバルトとフーコーの学説が面白いと思った。あとがきに、取り上げた学者四人の言っていることがめちゃくちゃ適当に(分かりやすい!)書かれていたが、ここにある通りフーコーが「私はバカが嫌いだ」と言ってるのだとしたら、自分が学生の時あれだけ人気だった理由が分かった笑

  • 【2015年11冊目】
    久しぶりに知的好奇心を揺さぶられる新書でした!
    「構造主義」がなんなのかは結局まだよく分かりませんが、内田樹さんの読みやすい文体のおかげで、構造主義に影響を与えた思想家たちの考え方のほんの一部くらいは理解できました(^^)

    難しいことを噛み砕くってなかなかできないので、著者の頭の良さに脱帽です!

    2020.25th
    5年ぶりの再読。☆×3
    とにかく難しかった。5年前より頭が固くなったか、それとも5年前には分かったフリして感想書いたかどちらかでしょう(笑)。

  • 大学時代の課題図書として購入。
    もうすっかり忘れてしまった今、再読。

    私は当時どんな読みをしていたんだろう、と、冷や汗の出る結末に。

    内田樹のわかり良さが出ている良書。
    後半、結局のところ構造主義って何だったっけ?になるので改めて。

    自分の判断や行動は、自分自身が主体的に行っている、と私たち自身は思っている。
    しかし、その思考には私たちが属する社会的観念が忍び込んでいるものだ。
    だから、常識とは正義ではない。世界は見方によって様々に変わってくる。

    という所から始まって、マルクス、フロイト、ニーチェ。難解とされるソシュールやラカンにも言及していて面白い。

    だが、分かりすぎて、こんなに簡単に分かってしまっていいのだろうか……という疑問符と申し訳なさが生まれる私であった。

  • わかりやすい言葉だけが並んでいるその向こうで、「何か大変なこと」が進行しているのに私のおつむではそれをつかみきれない、という感触をぬぐいきれない。わかったつもりになって本を閉じたとたん、内容は頭から霧消する。難しいことをわかりやすく教えてくれる良書の落とし穴だといつも思う。単に自分の思考体力の低さのせいとも言えるけど。

  • こういう本がとってもありがたいです。
    文学者?であり思想家?であり著述業?であり大学の先生である内田樹さんが書く、構造主義入門です。
    内田樹さんが、大人の人々(60代とか?)向けに講演をしたのがベースになっています。
    知的探求、というヨロコビを得れます。楽しい読書でした。

    もともと、構造主義とは?というのは、僕は一切知りませんでした。
    というか、それを語るための日本語たちが、あまりにもこなれていないコトに反感をもっていたくらいです。

    本書序章でいきなりざっくり、内田さんが述べているのは、
    <構造主義っていうのは、ある、ものの考え方のことなんですが。じゃあどういうものの考え方かっていうと、我々が常識と思っていることは、すべてそれは我々が属している集団にとっての常識にすぎないんですね。ほとんどの場合、我々は、自分で、自律的に、自主的に、ものを考えていると思っています。だけど、実は、我々を取り巻く環境や集団に、ものの見方まで実質決められていることがほとんどですよ。・・・そういう考え方のことなんですね>
    ということです。

    で、コレ自体は、内田さんも言っている通り、割と2013年現在では決して革命的な考え方ではありませんね。
    ある程度、知的に?言葉で考えたり、考え方そのものを考えたり。そういう人たちの間では、アタリマエのことかもしれません。
    それに、特段<知的な作業>を普段必要としない人でも、平たく言えば「相手の身になって考えれば別の風景が見える」ということなので。想像力と寛容さの問題かもしれません。

    ところが、こういう考え方が、一般的に確立したのは、1960年代以降、構造主義と言われる運動の後のことなんだそうです。

    まず、構造主義の前に。
    マルクスさんが、「階級」というものの見方で世界を考えたんですね。
    で、ヘーゲルさんがその列の一個前にいたそうなんですけど、「労働」して「生産」することで、ヒトは何者かになるのである、ということを考えたんですね。
    行動主義なんですね。始めから何者かであるわけじゃなくて、階級とか労働によって、ヒトは作られる、みたいなことですね。

    これに、フロイトさんが。
    「ヒトは、実は、本人がアタマでコントロールできない、無意識ってヤツに突き動かされてるんだ。分かりたくないことを、分からないしたり。そういうことをしているんだ」
    という、ことを考えます。

    一方でニーチェさんが、資本主義の勃興、中産階級、市民社会、大衆社会という時代の流れの中で、
    「我々は我々の周りの人々に同化しようとしているだけだ。同化したいという欲望があるんだ」
    「大衆社会は馬鹿である」
    「善悪?モラル?判断?結局そのときの環境に支配されてるんじゃん」
    というようなことを思ったりしてます。
    (そこからニーチェさんは超人=貴族 と 奴隷 というなかなか刺激的かつ詩的なことを訴えたりするわけですが)

    で、この三人、マルクスさん、フロイトさん、ニーチェさん。
    この人たちが、構造主義の地ならしをしてくれた。んだそうです。

    で、ソシュールさんの登場です。
    ソシュールさんは、一般言語学講義というのが有名なんですけど、哲学者とかっていうよりは、言語学者なんですね。
    で、例えばこういうことをいう訳です。
    日本語では肩が凝る、というけど、これに相当する英語はないんですね。背中が痛む、という言葉になってしまう。
    ということは、英語で暮らしている人には肩が凝る、ということばで考えたり表したりする感覚は、ないわけですね。
    ま、つまりコトバは絶対的な、神から与えられたような万能のものではなくて、ただたんに、我々がたまたま属している集団では、そういうコトバで暮らしているだけなんだよ、と。

    今考えれば当たり前ですが、交通や情報が発達し始めた19世紀末、20世紀初頭にそういう捉え方が出てきたわけですね。

    で、そうするとぼくらはコトバで考える訳だから、考え自体も、自分が属してる集団に支配されてるんじゃないか、と。
    我々が語る想いというのも、必ずコトバな訳ですから。元をたどれば誰かのコトバな訳だ。借り物じゃないか。みたいな。
    もちろん、そんなこと言ってたら暮らせない訳ですが(笑)、でも、一理ある。別にそれで悩まなくていいけど、そういう考え方で世界を見てみると、色々目からウロコかもしれません。

    という訳で、ソシュールさんの後に続くのが、構造主義の四銃士だそうで。
    レヴィ=ストロースさん、ラカンさん、ロラン・バルトさん、ミシェル・フーコーさん、なんですね。
    なんとなくみんな有名ですよね。

    という訳で、内田さんはとにかく、あとはこの四人がだいたいどういうことを言ってるのか、ということを説明してくれます。

    ミシェル・フーコーさんは、歴史を考えるときに、「今が正しいという前提での考え方」「今が昔よりも進歩しているという考え方」を、それは違うでしょ、と言ったそうです。
    そして、フーコーさんは、
    「狂人が隔離されていく歴史」
    「人間の身体のあり方すら、政治や社会に規定されていくこと」
    「医学含め、分類してカタログ化していく根源的な欲望がある。これが権力と結びつく」
    というようなことを考えます。
    平たく言うと「当たり前と思っている制度への疑いの眼差し」ということですね。
    ひとつだけわかりやすく「ほほう」と思ったことを書くと、例えば日本の子供たちの「体育座り」「三角座り」というのは、1950年代に、国家によって制定されて広まった座り方なんだそうですね。
    どうしてその座り方を広めたのか。その座り方は、面倒くさい子供たちをおとなしくさせやすいんだそうです。どうしてか。医学的に言うと、物凄く体を圧迫して、呼吸が細くなり、声が小さくしか出ない、不健康な座り方なんだそうです。うーん。恐ろしい。

    ソシュールさんもそうですが、このフーコーさんの考え方からして、わかりやすいのは、あくまで「世界の見方」というか「考え方」ですから、「行動指針」ではないんですね。
    「マルクス主義」とかの方が、なんとなくゲバ棒をふるったり、革命を志向したり、権力と戦ったりとか、「敵」が可視的にはっきりしているし、もともとが「行動してナンボやねん」という、ヤンキー的脂質を含んだ食べ物なんですよね。
    ところがそれは実は、まあある種宗教みたいなものなんですよね。だって、考えずに信じて着いていけばいんだもん。
    こういうのを、始めから疑ってかかる。「構造主義さん」は。
    ホントに敵って敵なの?ほんとに正義なの?ほんとに相手は悪なの?悪ってなに?みたいなことですよね。
    ソンなこと言ってたら何もできないジャン。
    どうして、何かをしなきゃいけないの?
    何かわからないのに、「何か」をすることは、どうして正しいの?
    それは、誰に借りたコトバですか?
    ・・・っていう感じですね。
    まあこりゃ、構造主義は、歌手で言えば全国大ヒットはしない感じですよね。
    だって、行動的にわかりにくいから。
    マルクス主義とか軍国主義とかスパルタ主義とか国粋主義とか愛国主義とか、そういうノの方が流行りますね。
    だって、わかりやすいもの。
    わかりやすいってことは、どこかでもって、思考的な論理じゃない、理由のない感情論に行き着くからですね。ソコからはじまってるンですね。
    だから当然、どこか足元がしっかり固まってる。だってそこから先は疑うことをやめるから。
    ソコで、「地球はお皿のようなものだ」という前提、それはもう疑わないから。
    ナザレのイエスは神の子だ、ということは疑わないから。
    大和民族は素晴らしい。アメリカは正義だ。ユダヤ人は劣等だ。学歴の低い人は努力が足りないから恵まれなくても自業自得だ。ということは疑わないから。
    どこかで、疑うことをやめて、とにかく勢いでどどどっと行けばいい。それも周りと同化しながら、どどっと行けばいい。安心ですよね。ニーチェさんは嘔吐するでしょうが(笑)。
    で、そういうのもまあ、斎藤環さん的には、現実生活的に必要なときもある訳ですが。
    フーコーさんは要するに「ヤンキー的にあるいは群集心理的に、制度を疑わずに同化しようとする馬鹿が多いんだよね。そういう馬鹿が、私は嫌いだ」と、言ってるんですね。

    ロラン・バルトさんは記号論。
    シニフィエとシニフィアンですね。「将棋の歩」というコトバと「歩の駒」。
    ですがそれより、バルトさんは、
    「我々の思考は、思考に使う言葉のコントロール下にある。その言葉を使う集団の文化の、コントロールを受けている」というようなことですね。
    つまりヤンキー言葉ばかりで暮らしていれば、ヤンキー言葉で考えて、ヤンキー的思考に囚われる。
    官僚的言葉。おじさん的言葉。芸能界的言葉。などなど・・・。
    こういうローカル言語をエクリチュール、と呼んだそうですね。「エクリチュールの零度」って、なんか有名ですね。カッコイイ題名ですね。蓮實重彦さんぽいですねえ。
    ま、蓮實さんが小沢健二なら、バルトさんがブライアン・ウィルソンな訳で。解りにくい例えですみませんが。

    そしてまた、バルトさんは、例えば文学のような作品の解釈や批評として、作者の生い立ちとか作者の意図から話を立ち上げるような批評を否定したそうですね。
    つまり、「作者はこのとき失恋したから、それを表現したくて、されていて、こういう小説になってる」とかっていうのは、所詮ワイドショーと同じで、その作品、テキストにとっては関係ない、と。
    所詮全ての言語はどこかからの引用であり、コラージュであり、それは作られた瞬間に作り手の意図や思いと関係なしにテキストそのものとして蜘蛛の巣のように色んな読まれ方で世界に浸っていくんだ、みたいなかんじですね。まちがってないよね。
    その作品の背景とか生産経緯とかはまあ、どうでもいいんだと。もっと作品そのものをちゃんと見ようよ、と。文学なら言葉ですね。
    つまりバルトさんは「何を考えている、とか、こういう育ちです、とかってよりも、結局、言葉使いで決まるんだよね」と。

    レヴィ=ストロースさん。変わった名前ですよねえ。どうして名前に=がつくんでしょうね。
    まあ閑話休題。
    サルトルさんとかが、実存主義という考え方を提唱していたんですね。これは何かというと、雑にいうとマルクス主義の流れなんですね。実存って要は、現実的な自分のあり方、という感じ。
    要は、オレは何を考えている、とかってのはいくらでも嘘もつけるんで。そんなことより、何ヤってるの?どういう行動してるの?ってかんじですね。五月革命で紅衛兵な感じですね。威勢がいいです。
    で、レヴィさんは、「野生の思考」という本の中で、サルトルさんをぶった斬ったんですね。
    レヴィさんは社会人類学者さんで、色々世界中の未開部族とかの研究をしたんですね。その結果として、サルトルさんたちが物差しにしている、マルクス主義的な、「歴史」とか「進歩」とかという、ある種、ゼッタイ的なものごとを、真っ向否定したんですね。
    そんなことは、○○族の暮らし、歴史には当てはまらない。
    サルトルの哲学は、正当性がない。ただ、未来の人類が見たら、「20世紀中盤のユーラシア大陸西側のとある部族は、こういう盲信で暮らしていたらしい」という資料として貴重だね。と。強烈ですねえ。
    で、なんだかんだサルトルとか行動的左翼側は怒って、レヴィさんを罵倒したりした訳ですが、有効な反論はできなかったんですね。どっとはらい。
    また一方、色々な部族の研究から、「家族」のあり方を分類分析したり。言語の音による分類とか考えたり。いろいろレヴィさんは当時斬新な、今は割と、よく考えたら当たり前の考え方になってるコトを提唱したそうです。
    そういういろんな部族、いろんな人たちがいることを踏まえて、その中でどれが正しいとか間違ってるじゃない、と。つまりレヴィさんは、「みんなそれぞれだからさ。仲良くしようよ」と。

    さて、ラカンさんですね。
    ラカンさんは精神分析で、フロイトさんをベースに研究を進めたそうですね。
    鏡像現象とか言われますが、子供が始めて鏡を見ると結構夢中になる。これは始めて「私」というものをそこで認識して、「私という肉体」もそこで始めて認識する。手に入れる。
    みたいな話がジャブ的にあって、
    「その人が語るその人の物語は、その人の真実であることはほぼなくて、その時その人は、話す相手に、自分はそういう過去を持っている人だ、と思われたいのである」
    という、よくよく考えればナルホド当たり前のことだけど、言葉でがっつり言われるとなかなか気まずいことを述べたりしてます。
    その上で、結局精神病、(今の日本語では統合失調症か)っていうのは、世間の不条理に上手く適応できないわけですから、まずは世間は極めて不条理であるという認識にたった上で、それとウマクやらなきゃしょうがない、と。それがまあ、大人になるっていうことだ、と。この理不尽さを認識して、そこで上手くやれるように、コミュニケーションで、話を聞いてあげて、治していこうよ、と。
    つまりラカンさんは、「世間は理不尽だ。それを我慢できる大人になれよ」と。

    まあそんな感じの内容でした。
    内田さん自身が、「物凄く雑に要点と思えるところだけまとめてますから、専門の研究家の人からみたら、間違ってたら、まあ許して」と言ってます。
    だからまあ、僕の備忘録が間違ってたら、ごめんなさい。
    でも間違っていたとしても、誤解も含めてそうやって伝播していくのが、思想であったりテクストであったりするんでしょうね。

    構造主義の感じはよくわかりましたし、それが現在の我々の中に知らなくても根付いているのも分かりました。
    そしてポスト構造主義というのがどういう傾向になっているのか、構造主義を覆すほどの目からウロコな視点があるんですかね。

    一つ思ったのは、構造主義っていのが60年代~70年代の産物だとすれば、それはやっぱり、飛行機とか、世界大戦後の多少の世界の政治治安の安定とか、そういうやっぱり研究や思考のベースとなる技術とか連絡手段とか情報とかの進化というか変化があって、その流れで、物事の考え方、世界の考え方も変わってきた、ということなんでしょうね。基本、西欧市民大衆社会を絶対的なものと考えないというのがベースにありますからね。
    そうすると、インターネットとスマートフォン、世界的な先進国の高齢化と経済不安、という2013年現在からこの先、どういうものの考え方、視点が出てくるのか。
    楽しみでもありつつ、新しければ良いものではなし。また、新しいものが良いものとは全く限らないんですよね。
    そういうこの先の考え方のためにも、読んで良かったなーと思えました。

    でも、そういえば、なんで「構造主義」なのかは分からなかった。「構造」の主義?訳したのは誰?うーん・・・。

  •  まえがきと、あとがきが、非常に秀逸。こりゃ読みたくなりますよ。

     「適当にひろーく、かなりうすーく」が読書傾向という私ですが、とくに「哲学」は避けて通ってきた気がします。どういうことかというと、この本の前書きにあるとおり、“私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。「知りたくない」からです”ということなのでしょう。
     なのに、なぜこの本を手に取ることになったのか。それは「ちょっと偉そうなことを言ってみたい」とか「なんか偉そうに書いてあることを、ふふん、と切り返したい」という手っ取り早い欲求があったからです(爆)。で、この本は、なかなか上手にこの欲求に答えてくれる本でした。

     まぁ、なんつーか現代的? モダン? ポストモダン? よくわかんないけど、ちょっとアタマの良さそうな考え方ってあるじゃないですか。ニューギニアの奥地に住む人たちの生活を「遅れてる」というよりは「西洋文明が『進歩』してるというのは幻想だ。文化に貴賤はない」というほうがイカしてるでしょ。ほかにも「名付けられることによって、初めて意識化できるのだ」とか、「自分が正気であるかどうかは、自分ではわからない」とか、「作品に真にオリジナルなものなどなく、先行する何かからの影響を逃れることができない」とか。
     そういうものの言い方が、ああ、バルトからきてるのねとか。ああ、レヴィ=ストロースからなのね、とか。ラカンが言いそうなことだよなとか。そういうふうに理解できる。便利。素敵。良い本だ。

     まぁ。頭のよさそうなものの言い方を覚えたところで、生兵法はけがのもと。うかつに使ってはまずいでしょう。でも、自分でサギはしなくても、サギの手口を知っておけばうかつにだまされないでしょ。とりあえず「思想的オレオレ詐欺」を防ぐには、すごーくいいんじゃないでしょうか、この本。

     著者が後書きに書いていること。
     “レヴィ=ストロースは「みんな仲良くしようね」と行っており、バルトは「言葉づかいで人は決まる」と行っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。”
     読み終わると、まさにそういうふうに思える。これでもう、怖くない。
     こういう「わかったような気になる」のも、構造主義的な罠にはまっているのでしょうが。という入れ子構造も、なんとなく構造主義な感じ?(これじゃまだまだ詐欺には気をつけないとね)

  • 実にわかりやすい。構造主義の思考様式がわかる。
    フーコー、バルト、レヴィ・ストロース「贈与」、ラカン「鏡像」
    どれもなるほど!と思った。

  •  今更ながら内田樹の代表作の一つ。私たちは用いる言葉の中で既に構造主義的な単語を多く採用して話しているらしい。これはこっちから考えたらこうだけど、あっちから考えたら違うように見える、といったような今では当たり前の思考様式そのものが、それ以前には少なかった様式なんだそうだ。二章あたりのソシュールの、言語が概念そのものを作る、私たちは既にその言語によって存在や思考そのものを規定されている、という理論は非常に納得。大学一年時に読んでおけば良かった本を今読んでみても学ぶことが多かった。

  • これは明快!さすが内田先生。


    まえがき、構造主義が生まれる前の話、から面白かったなあ。
    もっと早くこの本に出会っておけばよかったね。

    さて、ものが分かるってどういうことなんでしょうかね。AはAですよ、という平面的で同語反復的な説明だけでなく、BはAではない、あるいはAはBと違う、という立体的で相対的なアプローチもありますね。
    私たちがいかに考えやすいように考えてしまいがちであり、かつそのことにどれだけ無反省で無頓着であるか。
    知りたくないことを自動的にカットしてしまう機能が備わっていること。

    思わずうなってしまいますわ。内田先生の本はきっとこれからも読むのでしょう。
    と同時に、「自分の足で山を登りたい」欲も湧き上がる次第です。

  • ゼミで指定された参考文献と言うことで買って読んだのだが、やはり今の時点で構造主義を完全に理解することは出来ない。
    しかし、この本は構造主義を簡単に理解出来るようによく工夫されており、読みやすかった。
    専門用語はあるものの、例え話を取り入れることに分かりやすく、簡単にまとめている印象だった。それがまた良かった。

    読み終わる頃には前より構造主義について理解出来た気がする。が、まだ理解出来ていない部分もあったりするので、また読み直したい。

  • 今まで断片的にしか知らなかった思想家たちの考え、そしてそれがどのように現代に続いてきたかが初めて理解できた。
    (このようなまとめ方は人間主義としてフーコーに嫌われるだろうが…)
    チャラいタイトルではあるけど、現代の考え方について考えたいのならオススメ

  • 現代社会における価値観がどのように形成されているか、ということが描かれており、歴史の中における現在の立ち位置を確認できる。比較的平易な文で書かれてるけど眠くなる。

  • 「構造主義」など、思想・哲学の用語を聞くと、とかく難しいものと思い込んでしまいがちだ。かくいう私もそうであった。しかし、高校時代に教師から勧められた本書を読んでみれば、いままでの私がいかに偏見の塊であったかを思い知らされる。「あとがき」には本書で取り上げた「四銃士」の思想について、ごくシンプルにかつ乱暴にまとめてしまっている箇所があるが、じつはそれがきちんと的を射ており、つまりは四人とも現在でもありふれているような、簡単な教訓を小難しい理論で語っているだけなのである。そういうことがわかり、こういったジャンルに対する壁が一段低くなったというだけでも、この本を読んだ価値はあるだろう。一方でさすがに複雑な思想であるだけあって、これだけではやはり完全に摑み取ることはできない。とくに、ジャック・ラカンの思想がいちばん難しく、読み返してみてもなんだかよくわからなかった。ただ、逆にいえばそこ以外はすらすらと読めたわけで、そういう点でもやはり本書は良い作品なのであろうと思う。

  • 一読の価値あり。再読の価値はない。 上っ面をさっと撫でたようなものゆえ、深みがなく面白くはない。簡単な紹介文のような感じ。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田樹の作品

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