- Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309464350
感想・レビュー・書評
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『黄色い雨』以前単行本を読んだレビューはこちら。
https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/478972512X#comment
こちらの文庫本は表題作のほか短編2作が入っているので読んでみました。
あとがきは単行本のほうが良いなあ。訳者木村栄一の「素晴らしい作品に合うと白い炎が見える。この小説にも見えた(だから翻訳した)。」という言葉が良かったんですよ。
P11からP21抜粋
<彼らがソブレプエルトの峠に付く頃には、たぶん日が暮れ始めているだろう。黒い影が波のように山々を覆って行くと、血のように赤く濁って崩れかけた太陽がハリエニシダや廃屋と瓦礫の山に力なくしがみ付くだろう。
それから後は、何もかもが目の回るような速度で過ぎ去っていくだろう。それから後のことは(そして、数時間後に、人に話して聞かせるためにあのときの出来事を思い立とうとしたときも)、どうして最初に疑っていたことが革新に変わったのかを正式に理解することができないだろう。というのも、男たちの一人が階段を登り始めた途端に、私がずっと以前から彼らを待ち受けていたことに思い当たるだろう。突然説明のつかない寒気に襲われて、上の階に私がいると確信するだろう。黒い羽が壁にぶつかって私がそこにいると教えるだろう。だから、誰一人恐怖のあまり叫び声を挙げないのだ。だから、誰も十字を切ったり、嫌悪を表すジェスチャーをしないのだ。ランタンの灯がそのドアの向こうのベッドの上に横たわっている私を照らし出すだろう。私はまだ服を着ており、苔に覆われ、鳥に食い荒らされた姿で彼らを正面からじっと見つめるだろう。
そうだ。彼らは服を着たまま横たわっている私を見つけるだろう。私は彼らを正面から見つめるだろう、粉挽き小屋に放置された機会の間にぶら下がっていたサビーナのように。ただ、サビーナの遺体を見つけたあの日、私の側にいたのは、雌犬と川岸の木々にぶつかっている灰色の霧だけだった。>
冒頭がいきなりこれですからね。
「〜だろう。〜だろう。」で繋いでいき、語り手の語る自分の死体にたどり着く。何事??
山にへばりつくように建っている寒村があった。語り手はそこに残る最後の老人だ。みんなが出て行っても、妻が自殺しても、意地なのかなすすべもないのか、ただ一人で残り続ける。村から人間がいなくなると村には忘却の黄色い雨が振り、家には亡霊たちが帰ってきた。老人は自分も黄色くなっていることに気がつく。自分は朝まで生きられないだろう。老人は人生を語る。
200ページ弱なので2時間未満で読める。老人の最後の語りに耳を傾けよう。
ああすごい小説。まさに「白い炎が見える小説」であり、訳者のその入れ込みようも感じる。
『遮断機のない踏切』
配線となった線路の踏切係が、電車が来ない線路の踏切小屋に通い続けて通らない電車にあわせて踏切を上げては下ろす仕事を続ける。車に乗った人たちは、決して来ない電車の通過を待つ踏切に通行を邪魔される。
…不条理小説というか、最初は単調な仕事を20年続けてそのままの生活が癖になった感じだったが、どんどん偏狭的になっていく。
『不滅の小説』
詩人のトーニョは世間に認められていないし、成功したかつての自分の仲間たちにも黙殺されているが、自分こそは重要な詩人だと自認している。しかし自分の曾祖母の奇跡に出会ったトーニョは、祖母に関する小説を書くことにした。15年掛けて書き上げた小説だが、まだ健在な人々が登場するために出版の決意がつかなかった。さらに年月が過ぎて彼らは老衰で死んでいったが、最後の一人が残っている。このままではいつまで経っても自分の唯一の小説が出版できない。こうなったら最後の一人を殺すしかない。
…えっえーーー(*´・д・)━!!!」なぜその発想。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
百年の孤独の舞台マコンドを想起させられる。
嵐のように畳み掛けるが如く滅び去るマコンドではなく、
じりじりと時間を費やして滅ぶマコンド。
時間を費やすというとうよりも
無時間、時間感覚の不確かさ。
男は、いつ死んだのか定かではない。
生と死の境もあやふやであり、
たしかなことは村が滅びること、家も人も土に帰ること。
短い小説だが、言葉の密度と緊張感を徹頭徹尾、
維持している事が素晴らしい。 -
朽ちていく村に一人残った男。彼が生きているのか死んでいるのか、境目が曖昧に溶けていく。音もなく降る雪のような感触の文章にいつの間にか引き込まれていった。
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何と美しい退廃であろうか、と、読後に本を閉じたまま、暫し呆然としてしまった。
まるで叙情詩のような手触りだったと思う。文章の流麗さということがまず一つ、その要因として挙げられるだろう。
それから、語り手が自らの心象風景を一人称で独白する文体である、ということも効果的だと感じた。読み返して気付いたのだけれど、会話文のカギカッコが一つもない。語り手以外の人物のセリフというものがそもそも一つしかないのだけれど、それも語り手の内言語にいつしかすり替わって、その独白の一部になってしまう。つまり外言語を排除することで語り手の内面に焦点が向くように仕掛けられているのかもしれない。
「彼ら」という言葉の暗喩的な響きや、次第に明かされていく「私」の正体、そして象徴的に繰り返される「黄色い雨」というフレーズが幻想さを強めている。それから段落ごとに一行空けて文頭を一文字上げるという独特なスタイルも、この文字列がただの小説ではないことを物語っているように見える。
また、読中にアンナ・カヴァンの『氷』を思い浮かべた。あれを、私は「ヘロイン中毒患者の死際の幻覚」と解釈したのだけれど、それに似たものがあったように感じる。
語り手である「私」が既に死んでいることは文中で次第に明らかにされるが、実際のところ「私」はまだ死の直後か、あるいはまさに死ぬその瞬間か、彼岸と此岸の境目のところを漂っている状態なのではないだろうか。
死ぬ間際に見る幻覚、もしくは死の直後の意識、彼岸と此岸の境目で見る景色というのはこのようなものなのかもしれない。 -
★4.0
段落が下がるのではなく上がり、序盤の「~だろう」の繰り返しに一抹の不安を覚えたものの、気付けばアイニェーリェ村に心を奪われていた。村人たちの離村と残った者たちに訪れる死、最終的に村を覆うのは瓦礫と孤独と黄色い雨。とてつもなく物悲しいのに文章が繊細で美しく、終盤の「~だろう」の再度の繰り返しには安堵さえ覚えた。軽くホラーちっくなところもあるけれど、恐怖や嫌悪はなく、ただただ美しい。短編「遮断機のない踏切」「不滅の小説」も面白く、「黄色い雨」を含めて何かに取り憑かれたかのように執着する男性が主人公。 -
村人が去る。彼らを見送ることはしない。そして妻が厳冬の水車小屋で首を括る。ここには私と、一頭の雌犬だけが残された――。
次々と住人たちが去り、廃墟と化す山村・アイニェーリェ村にひとり残り生活を続ける「私」。
やがて水路は壊れ水がそこかしこに溢れ出す。家々の垣根は崩れ、垣根が奔放に生い茂り、隣家や往来との境界が曖昧になる。
存在のすべてが静かに摩耗し、崩壊し、溶け合い、やがて時間や生死さえも混ざり合う。死者と生者が暖炉のそばにたたずみ、過去や現在の思い出が夢のように去来し、季節が巡り、黄色い雨が降り注ぐ――。
長編小説『狼たちの月』で一躍注目を浴びたリャマサーレスの長編第二作。全編が死の気配に満ちた、静かな詩の連なりで作り上げられた冷たい世界観。そこでは思い出だけがあたたかい。邦訳が楽しみな作家のひとり。
訳者・木村榮一氏による解説が一変のエッセイ風味で、これも静かな読み心地。 -
白の闇と続けて読んだので荒廃と死の臭いが濃厚な読書となった。
黄色い雨が降りしきる寂れきった村。村民は去っていき、主人公が取り残される。村はますます荒れ果て、共にいた妻、パートナーだった犬、すべてが死にゆく。諸行無常という言葉も浮かぶが、ウェットな叙情はない。虚無に対峙するドライな諦念が美しくさえあった。 -
フリオ・リャマサーレス著、木村榮一訳『黄色い雨 』読了。死にゆく村に生きる最後の1人。彼は自分が村の最後の命のように生き、死を待つ。詩的な回想で村の過去が語られる。
作品はもちろん、スペインの書店で店主に進められて本作と出会った経緯が語られる訳者の木村榮一さんによる解説が最高。