- Amazon.co.jp ・本 (371ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167483159
感想・レビュー・書評
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夜寝る前にチマチマと読んでいたので、
読み終えるのに時間がかかってしまった。
終戦か決まり、玉音放送が流されるまでの間に
クーデターが起きていたなんて知らなかった。
本当に知らない事ばかりだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
教科書にはない史実がここにある。
第二次世界大戦、原爆を落とされながらも、終戦に至るまでにはこんな出来事があったのかと、驚きを隠せない。
現代人の感覚からしたら理解できない、思想が強く戦争をここまで引き伸ばしてしまったのだなぁ。
原爆に関しては、米国に強い憤りを感じているが、その時代の日本人の感覚の怖さも知る。 -
内容(「BOOK」データベースより)
昭和二十年八月六日、広島に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略と、最早日本の命運は尽きた…。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を、綿密な取材と証言を基に再現する、史上最も長い一日を活写したノンフィクション。 -
ちょっと時代を感じてしまう…
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録音だというのを初めて知りました。
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ポツダム宣言受諾決定から8月15日の玉音放送までを描くノンフィクション。映画化もされていたので小説かと思っていたらノンフィクションで、登場人物をろくに覚えられないまま話が展開していく。
学校の教科書では1行で終わってしまう部分にこんなにもドラマがあったなんて知らなかった。畑中少佐など敗戦を承服できない青年たちの心情が理解できなかったので、その辺りを現代人の感覚でもついていけるようなわかりやすい説明が欲しかった。 -
池上彰氏が推奨されており、終戦記念日も近いため読了。実際あった出来事がありありと描かれており、目を背けたくなる場面もあった。この長い1日を日本国民として知る責務がある。出版されだいぶだつが、この本に出会えて良かった。
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完読
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読了。
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終戦70周年の夏に読んでみる。
本書は映画化もされるとのことだが、個人的には同じ著者の「真珠湾の日」の方が面白かった。基本的に終戦時の東京周辺の話ばかりの本書に対し、「真珠湾の日」の方がスケールが大きく感じられるからかな。 -
阿南陸相、鈴木首相といった立役者だけでなく、記者、放送まで、あらゆるピースがうまくハマっての終戦。
歴史のギリギリの感じ。恐ろしい偶然。
そして、戦争を終わらせるのがいかに難しいか。
理屈などむなしくばかりの、積み上げられた現実の力の強さ。姑息な野郎はどちら側にもいない。だから余計にたちが悪い。
ただ、注の置き位置が章の終わりにまとめてあるのはかえって読みづらい。出てきたページに置くべき。同じように写真も。また、登場人物が多すぎるため、図解はあってもよかったかもしれない。 -
登場人物が多くて把握しきれなかった。
再読することがあれば、その時はちゃんと読みたい。 -
ほんとうに、国体護持ってなんだったんだろう。また、それが解るようになる世の中になるのがこわい。
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もうすぐ映画公開ということで、手にとってみた。8月14日から15日にかけての、ポツダム宣言受諾と玉音放送をめぐる政府・軍部内部の抗争・葛藤を時系列に描く、スリリングな作品である。
今さらながら思うのだが、歴史を叙述する場合、「研究」と「小説」の境目ということが言われる。ぼくが名著だと思っている小田中直樹『歴史学ってなんだ?』も、塩野七生と南川高志を例に、研究書と小説の違いについて述べている。
しかし、「ノンフィクション」の場合はどうなんだろうか。「小説」の側に一緒くたにしてよいのだろうか。
少なくともこの本は、「小説」の類であるように思う。登場人物が発する「言葉」は、著者による創作が少なくないだろう。しかし、別に「この部分は創作です」といちいち断るわけではないので、小田中直樹の定義からしても「小説」にジャンル分けされても良いように思う。
しかし、だとすると「小説」と「ノンフィクション」が分れている理由は、何なんだろうか。そこがわからなくなる。出版史の範疇なのか、文学史の範疇なのかわからないが、誰か調べている人はいないのだろうか。 -
読む価値あり、書いてあることが事実だなんて驚きだよ。
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読了。圧倒的な取材力!それにしても「死場所を探す」って、すごい言葉。
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ぼちぼちですかね。
今までポツダム宣言あったんだよね、ぐらいの認識でしたが、確かに色々な思わくや一歩間違えると大変なことになっていたかも知れない1日だったんだなと感慨深いものがありました。 -
映画『日本でいちばん長い日』が公開されるという。
役所広司演じる阿南陸相を主人公とした1945年8月15日の昭和天皇による玉音放送開始までの1日を辿るドラマとのこと。
ここんところ満州を中心に戦前からの昭和の時代を巡る書籍を読み続けてきたんで、そろそろ終戦時の状況というモンに手を伸ばしてみてもよいかと思ったのだ。
さっそくAmazonさんでポチったところ本書の初版は昭和40年(1965年)とのこと。
ボクでさえまだ生まれる前の本である。
終戦が昭和20年(1945年)なので、本書の出版まではまだ20年しか経っていない時期。
今となってはほぼ当時の関係者が亡くなっているであろうが、当時ならではのまだ生存している当事者へのインタビューや1次資料に加えて、最近発見された一級資料で再考し、手直しを加えたモノがこの『日本のいちばん長い日(決定版)』である。
戦前、前後に渡り、当時の日本人の熱狂の理由を探して様々な本を読み進めているモノの最近出版されたモノは読み易さはあれど、やはり資料から導き出されているモノが多く、当事者の声、熱というエモーショナルな部分が伝わらないところに限界がある。
そういう意味で本書は当事者の声、熱情と言ったモノを1次情報として収集し、纏められているという意味で今となっては貴重な情報であろう。
冒頭、初版出版時の大宅壮一の序にこう書かれているところから本書は始まる。
今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは〝平衡感覚〟によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡をとり戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか
まさにボクが歴史から学ぼう、知ろうと思っている時に気をつけるべきと常々感じているモノと同じことを述べている。
昭和の戦争に限らず、幕末、戦国、南北朝のどの時代であろうとこの『平衡感覚による復元力』を身につけることは重要と考えている。
大宅壮一のような大家と同じく平々凡々のボクであっても同じようなことを考えつくということは、やはり『日本人の熱狂』というものは民族的な欠陥ともいうようなモノなのであろうか?
と、このような日本人論は本書の領域ではないのでとりあえずおいておいて。
本書は1945年8月14日の正午から玉音放送が行われた8月15日の正午までの24時間の物語である。
テレビの終戦特集、昭和特集等で何度も目にし耳にした昭和天皇による玉音放送。
ラジオで天皇自らが声を発するということ自体とんでもない初のことであるという認識も特になく育ってきたが、よくよく考えるとつい先ほどまで現人神として崇め奉って在らせられた昭和天皇ご自身のお声をラジオを通じて直に聞くということ自体が当時の国民にはとんでもない出来事であった1945年の日本。
玉音放送の時にはすでに戦争云々といったことはどうにもこうにもならない袋小路状態に陥っていたモノと漠然と思っていたが、この24時間の間に戦争に至る道のりの様々なことのすべてが凝縮されていたのである。
昭和前史をすべて凝縮した濃くて長い一日の記録。
この24時間を1時間ずつ状況の進展を描く手法はまるでドラマ『24』を観ているかのような緊迫感とドラマ性を高めている。
戦争責任を背負うべき人物はほぼ戦況悪化のためステージから退場させられ、残されたB級、C級ともいうべき登場人物がメインの本書はともすれば華がないと思われるかもしれない。
しかし、トップスターが退場すると自然と下の人間が成長してトップスターの座を掴むモノである。
本書でもその筆頭は戦争を終結に持って行った主人公の一人、鈴木貫太郎首相だろう。
ボク自身この人にはほとんど関心も無かったし、記憶にすらなかった人である。
この鈴木首相ののらりくらり一見飄々としながらも、周りの意見がすべて出し切るまで議論させて、最後の最後で自分が思う方向へ誘っていくやり口がなんともB級タレントらしい組織マネジメントで彼自身のキャラが引き立っている。
しかし、陸軍が『統帥権』の名の下に天皇を利用して戦争を拡大してきたのと同様、この鈴木首相のやり口も最後の最後で天皇の『聖断』というものを利用したのだとボクは思う。
日本における『天皇』というものの特殊性。皇帝でも王様でもないなにものでもない、なにか。
天皇の強権というものはなんなのか?本当に持ち得ていたのか?
よくよく日本史を眺めていても、天皇親政という時代は古代を除いては後醍醐天皇の建武の新政くらいである。他の時代はどの時代でも『天皇』というものはいざというときに担いで正当性を主張するための証明書でしかない。
それが本当に昭和の時代というのは違っていたのだろうか?
ということは常々疑問に感じているところである。
日露戦争以降、『天皇』という存在はますます神聖化されていく。
本書でも日本における天皇の存在というものが至るところで書かれている。
別の一組は「大御心」とはなにか、「国体の精華」とはなにかという大命題にとっくんでいた。真剣に、それは殺気だつほどの真剣さで。しかし真剣すぎるだけに狭かった。彼らが大問題にとっくんでいる土俵がつまり「軍人精神」というワクであるのに、彼らは気づいていなかった。彼らは教育されていた。全滅か、もしくは勝利あるのみと。彼らに降伏はなかった。陛下を奉じて戦えば、たとえ全滅するもそれは敗北ではない。そうした神秘的な、しかし徹底した観念を吹きこまれていた
この時期ほど〝国体〟が問題にされたときは日本歴史はじまっていらいなかったであろう。彼らばかりではない、幾度、幾十度、幾百度、何千何万の人が「国体」という言葉を口にしたかしれなかった。しかしその内容としてはなにが考えられていたかとみてくれば、千差万別、その顔の異なるように変っていた。抽象的に高唱された場合があり、もっと具体的な意味をもったときもある
米内の言う憂慮すべき国内事情とは何なのか。政治上層部や官僚や財閥は、明らかに共産革命を考えている。
内大臣木戸幸一、近衛、岡田啓介ら和平派が恐れていたのは、本土決戦による混乱であり、それにともなう革命である。和平派が望んだのは、革命より敗戦を! であった。
機関としての天皇。彼らは、軍部や絶対天皇主義勢力を切り捨て、天皇制を立憲君主制としてでも残し、なんとか機構の存続を図ろうとしたのである。
阿南は、軍人でありながらこれに与した米内をついに許せなかった。将来の天皇の保障なくして、期待や可能性で終戦を推進するとは、阿南からすればこれ以上の不忠はないのである
戦中を通してますます『天皇』というものの神聖化を推進し、翼賛体勢を強化していった当時の為政者たちは結局のところ『国体』などという意味不明な実態のない言葉を作り出し、その言霊によって『日本』という国を縛り付けた。その中心には『大御心』という魂の入っていない『御輿』を置き、それぞれの立場で利用しあっただけなのではないだろうか?
天皇に主権というものは本当にあったのだろうか?
となると、美戸部達吉の天皇機関説や現在の象徴天皇制と実行上なにが違うのだろう?
現在の日本人の感覚では理解できない、違いというモノが当時ははっきりと論理的に理解できていたのだろうか?
とまた新たな興味が沸いてきた、そんな様々な興味をもたらせてくれる一冊である。
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太平洋戦争末期、ポツダム宣言を受け入れ終戦に向かおうとする内閣と終戦を受け入れられず徹底抗戦を叫ぶ陸軍将校たちの攻防を記したドキュメント。
8月15日の終戦までにこんな激しい攻防があったのかと驚きを感じた。原爆を投下され敗色濃厚にもかかわらず徹底抗戦を唱える陸軍将校たちの考えが今思うと恐ろしく感じた。 -
終戦記念日前なので一読。核を落とされて無条件降伏、というざっくりとした流れしか知らない人(読む前の自分含む)に読んでほしい。
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力作。特に中盤以降はハラハラドキドキ。良質のサスペンス小説のよう。
阿南陸相はかっこいいねえ。あんなふうに死んでいきたい。 -
68年前を振り返り、これからの日本が何処に向かうのか、沈思する。
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終戦の日、一日いろーーーんな事があった!
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一つの価値観を守り続けることは、とても素晴らしいことであるが、ときには誤った道に向かう場合がある。 陸軍の青年将校たちは、「国体護持をつらぬこうとする自分たちの決意こそ、むしろ歴史の記録に永久に残るであろう」と考え、暴挙にいたったのである。また、「時の流れに対する悲壮な反発」があり、その悲壮感に酔っていたのである。 極端に視野狭窄症に陥り、自分たちの世界に閉じ籠ってしまったのである。 今生きている我々も、同じ過ちを知らずしらずのうちに繰り返してはいないだろうか。
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06.8.6
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「日本のいちばん醜い日 」鬼塚英昭 ISBN:4880862169
「天皇のロザリオ 上巻 日本キリスト教国化の策謀」