- Amazon.co.jp ・本 (383ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167309916
作品紹介・あらすじ
76年夏、運命の日が訪れた。殺人。判決は死刑。兄は銃殺刑を求めた。その恐怖の世界を抜け出すための手だては、たったひとつしか残されていなかったのだ。刑執行を数日後にひかえた兄との対決、母の死、長兄の失踪…そして最後の秘密が暴かれる。家族のゴーストと向きあいつつ、「クロニクル」は救済と新たな絆を求めて完結する。
感想・レビュー・書評
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67冊目『心臓を貫かれて 下』(マイケル・ギルモア 著、村上春樹 訳、1999年10月、文藝春秋)
死刑囚ゲイリー・ギルモアの実弟が描き出す呪われた一族の年代記、ここに完結。ページ数・内容ともに凄まじいボリュームの力作である。
「家族」の素晴らしさを説く物語が世間に溢れかえっているが、それが孕んでいる恐怖の側面を決して無視してはいけないことを本書は教えてくれる。
「いつもそこには父親なるものがいる(There will always be a father)」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
シリーズ
「あのころブクログが欲しかった。ステイホーム対応、記憶頼みで昔の本をクイックレビュー」
(上下巻で同じ感想を投稿します)
たぶん2000年代半ば読了。
細かいことは憶えていない。のだが。
合理性を前提とした社会において、裁判で明らかにされる殺人事件の「動機」は、我々が合理的に理解できるものでないと納得できない。
保険金、だとか、恨み、だとか。
もし動機の根源が、「血脈の呪い」「家族の呪い」だ、と言われてもなんだそれは、となるだろう。
でも確かにそういうものはあるのだ、と感じさせられる作品(だったと思う)。
もちろんオカルト的な話ではない(そういう恐怖感も読んでいるときは味わったが)。
「合理的」な言葉で言うなら、劣悪な家庭環境が子どもの心の内奥をいかに損なうか、というようなことかもしれない。でもしつこいようだが、そういう「合理的な」理解を簡単には許さない深い闇がこの本にはある。
訳者は村上春樹。彼の文学的テーマとも共鳴しあう。
再読したいと手元には持ち続けているが、しんどくてやれていない、そんな本。 -
人から勧められて。
オカルト系ということで手にとったが、これは仏教で言うまさに業の話だと思った。
運命でもカダルでもなく業。
役者自身が言う作品の所々の停滞やただただ暴力を陳列していくかのような記述が気になるところはあるが、先天性と後天性や、死刑制度と刑務所のシステムの本来の意義など様々な論点が目を覆わんばかりの精神的肉体的暴力描写の中に開陳されていく。
当事者である作者が俯瞰して書けたことがむしろ怖いと感じた。 -
殺人事件の加害者の生い立ちを題材としたノンフィクションである。兄は殺人の罪で死刑に処せられた。四人兄弟の末弟がその端緒となった恐ろしい家族の秘密を語り出す。壊される希望、家族の悪霊…愛を求めても暴力しか与えられない子ども。最悪の幼児体験が生み出す狂気世界はホラーのように怖い。果たして魂の救済はあるのか。全米批評家協会賞受賞作品であるうえに村上春樹の翻訳が上手い。
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読後しばし途方に暮れる。
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ある家族の物語。人の弱さとトラウマ。
末弟のマイケル(著者)は上の兄弟から年の離れた弟で、いつも家族のメインストーリーからは外れて育ってきたという感覚があり、自分の家族の物語をとても客観的に語る。村上訳だからということもあるが、なかなか読ませるノンフィクション小説。
ああああアア……また、なぜこんなことが…と何度も絶望的な気持ちになる。 -
父はいつも疑念を抱いていた。しかし皮肉なことに、彼はゲイリーがロバートの子供ではないかと疑っていた。父が後年になってとくにゲイリーを嫌いだし、烈しい殴打を加えるようになったのはそのせいもあるかもしれない。あるいはまた、ベッシーが小さなフランキーをしょっちゅうぶっていたのは、その秘密の故なのかもしれない。おそらくフランクの姿を目にするたびに、母は情事のことを思い出したのだろう。おそらく彼女は罪悪感や恥を感じ、それで子供を責めたのだろう。いずれにせよ僕ら兄弟の中で、母が常日頃手を出していたのはフランクジュニアだけだった。母と父とのあいだにあったそんな秘密のせいで、フランクジュニアとゲイリーは多大な犠牲を支払わせることになった。
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なんだか春樹っぽくないと思いながら読みました。
村上春樹氏の翻訳物もこれまでに何冊かは読んでいますが、他のものはもっと文体そのものに春樹っぽさを感じていました(もっともそれは私がチャンドラー物を中心に読んでいる所為かもしれません)。
本書で描かれている世界観は村上春樹氏の作品と非常に近しいものがあるように感じます。
訳者あとがきによるとこの翻訳は『ねじまき鳥クロニクル』第3部の執筆と並行して行われていたようですが、『ねじまき鳥』でも大きなテーマとなっていたのは、「僕」に訪れる理不尽で圧倒的な「悪」とどのように対峙するかということでした(正確にはそうだと勝手に思っています)。
本書でも作者の「僕」は「僕」に、あるいはギルモアという家に、否応なく押しかけてくる「悪」の正体を見極めようと静かな冒険を進めていきます(なお本書ではその「悪」を「荒廃(ruin,devastation)」と表現し、さらに「ゴースト」と呼ぶと訳者である春樹氏は述べています)。
こうした見方に立てば、本書の結構と村上春樹氏の作品の結構は非常によく似ていると言えるでしょう。
そうだとすれば、本書の「僕」の姿にもっと『ねじまき鳥』の「僕」の姿が髣髴とされてもよいように思うのですが、今回は不思議なほどに春樹氏の影のようなものを感じませんでした。
何度か「これ村上春樹の訳だよな」と表紙を確かめたほどです。
それは春樹氏が結末まで読まずに「見ずてん」(そんな言葉があるんですね)で訳したために生じたものなのか、それとも本書が描く圧倒的な事実の前に春樹的なスタイルが霞んでしまうためなのか、その辺りのことはよく分かりませんが、春樹氏の作品で、これだけ春樹的なるものを漢字なかった作品は初めてでした。
しかし、本当にこの本を読みながら何度その手を止めたことでしょうか。
過日亡くなった父親に思いを馳せ、
いま一人で暮らす母のことを慮り、
これから生きていく自分の将来を思い、
娘たちの姿を思い浮かべて、
人生というものの計り知るべくもないその大きさに圧倒されて途方に暮れそうになると同時に、いまこうして在ることに感謝したくなる。
5年後か10年後か、私はまたこの本を手に取る日が来るような、そんな気がして仕方ありません。 -
米国で死刑論争を巻き起こした殺人犯の弟であり、その家族の末弟でもある著者が、怒りと暴力につつまれた家族の歴史をつまびらかにした手記。宗教を背景に両親が受けた傷と、その両親から血を受け、暴力を受けた子ども達の生きざまを見ると、「呪われた家族」なんて言葉すら陳腐に聞こえてくる。この圧倒的な怒りと暴力の前に、ただただ言葉を失った。著者がどんな思いでこの本を書いたのか、書くことで救われたのか。答えはよくわからないけれど、相当な勇気をもって書いたということはまちがいないと思う。
それから、もうひとつ。村上春樹の翻訳は秀逸。 -
2017.01.13
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読み終えた時、本書の作者マイケル・ギルモアが考えていたことをふと想像してみたくなった。
時間の経過と共に崩れていくことが始めから決定されていたような家族に生まれ、父親の暴力が兄達に向かったおかげで偶然にも兄達ほど地獄を見ずに育ったことは不幸中の幸いでありつつ、(母や兄達と同じものを共有できなかったという意味では)疎外感を覚えるものだったと、本書上巻の初めのほうで筆者は述懐している。
一人また一人と悶えながら死んでいく家族達に対して彼が向ける感情は入り乱れ、錯綜したものだ。
例えば、一家の人間全てを荒廃に追いやった父親に対してですら、マイケルの感情は複雑だ。
自身が生まれるより前に家庭内で起こっていたことを思えば、そしてそのトラウマが次兄ゲイリーや三兄ゲイレンを死に追いやったことを思えば、父親フランク・シニアに対する憎しみは強いものになるかもしれない。
一方で、マイケルが知る往年の父は、少なくともマイケルに対しては愛情を注ぎ、全力で彼を守ろうとする頼もしい父親であったし、晩年には他の家族の振舞いに疲弊する弱り切った老人でしかなかった。
さらに、フランク・シニアが父親になるよりもずっと前のこと――あらゆる記録からブラックアウトされた彼の出自――を知るに及んで、感情がさらに複雑になっていったことだろう。
小説では相反する感情としてよく愛情と憎悪が挙げられるけれども、家族について書くこの人の文脈には、もっと生々しいものが渦巻いている。
どう整理したらよいのかわからなくなるほど様々な相矛盾する感情が入り乱れ、それらがめちゃくちゃに折り重なった末に出来上がった膿のようなものが、マイケル・ギルモアにこの作品を書かせているのだろう。
様々な方向で過多にならざるを得ない家族に対する感情は、彼に作品を書かせる一方で、別の絶望的な境地にも至らしめている。
《悲劇を繰り返さないためにも、自分達は決して家族を作ってはいけないのだ》という本書終盤で為されるマイケルの独白がそれに当たる。
気になって調べてみたところ、本書執筆後もずっと、マイケル・ギルモアは家庭を築こうとはしていないらしい。トラウマの深さを感じさせられるエピソードだ。
マイケルが抱え込み、ついに克服することが出来なかった感情の膿と同じようなものを、おそらくは彼の死んでいった家族達もまた抱え込んでいたのだろう。
次兄ゲイリーが、何の恨みもない人を二人も殺害し、その裁判の場で自らの銃殺刑を嘆願したのも、おそらく根は同じところにあるとマイケルは推測している。
上巻のレビューにも記したような”呪い(トラウマ)”が、彼ら一家の全員に取り憑いてしまっている。
その”呪い”は、元々は彼らが生まれるよりも前の時代に由来するもので、それが今では自分達の精神の一隅で暗い光芒を放っており、振り払うことができない。
もしもそうであるとしたら、じゃあどうすればいいのか――その結論が、ゲイリーの場合は破壊の末に処刑されることであり、マイケルの場合は記憶と記録の文章のほか何も残さず生を終えることなのだろう。
結局最後まで、彼ら一家は誰一人として何の救いも得られぬまま本書は終わる。
本書の結末は、あまりにも深くまで根差してしまったトラウマは、決してどういう形であれ浄化されることはないのだと、そう示しているように思う。 -
どうしても、自ら悲劇を招いてしまう人間というのが存在する。何かに諦めてしまっているのだろうか。毎日を着実に過ごしたり、慎重に過ごしたりするには、恐怖感が必要だ。例えば、寝坊した場合のリスクを考えて、人は寝坊しないように努力をする。でも、そんなリスクをどうでも良いものとして感じてしまったら?目の前の人間を、殴りたい時に殴る。この著書で描かれる人物は、そのような問題を抱えている。
もう一つ気になったのは、殺人犯の商品化についてだ。サムの息子法という法律があるが、事件や犯人の個性を表した商品や、犯人自身を神聖化してしまうのは、どうなのだろうか。また人間というものは、何故、良し悪し問わず、有名なものの価値を無意識的に高めてしまうのだろうか。そこには大衆性から逸脱したものへの、ある種の羨望があるのかも知れない。悪事で有名になるのは御免だが、人間の承認欲求の究極形を表しているのかも知れない。 -
67/364
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殺人事件を起こした兄を持つ弟が家族と兄、自分自身について綴った本の下巻も読み終えて感じたこと。
詐欺と失踪を繰り返し支配的な父親、そんな男と別れることも出来ず流され精神的にも安定を欠く母親。
こういう親になるには不適格とも言える人物の間に生まれて育つことにより、犯罪に手を染めやすくなることは容易に考えられる。
ゲイリーはまさに絵に描いたようである。
それでも、みんながみんな犯罪者になったわけではない。事実ギルモア家の兄弟で殺人を犯すに至ったのはゲイリーのみである。
結局は、家庭に原因がある、そんな簡単なことではない。
家庭によって犯罪者となる種は植え付けられはしても、その種を育ててしまったのは自分に他ならない。
どんな犯罪者に関する書物を読んでも、やはりこの結論になってしまう。
この本で、誰が最も気の毒としか言えないかというと、長兄フランク・ジュニアに他ならない。
父親に疑いをかけられ嫌われ、庇うべき母親からも憎まれる。それでいて長兄であるという責任は負わされる。
ただ理不尽としか言えない。
それでもフランク・ジュニアは真っ直ぐ懸命に生きている。
ゲイリーと同じように、いや、ゲイリーよりも多くの種が蒔かれているにもかかわらず、フランク・ジュニアは育てることはしなかった。
同じ家庭で、より辛い目にあっても道を踏み外さないひとはいる。何がどれだけあっても自分の行為の責任は自分にある。免罪符にはならない。
暴力を振るい支配するばかりであっても親は親。
死ぬとなれば動揺するし悲しいし死なないで欲しいと思う。
こういう感情は至極当然と言えば言えるけれど、不思議でもある。親子というものは他人にはわからないものだと思う。
兄弟姉妹も血は繋がっているが、親子の関係とは明らかに異なる。
夫婦や友達、親戚や社会など様々な繋がりはあるが、親子は一番不思議な関係なのかもしれない。
親は選べない、これは本当にそうだとも思わされる。
本書を書いたマイケルは、かわいそうな兄だから犯罪を犯しても仕方ないとは言っていない。それでも文中から謝罪する姿勢は窺えなかった。
ゲイリーの母親も、息子が殺人を犯したこと自体に衝撃は受けても、殺されたひとや遺族に詫びたいというより息子を死刑にしないでと息子のことばかり考えている。
ここもわたしには理解が出来ない。
何よりまず申し訳ないという気持ちがあって当たり前だと思うが、そうではないようだ。ひとに尋ねられれば申し訳なく思っているとこたえるとは思うけれど、そうではなく自主的に思わないことが理解出来ない。
こういう傾向は日本人でも同じような気がする。自分の子供を心配するのは普通だと言うひともいると思うが、普通でないことをした子供よりもまず考えなくてはならないことがあるはずなのに。親である前に人間として。
犯罪を起こした家族を持つ人物の描く家族物語は、答えは何も教えてはくれないけれど、多くのことを考えさせてくれる。
自分と家族との関係を見つめ直す機会にもなる本だと思う。 -
救いがあることを望む。
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かなり分厚い本です。値段も2900円と高い。(2000年現在、文庫で手に入ります。)発行された当初、私はこれは読めないなと思いました。でも、気にはしていたのです。なぜかというと、翻訳が村上春樹だったから。私もたくさんの村上春樹ファンの1人です。著作は翻訳も含めてずっと読んできました。その人が、訳者あとがきに、「この本を1冊読みとおすことで、僕の人間に対する、あるいは世界に対する基本的な考え方は、少なからぬ変更を余儀なくされたのではないかと思う。」と書いていたのです。文庫になったらきっと読もう。そう、思っていました。ところが最近、ふとこの本を図書館で見つけ、借りてきて読み始めたのです。圧倒的な勢いで私の心を引きつけていきました。ふだん読むのが非常に遅い私も、これは一気に読みとおしました。この本では、実際にアメリカで起こった殺人事件の犯人、その家族、それらの歴史的背景が、犯人の弟の手によって物語られています。「どうして、またこんなことをやってしまうのか」こんな思いの連続です。「人の心がここまで傷つけられてしまうことがあるのだろうか」そんな思いにかられます。決してゆかいな話ではありません。心あたたまるストーリーでもありません。けれども、これだけ若者による犯罪が多くなってしまった今だからこそ、ぜひ読んでもらいたい1冊だと思います。特に保護者の皆様に。(やったあ!これで20年近く書きためたレビューをすべて掲載し終わりました。お疲れさん!(自分に))
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これは凄い本ですな、、、
何だかじれったいまでの逡巡めいた文章は、これでもかこれでもかと沈黙を強いる結末部を表出することに著者の踏ん切りがつかなかった証ということか。
圧倒的な暴力がもたらす(陳腐な表現だが)惨劇の連鎖を眼の前にして、ただただ立ちつくすばかり。
尋常ならざる暑さの中読んだ本ですが、その暑ささえ涼しく思わせる。必読です、これは。