ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析 (文春文庫 う 19-10)
- 文藝春秋 (2011年4月8日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167801250
感想・レビュー・書評
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エイリアンやゴーストバスターズなどのハリウッド娯楽映画にも、実は根底に哲学的テーマがあった…という実に面白い内容。今後ますますひねくれた映画の見方をしそうだ
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購入:2012/2/8、読了:-/-/-
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映画を現代思想で構造分析する。「エイリアン」「大脱走」などの映画は、いろいろな見方ができる。現代思想家の立場で分析すると、例えば「エイリアン」には秩序と混沌が並立した首尾一貫したテーマがあると言う。制作者が意図したかどうかは解らないけれど、見る立場の解釈はその人の考え方で判断するので、著者にはそう見えるのだろう。この本を読んでみて、納得できる部分と解らない部分が併存していて、頭の中が混沌としてきた。映画がストーリーが面白ければ良いというレベルであれば、こんな小難しい本は読まなくても良いと思う。映画を見て、さらに現代思想を知りたいのであれば、読んでみる価値があるかもしれない。
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映画を題材にした現代思想の入門書。
第一章でラカンの欲望論、バルトのテクスト論、フロイトの精神分析が解説される。(あとフーコーも)
第二章では、フーコー「言葉と物」で語られるベラスケスの「侍女たち」を再解釈する。題材はヒッチコックの「裏窓」と小津安二郎の「秋刀魚の味」で描かれる四人目の会席者と第四の壁という概念。
第三章はアメリカのハリウッド映画、特に西部劇を取り上げアメリカのミソジニー(女性嫌悪のイデオロギー)理解を説明。
全体的にスラスラ読めて内容も分かりやすかった。 -
物語が「物語」たりえるのは構造があるからである。話をつくるための枠組みをレヴィストロースは「構造」と名づけたのだった。そして実はその構造の種類とは意外と少なく有限である。ストーリーラインはパターン化されていて、多くの物語はその反復に過ぎない。バルトにいわせれば、これは「私たちの精神の本質的な貧しさ」ということになろう。といって物語そのものが貧しいということにはならない。なぜなら有限の構造の組合せで複雑な物語を無限に生みだす事ができるからだ。でなければ、今日まで映画を創り続けられたはずはないし、多くの人々が魅かれるはずもない。本書ではその映画の多様性がどうして生まれたかをみんなが知っている作品を題材にして分析するものだ。
文学と映画の違いはなんだろうか?ある人はいう。前者は文字情報のみであるが、映画は映像、音響、文字情報、etc五感を刺激するすべてを使うことができると。ある人は、アンダムアクセス、シーケンシャルアクセスについて語るだろう。しかし、最近はBD,DVD、電子書籍が登場して書物と映画が接近しつつあるのだという向きもある。にもかかわらず、映画と文学には大きな隔たりがある。それは映画は莫大なコストをかけてはじめて成立するという厳然たる事実だ。つまり、映画はマーケットと直結していて、観客を動員して初めて成立する芸術分野であるということだ。(多くの)観客の参与を必要とするからこそ解釈という神話的要素がパッケージとして商品化されているのだ。映画は集団的創造であるからこそ、何を意味するのかよく分からないものが移りこんでいる。意図せざる映画内の記号に本質的な魅力があるのだと著者はいう。バルトはそれを「鈍い意味」と評した。以下引用
「鈍い意味はシニフィエなきシニフィアンである。それゆえ鈍い意味が何を意味しているかを名指しすることがこれほど困難なのだ。(中略)鈍い意味を確定することができないのは、明示的な意味とは逆に、それが何ものをも複写していないからである。何も表象していないものをどうやって記述すればよいのか」
彼は(ロランバルト)後にこうした物語をくつがえすことなく、別の仕方で、映画を構造化する力を「映画的なもの」と名づけることにしている。
この「映画的なもの」に着目して、『エイリアン』・『大脱走』・『ゴーストバスターズ』を読んでいく。そこからラカン、フーコー、バルト、フロイトの術語がわかりやすく紐解かれていて、知的好奇心を刺激された。 -
文庫本になる際の再編集が良かったのかわるかったのか・・・。
改稿前の方が良かったような。 -
映画を元に現代思想を学ぼうという趣旨の本。なかなか面白かった。
いくつかの概念をインプットできた。
その中の一つがマクガフィンという概念。マクガフィンとは「それが存在すること、それが何であるかという同定を忌避することで、物語の中枢を占め、人々を支配されている装置」のことをいう。例として挙げられるのがスパイ映画での「人々が命がけで奪い合うもの」。
他に気になったキーワードは実定的な抵抗感、欠性的な抵抗感。
「何を意味するのかよくわからないものが映り込んでいるというのが映画の魅力」「意味の亀裂がある部分こそ、人間は解釈をしたくなる」など色々なるほどなという主張が散見された。もう一度読みたい映画論。 -
副題 ハリウッド映画で学べる現代思想
副題が示す通り、これは映画評論ではなく、思想論なので、なかなか歯応えのある本でした。集中して読まないと、頭に入ってっこないし、理路がわからなくなる。
内田さんの文章の読みやすさは、極めてロジカルで、随所に喩え話を交えることで成り立っている。
この本では、その喩え話が映画に固定されているわけで、その映画を知らないと、話がわからない(笑)。
だから、歯応えのある本だったのだ。私が観たことがあり、記憶に残っている作品であれば、氏の展開する論考がより深く、分かりやすくなったはず。
とは言え、随所に面白い分析を見せてくれました。
文章を「テクスト」つまり、一本の文脈と見るのではなく、『織物(テクスチャー)』と解釈し、より複雑な絡み合いを通じて織り上げられる生成物だという視点は特に印象的なものだった。
しかし、この人、映画もたくさん見てるのね。すごいなぁ。 -
いっぷう変わった映画評。映画を通じて現代思想を紐解こうという試みは、興味深くもあるがこじつけに思える部分もある。筆者自らが述べているように、これはひとつの(しかもかなり変わった)見方にすぎない。が、その論理の展開が面白い。娯楽映画に隠された(?)メッセージをこんな風に読み解けるとはまったく想像もせきなかった。とりあえず、もう一度この映画たちを観なくては。