生きるということ 新装版

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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314011761

作品紹介・あらすじ

フロムによる永遠の古典の新装版!


真に生きる喜びが得られる生き方とは?

財産、知識、健康、社会的地位、権力……現代の私たちは〈持つ〉ことに専心し、それを自分の価値とみなしている。

人が生きていくうえでは、〈持つ〉ために限りなき生産と消費に追われ、“慢性の飢餓状態"にあるのでなく、あらゆる執着から解き放たれ、何ものにも束縛されず、生きる喜びを感じられるような、ただ〈ある〉という、もうひとつの様式がある。

日常の経験や先人たちの思想を例に、〈持つ様式〉と〈ある様式〉の生き方を比較・検討し、新たな人間像と社会のあり方を提唱する。

★対になる装丁で、フロムの代表作『愛するということ』改訳新装版を同時刊行★


【著者】エーリッヒ・フロム (Erich Fromm 1900~1980年)
精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。真に人間的な生活を可能にする社会的条件とは何かを終生にわたって追求したヒューマニストとしても知られる。著書に『自由からの逃走』『破壊』『悪について』『ワイマールからヒトラーへ』『反抗と自由』ほか多数。

【訳者】佐野哲郎 (さの・てつろう)
京都大学名誉教授。訳書に、フロム『反抗と自由』『フロイトを超えて』ほか多数。

感想・レビュー・書評

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  • わたしも『愛するということ』からフロムの哲学が気になり、読んでみることにしました。
    哲学の中では読みやすいほうだと思いますが、『愛するということ』より少し難しく感じました。
    おそらく理由は私が他の哲学を知らないからだと思います。作中にはフロイトやあとは確かエリスクソンなど哲学者の唱えたことも丁寧に用いられながらこの『生きるということ』を説いていきます。

    フロムは『生きるということ』は持つこととあることに分けて説いていきます。
    或るものを持って支配することで、自身の存在(あること)が薄れてしまい、それを持つことは生きる過程の中のほんの少しのことにしかならない。
    哲学をあまり深く知らない私のような凡人が解釈したことなので正しいかは分かりませんが、財産や地位を得ても自分の存在をしっかりと持つことが大切だと感じました。
    それを持つことで満足してしまうこともあり、生きるということは財産を得ることでも、地位を得ることでもない。生きるということは自分そのものあるものが生きていくことなのだと。

    『愛するということ』も非常に面白かったのですが、こっちの作品の方が読みづらく、難しく、何度も読み返したりしました、ですがこっちの作品の方が、たくさんの人が読む価値の或るすごい本だとも思いました。

    いくらたくさん資格を持っていても、お金があっても、誰かのために精一杯愛して生きてもです、やっぱり自分のために生きなくてはな。自分の存在をちゃんと確かめながら生き進めなくてはなあ、と思いました。

  • フロムの本は、「愛するということ」とか、この「生きるということ」など、なんか若者向けの「生きる生きるべきか」という精神論みたいなタイトルが多いが、内容的には、そういうものではない。

    フロムは、フロイトの精神分析とマルクス的な社会分析を統合して、個人の心理を、その個人だけの問題ではなくて、社会的な問題との関係でアプローチすることを始めた人。

    この本の原題は、"to have or to be"で、所有することと存在すること、みたいな感じかな?

    ここから推察すると、所有という概念をマルクスを援用しながら、資本主義や市場経済との関係から批判的に分析していくだろうし、またその分析にはフロイト的な精神分析、超エゴなどが資本主義的なものから構成されている、みたいな話しにもなるであろう。

    基本的には、そんな話しで、1976年にでたこの本は、そこに冷戦下での核戦争の危険性や石油ショックやローマ会議の報告も増えた持続可能性の話しも入ってくる。

    この辺のところまでくると、先日、読んだ斎藤幸平さんの「大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝」が思い起こされてくるわけだが、内容的にもかなり近いものがある。フロムは心理学者なので、マルクスの読解も経済主義的なものでなく、その先にある人間の解放みたいなところをおさえているから、話が似てくるのは必然かな。

    また、今日の非人間的な社会における官僚的な人間の事例としてアイヒマンもでてきて、アーレントの議論を彷彿とさせる。

    ここまでは、ある程度、想像されるところだが、驚きは、この本では上のような話は後半のほうで出てくる感じで、前半は、ユダヤ教、キリスト教(とくに神秘主義的な傾向をもつもの)の解釈や仏教や禅の解説をかなり丁寧にやっていること。

    フロムは、晩年、宗教的なものの研究に力を注いでいたというのは知っていたのだが、なるほど、その成果がここに現れているのか。。。。基本、フロムは無神論なのだろうが、ヒューマニストなんだろうと思う。で、その究極は宗教の本来の教えとも統合できるようなものだとする。

    最後は、社会を変革するための諸々の提言がなされて、この本は終わる。今読んでもその重要性とラジカルさは低下するわけではない提言だな〜。

    やはりもはや心理学という世界を超えて、人類が生き延びるためのフロム渾身の思考と著作だな。今読むと、ところどころ引っかかる議論はあるものの、これはもっと多くの人が読むべき本だな。

  • たくさん所有していることが素晴らしいことだ、という価値観から自分を解き放ってくれた初めての本。
    印象に残ったところメモ。
    - 物事を書き留めることはそのことについての想起能力を弱める
    - 持つ人物が持っているものに頼るのに対して、ある人物はあるという事実、生きているという事実、そして抑制を捨てて反応する勇気がありさえすれば、何か新しいものが生まれるという事実にたよる。彼らは持っているものに対する不安な気がかりのために自分を押し殺すことがないので、会話の際には十分活気付く。
    - 読書は著者と読者の会話
    - 子供にはある権威が必要。子供は、成長する子供に努力を期待しながら、自分はその努力をしていないことを自らの行動によって示す人々からの、圧力や放任や過保護には反抗する。
    - 日常生活で使う物、財産、儀礼、善行、知識、思想、それら自身が悪いのではなく、それらに執着し、それらが自由を損なう鎖となるとき、それらは私たちの自己実現を妨げる。
    - 私たちがあることこそ実在であり、私たちを動かす精神であり、私たちの行動を推進する性格である。
    - 私の個人性の全ては決して理解されない。なぜなら2人の人間は全く同じではない、同じ経験、人生の道を歩んできたわけではないから、感じ方が違う。
    - 利己的な態度が優位を占めた結果、私たちの社会の指導者は、人々を動機つけることができるのは物質的利益の期待、すなわち報酬のみであり、連帯や犠牲への訴えには人々は反作用を起こさない、と信じている。
    - 時の要請にそむく以外には何もしないことによって、私たちは自由であるという幻想をいだくが、実際には時の牢獄から仮釈放されているにすぎないのである。
    - 彼らが自己の哲学を当然のことと考えているのは、ただそれが彼らにとって常識にすぎないからなのであって、彼らは自分のすべての概念が一般に受け入れられた準拠枠に基づいていることに、気づいていない。
    - 人間は本能による決定を欠く、つまり脳によって進みうる多くの方向を考えることが可能なので、私たちに必要なものは全面的な献身の対象、価値の基礎である。
    - 売ることと交換すること、消費することを重要視する市場的性格においては、あらゆる関心が欠如し、情緒的な絆、つまり恋人、友人に無関心になる、物以上になり得ない。
    - 人間の性格は次の条件が存在すれば変わりうる。私たちが苦しんでいて、しかもそのことに気付いている。私たちが不幸の原因を認めている。不幸を克服する方法があることを私たちが認めている。不幸を克服するためには、生きるためのある種の規範に従い、現在の生活習慣を変えなければならないことを、私たちが容認している。
    - 持つということは、現代産業社会における基本的な存在様式であって、私たちは物を持つことを自己の価値、同一性、あるいは存在のあかしとすることに慣れてしまった。これらは限りなき生産と消費という悪循環を生み出す
    - あるということは、何ものにも執着せず、束縛されず、変化を恐れず、たえず成長すること。他社との関係では、与え、分かち合い、関心をともにする生きた関係。これは生きることの肯定。

  • タイトルから真っ先に感じたのは仏教的な内容なのかな、という印象で、確かに本書の中にも鈴木大拙の引用がありましたが、むしろ中世ドイツの神学者であったマイスター・エックハルトを多く引用しています。私はエックハルトについてほとんど知識がなかったため、今回エックハルトと仏教的な思想との共通点に大変興味を持ちました。フロムは2つの生活様式を本書の中で一貫して紹介し、人間は「持つ様式」から「ある様式」へと生まれ変わらなければならないことを主張しています。持つこと、それはお金であり、地位であり、何かを持っていることで自分を確かめるわけですが、これは仏教がたしなめているように、終わりがなく、しかもいつまでも欲望が満たされずにむしろ不満が強まる生き方です。それに対して、フロムによれば「ある様式」とは静的な状態ではなくむしろ変化、動的な状態を指します。自分の備忘録のために、フロムが述べている例えを簡単にまとめてみます。

    <学習すること>
    「持つ様式」の人は学んだことを固守し記憶する。知識の獲得を重視する。「ある様式」の人は学習することに対して能動的、生産的な方法で受け入れ、反応する。新しい疑問、観念、展望が頭の中に生まれる。
    <想起すること>
    「持つ様式」の人は1つの言葉と別の言葉が機械的、論理的に結合される。「ある様式」の人は能動的に言葉、観念、光景、絵画、音楽を思い出す。
    <会話すること>
    「持つ様式」の人は自分が持っている知識を頼りに会話をする。「ある様式」の人は自我に妨げられず、自発的、生産的に反応する。あるという事実、生きているという事実、そして抑制を捨てて反応する勇気があれば何か新しいものが生まれるという事実に頼る。
    <読書すること>
    「持つ様式」の人は小説を最後まで読んだ時に、その物語を持つことができる。しかし小説の中の人物を理解したり、人間性への洞察を深めたり自分自身についての知識を得たわけではない。哲学書についても「持つ様式」の人は、誰が何を言ったかを頭に詰め込み、それを正確に述べられることを目標とする。「ある様式」の人は、本を読みながら考える。著者が気づいていないこと、その背後にある当時の価値観、著者が間違っていることなどを考える。

  • 人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。

    愛は受動的なものでなく能動的なもの。精神的に未熟だと受動的なものだと勘違いしてしまう。与えることが愛。

    自分を信じているのだけが、他人に対しても誠実になれる。根拠のない自信ではダメ。愛に関して言えば、重要なのは自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができると信じること。

    人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識の中で愛することを恐れているのだ。

  • 『生きるということ』読了。

    読んでからの感想になるが、多分フロムを読むのに最初の本としては微妙なのかもしれない(晩年の本に該当すると思う)。新装版が出ていたから買ってみた。

    表題は'to have or to be"であり、主題として、人としてのアイデンティティを「あること」に重きを持つか、「持つこと」に持つかについて論じている。

    "究極的には、私はOを持つという論述は、私がOを所有することによって私を定義することを表す。主体は私自身ではなく、私は私が持つものである。私の財産が私自身のアイデンティティの感覚を構成している。"

    本来人間は「持つ様式」と「ある様式」の両面を有しており、社会の影響を受けこのどちらかを優勢すると主張する。
    そして(フロムがいうには)人間として「あること」を追い求めることがこれからの時代にあるべき姿である、という。
    社会というものが個人の価値観を規定するということに大いに賛同するが、「持つこと」と「あること」というのは果たして対立するもので、どちらかからどちらかへ「移行」するものなのだろうか。どちらかの生活を選択しなければいけないというわけではなく、どの人もこの二つを行ったり来たりしているのではないかなぁと思う。
    例えば、フロム自身が本書にてのべているが、学問において、持つこととは知識として「所有する」ことであり、あることとは知識に対峙し「思考する」ということである。しかし、「思考する」ことは知識の「所有」から生じるものであって、その意味で所有と思考はループの関係になる。

    どちらにしても、最近自分自身が「走らされてるなぁ」と思うことが多くて、その意味で「あること」に身を置ける人間になりたいなぁと思ったりしたのであった。ちゃんちゃん。

  • 「愛するということ」に感銘を受け、こちらも読了。表題訳まで昇華して理解できなかった。
    生きる上での姿勢を大きな二軸で捉え、社会の変革の可能性を考察するが、何か核を掴みきれない。
    自身がもっと能動的に読書する姿勢が必要か。

    ◯持つ様式とある様式の違い
    ・名詞的か動詞的か
    ・物か経験か
    ・私有財産とともに発達した持つ様式
    ・真の能動性で発揮するある様式

  • 生きるということを「持つ」ことと「ある」ことから論じたもの。
    哲学っぽいものの中では読みやすいと感じた。

    意識したことはなかったが「持つ」という様式は自分自身の中にも深く息づいていることが実感できて怖くなった。

    これからは自分の中の「ある」様式にもきちんと目を向けたい。

  • 現代社会における〈アイデンティティの危機〉を生み出したのは、実はその構成員が自己を持たない道具となり、彼らのアイデンティティが会社(あるいはほかの巨大な官僚制組織)の一員となることにかかっている、という事実である。

    私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう。

    私はどろぼうを、経済的変動を、革命を、病気を、死を恐れ、愛を、自由を、成長を、変化を、未知のものを恐れる。
    かくして私は慢性の憂鬱病にかかり、健康を失うことだけでなく、持っているほかのいかなるものをも失うことを恐れて、絶え間なく思いわずらう。

    防衛的になり、かたくなになり、疑い深くなり、孤独になり、よりよくわが身を守るためにより多くを持つ要求にかりたてられる。


    持っているものを失う危険から生じる心配と不安は、ある様式には存在しない。
    私の中心は私の中にある。私のある能力と、自らの本質的な力を表現する能力とは、私の性格構造の一部であって、それを左右するのは私である。

  • 「To Have」(持つこと) と「To Be」(あること) の対比を通じて、(よく) 生きるということの本質について考えさせられる。
    本書では両者の様式の違いが日常生活、産業構造、宗教、そして精神分析的側面から丁寧に解説されている。「(持つこととあることは) 全ての人間の中に矛盾しながら混在し、社会構造 (社会の価値観と規範) がどちらを優位にするかを決定する」「『人間の性質は変わらない』という精神分析的な常識は、性質の形成に影響を及ぼす外部環境が変わらないことを前提にしている」というフロムの主張から一縷の希望を感じた。私たちは、日々の生活を社会構造 (= 経済的構造) に暗に定義されて過ごしているが、この社会構造自体を作り出しているのは我々一人ひとりであるという事実を忘れがちである。ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の如く、変革は私たち自身の能動性に委ねられている。
    最終章では「人間の性格が、持つ様式の優越から、ある存在様式の支配へと、根本的に変わることによってのみ、私たちは心理的・経済的破局から救われる」という前提のもと、いくつかの具体的な提言がなされる。このような「意識変容」は抽象的な議論になりがちに思うが、本書における「陪審員」のアナロジーは腑に落ちた。ここでは、彼らの意思決定内容に高度の洞察と客観性が示されるのは、「関連する全ての情報を与えられ」(情報の透明性)、「長い討論の機会を持ち」(オープンで民主的なプロセス)、「下した結果が生命や幸福に影響を与えることを知っている」(責任意識) ことが能動性を生み出すと主張されており、ビジネス的シチュエーションにおいても十分に実践的な内容であると感じた。(が、その先にある「あること」を忘れてはいけない)

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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