ラディカルな意志のスタイルズ[完全版]

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309207629

感想・レビュー・書評

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  • 過去課題本。評判はすこぶる悪かったので、返って興味が湧いて図書館で借りた。読書会の参加者が言うほど「難しい」印象はないが、正直、面白いわけでもない。主張内容にも同意は全くできない。

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  • GWのフィリピン旅行に持っていったものの、一文一文の重くて(あんなに時間があったのに)なかなか読み進められなかった。
    唯一すいすい読めたのはベトナム戦争時に現地に滞在した時のルポ部分。(後半の考察部分はやはりスローにしか読めなかったが)

    知識人がベトナムに行くと自分たちの基準に相容れない部分が多くて途上国だ、思考が洗練されていない、と感じそうなところを、公平な描写で、かつアメリカ人から見たベトナム人という視点を言語に落とし込んでいる。

    以下、付箋を貼った箇所の引用。

    □ 1章「沈黙の美学」より

    自然に対する美学的関係に似た、オーディエンスとしては何も付け加えることのできない理想的な充溢ぶりを、現代芸術の多くが目指しているー退屈さ、簡素化、非個人化、非論理といった、様々な戦略によって、原則として、オーディエンス野川は自分の考えを付け加えることも許されない。あらゆる作品が、ちゃんと知覚される限り、すでに充満しているのだ。(略)
    充満ー空間の隅々までが満たされていてどんな観念もつけいる余地がないという経験ーが意味するのは、そこには入りようがないということだ。沈黙する人は、他人にとっては不透明な人になる。誰かの沈黙は、その沈黙を解釈し、それに言葉を与えるための、一連の可能性を開く。


    普通の精神の、干からびて型にはまった生活に対するあからさまな反逆として、アーティストは自分なりのやり方で、言語の見直しを呼びかける。現代芸術の大きな部分が、汚染された言語を綺麗に洗いさった意識、またいくつかのヴァージョンにおいては、世界をもっぱら慣習的な言語の(データベース的意味においては「合理的」「論理的」な)用語によって捉えることで生まれる歪みを払拭された意識を目指す、このような探求によって動いている。アートそのものが、意識を支配する生気の内省的な言語かの習慣をほどき、「肉感的な言葉」のモデルを提示しようとする、一種の対抗暴力となっているのだ。


    言語は、出来事という地位に落とされる。時の中で生じる何か、発話の前、そして後にやってくるもの、さし示す声。やってくるのは沈黙だ。ということは沈黙とは、言葉の前提であるとともに、適切に方向付けられた言葉の結果ないしは目標でもある。このモデルに立つと、アーティストの活動とは沈黙の創出ないしは創設ということになり、有効な芸術作品はその背後に沈黙を残してゆく。アーティストが管理する沈黙は、知覚的・文化的セラピーのプログラムの一部であり、しばしば説得というよりはショック療法的モデルに立っている。言語をもっぱら使うアーティストの場合も、この同じ仕事に参加することができる。言語は言語を阻止するために、沈黙を表現するために、使うことができるのだ。マラルメは、語を使って、私たちの言葉が充満した現実を綺麗に片付けるのが、詩の仕事だと考えていたー事物の周りに沈黙を作り出すことで。アートは言語そのものに対する全面攻撃を仕掛けなくてはならない。言語およびその代替物を使い、沈黙という基準のために。


    □ 3章「ハノイへの旅」より

    隠して、ひとり旅ならいざ知らず、団体行動をしていたw他市の関心の大半は、ヴェトナム人ではなく、旅の仲間たちへと向けざるを得なかった。とはいうものの、往々にして私は、自ら進んで彼らと関わろうとした。
    こうしたかりそめの親交を結ぶにあたって、どうすればこの赤の他人たちと争うことなく、分別を持って暮らしていけるのか。それを知ることが、急務だった。(略)そうした相手であるからこそ、なおのこと気を使う必要があった。


    15年以上、資本主義も帝国主義も、この世界はずっと事実であり続けてはいたのだけど、言葉自体は、単純にもう使われることのないもの、すなわち死後であって、信用できないとされていたのだ。(なぜなら、不誠実な人々の手に握られた道具となったからだ。)多くのことが、こうした最近の言語的決定に含まれている。私の歴史的記憶、美学的感覚、そして未来とは何かという考えと、新たな結びつきを持ち始めている。


    自らの理想を裏切っていくアメリカに対して抱く、孤独でし的な幻滅や失望といったものを超えて、ヴェトナムは、アメリカをシステマティックに批評するヒントを差し出してくれる。こうした利用をも食えオムのであれば、ヴェトナムは理想的な他者となるだろう。しかし、こうしたステータスを与えることは、すでに文化的に全く異なるものとされているヴェトナムを、さらに合衆国から遠いところに追いやってしまうことにもなるのだ。だから、この仕事は、現地に行こうとする同情的な人間を待っている。そうした努力を払ったにも関わらず、自分たちがどのような人々を理解しないで済ませようとしているのか、そうしたことを理解させるために。アメリカのラディカルな人間が来たヴェトナムを訪れる時、全ての物事には疑問符がつくようになるーそれはもちろん、アメリカ人がいわゆる西欧的特徴を持っていることに加えて、必然的にアメリカ的な態度をとってしまうことに起因する。いずれにせよ、はっきり言えるのは、北ヴェトナムに行って以来、以前よりも世界は、ずっと大きく見えるようになったということである。


    アメリカの意思のスタイルについて、私はその知識を、サウスウェストや、カリフォルニアや、中西部や、ニューイングランドや、最近ではニューヨークといった場所での様々ん暮らしから得ると同時に、ここ十年の間、西ヨーロッパにおけるそのインパクトを観察することによっても理解を深めてきた。ただ、私が理解せず、勝俣そうする手がかりさえつかめなかったのは、ヴェトナム人の石の本質ースタイル、範囲、ニュアンスであった。

  • ソンタグの第2評論集。

    新訳で、タイトルに「完全版」と書いてあって、帯には「代表作」となっているし、カバーのソンタグのポートレートも美しいので、思わず買ってしまう。

    なにが「完全版」かというと、「アメリカで起こっていること」と「ハノイへの旅」が収録されているということなのかな?「ハノイへの旅」は、「ハノイで考えたこと」というタイトルで1冊の本になっていたので、新たに訳出されたのは、「アメリカで起こっていること」なのかな?(もしかすると、それもどこか違う本にはいっているのかもしれない)

    昔、旧訳の不完全版と「ハノイで考えたこと」は読んだはずだが、おどろくほどなにも覚えていなかった。(第1評論集の「反解釈」のほうは、30年ぶりくらいに再読したときは、不思議なほど、内容を覚えていて、驚いた)

    出版は、69年とちょうど50年前。世界史的な激動の68年の翌年。

    なんとなくその時代を思い起こさせるさまざまな評論なのだが、あまり古さは感じない。

    もしかすると最初に読んだ時より、今のほうが、この本の時代感にフィットしているのかもしれない。

    つまり、ソンタグは、「ラディカルな意志のスタイルズ」という革命を、言語、アート、社会の領域で起こそうとしているのだ。

    革命という意味では、「ハノイへの旅」が、もっともストレート。

    68年の5月に、ソンタグが戦時下(北爆中)のハノイに2週間訪れた時の訪問記なのだが、ベトナム人との価値観の文化的な違いへの率直な戸惑いとか、自分のステレオタイプなベトナム理解への反省とかを踏まえながらも、ベトナム人とベトナムで行われようとしている社会革命への共感が語られている。

    68年といえば、1月にテト攻勢があり、ベトナム戦争史的な転機であるわけだが、5月の時点で、ソンタグは(希望もこめて)ベトナムの勝利(=アメリカの撤退=アメリカの敗北)を予想する。

    自分がアメリカ人である微妙な立場をみつつ、それが反アメリカではなく、アメリカへの愛国心(つまりアメリカの理念)と両立可能な概念かも、などとの思索を踏まえながら、フランス5月革命の参加者とともに、終わらない革命に参加し続ける思いなどが書いてある。

    ある意味、ここまでソンタグがポジティブで、ストレートなのは、珍しいかな?やはりこの評論集は、この「ハノイへの旅」で終わってこそ、1つの本になるわけだ。

    個人的には、ソンタグが、北ベトナムにこれからの社会のあるべき姿、理想を夢見つつも、その倫理的な社会のなかでは、自分の居場所がないのかな?と思うところにかなり共感した。

    「こうした社会との融合は、きっと世界の人々の生活を大いに改善するのだろうけれど(それゆえに、そうした社会の到来を私も支持しているのだけれど)、想像するに、それが実現すると、私の側の社会は衰えてしまうだろう。私が暮らしているのは、感性を低下させ、多くの人の善行を阻害する反倫理的な社会であるけれど、驚くほど知的で美学的な喜びを少数派であっても金銭で手に入れることができる社会でもある。私にとっての喜びを(二重の意味で)享受できない人々にしてみれば、私の意識など、スポイルされ、堕落し、退廃的であるように思えたとしても当然だと思う。だが、私にしてみれば、こうした喜びが途方もないゆたかさをもっていることも否定できない」

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著者プロフィール

1933年生まれ。20世紀アメリカを代表する批評家・小説家。著書に『私は生まれなおしている』、『反解釈』、『写真論』、『火山に恋して』、『良心の領界』など。2004年没。

「2018年 『ラディカルな意志のスタイルズ[完全版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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