- Amazon.co.jp ・本 (333ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751500
作品紹介・あらすじ
人間には戦争せざるをえない攻撃衝動があるのではないかというアインシュタインの問いに答えた表題の書簡と、自己破壊的な衝動を分析した「喪とメランコリー」、そして自我、超自我、エスの三つの審級で構成した局所論から新しい欲動論を展開する『精神分析入門・続』の2講義ほかを収録。
感想・レビュー・書評
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フロイト 欲動論と局所論から「人間はなぜ戦争をするのか」について論じた本。
人間の自己破壊の欲動と道徳的人間に至る過程を解明している。表題以外は専門的だが、訳者 中山元 氏の解説のおかげで 読めた
フロイトの人間像、戦争に対する態度、戦争における国家像は いずれも悲観的。まずは 最悪に備えよ というメッセージとして捉えた。人間に希望を残すキーワードとして、文化の発達、他者愛(ナルシズムからの脱却)、超自我を取り上げ、道徳や良心の源泉として論じている
鬱病に見られる自己破壊欲動(死の欲動)と超自我の対立を見ると、死の欲動の強さを実感する。フロイトの「人間は他者を犠牲にしてでも自分の欲望を充足しようとする〜戦争はなくならない」という論調も うなずける
フロイトの人間像
*人間は他者を犠牲にしてでも自分の欲望を充足させようと願う存在
*人間は 死の欲動(破壊欲動)により戦争をやめることはできない
*生の欲動(エロス欲動)に働きかけ文化の発達を通じて、戦争に反対する道徳的人間の余地は残している
フロイトの戦争に対する態度
「戦争が存在することに諦めを抱き、戦争に自分を合わせていくべき」
フロイトの戦争における国家像
「国家は 国民に最大限の服従と犠牲を強いておきながら秘密主義と報道や言論の検閲によって 国民の行動能力を剥奪する」
戦争に反対する道徳的人間像(利己主義から利他主義への変貌)
*利己的欲動がエロス的な成分と混じり、他者からの愛を求めることにより、社会的欲動に変貌する
*教育により利己的欲動の放棄を学ぶ
文化の発達は 人間の良心や道徳の根となる
*人間の文化は〜愛する者の死によって誕生した〜愛する者の死の辛さに耐えるために、人間は霊魂を思いついた
*愛する者の死は、疎ましさを自覚されることで、罪意識の根源となり、良心や道徳の根となる
鬱病に見られる自己破壊欲動(死の欲動)と超自我の対立
*喪の仕事の失敗(超自我の欠乏)は鬱病まで悪化する
*喪の仕事=愛する者に向けられたリビドーの再転換の営み
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フロイトとアインシュタインの手紙のやりとり。
フロイトからの返答。
戦争はなくならせることはできないのか?
という疑問に対して。
利害が対立した際に話し合いをして解決する動物というのはちょっと想像できない。
人間の場合には、動物の本性としてある暴力が、知性によって優劣が決められるように取って代わっていく。
暴力から知性の時代へ。 -
40歳を過ぎて、「初フロイト」。
実は、多分20代の前半か、10代の後半の頃に、「夢判断」か「精神分析入門」、どちらかに挑戦した記憶が。(どっちだったかは、忘れてしまいました)
「なんじゃこの日本語は?さっぱりわからん...」と、言葉の難解さに辟易して、放り出しました...。
無駄に難解な日本語にしない。
と、いう意味で絶大な信頼を持っている、光文社古典新訳文庫さん。
今回も、その期待はかなり満たされました。
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刺激的なタイトルの小文を表題作にしています。
有名な、アインシュタインさんとの文通書簡。
要は、アインシュタインさんが「人はなぜ戦争するんですか?フロイトさん?」と、尋ねたわけですね。1932年。想定にあるのは、第一次世界大戦と、近づいてくる第二次世界大戦の足音です。
1932年には、ナチスがかなり台頭して、ユダヤ人迫害を始めています。フロイトさんはユダヤ人でした。アインシュタインさんも。
で。
人はなぜ戦争をするのか?
フロイトさんは、どうやら、こう言ってはります。
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人って、そういうところがもともとあんねんよ。
敵を殺す快感、欲動ってものがあって。
強いものに集団で立ち向かうにせよ、結局暴力的な欲動があることには変わりがあらへんねん。
最終的に支配者は、かならず自分たちに都合のいいルールを作ります。必ず。どういう共同体であれ。
法と言うもんは、もともとが「剥き出しの暴力」だったんやねえ。
そして、指導者と従う者という、避けられない関係が集団にはあって、そういうことから戦争になったりします。
共同体には、暴力による強制と、感情的な結びつき、のふたつが必要。
そして今、世界の民族を支配している流行?の思想は、ナショナリズムの理念。これが国同士を対立させている。
生きようとする欲望、エロス。自分も含めて破壊して殺戮しようとする、タナトス。両方をひとはもっています。
だから戦争を止めるためには、エロスに訴える。愛でしょ、愛。
愛する人を失いたくない。これはみんなそうです。
そういう、自らの生を決定する権利を、戦争は奪います。
殺すのも、殺されるのも、それを命令されるのも、いややわあ、という気持ちは必ずあるんです。
戦争を、残酷なことをしてしまう、したがる、そして、指導者に従ってしまう。
そんな本能も僕らはもっているんですね。
でも、一方でエロスみたいな生きる欲動もあります。
そっちに働きかけるしか無いんちゃいますかね。
やっぱり、嫌なもんは嫌や、平和主義やっていうか...
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まあ、というような内容です。
かなり口語的で分かりやすいです。
善悪論ではなく、人間の根源的?な性質?という視点があって。
そして、地獄落ちじゃない力強い主張があります。
名演説を聞いた気分。
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それ以外に、
「戦争と死に関する時評」
「喪とメランコリー」
「心的な人格の解明」
「不安と欲動の生」
という四つの文章が収められています。
その一部は、「続・精神分析入門」に入っているらしいので、恐らく編者訳者がある指針に基づいて、「フロイト入門編」的な本に作っているんだと思います。
で、正直、「???」で終わってしまった章もあったんですが...
総論として、かなり判りやすく、ドキドキ楽しめるところもあり。
元々が当然、娯楽のための読み物ではないので、言ってみれば「コク」のある、「噛みごたえのある」タイプの読書だったんですが、
少なくとも日本語として、翻訳として、何が何だか迷いの森の迷子道...ということは無く。
ニンゲンの不思議な気持ち、精神っていうのを、分解して考えていく面白み、は判りました。
そして、そういう、ある種の整理の仕方、ある種の傾向が分かるだけでも、
ひょっとすると自分の「ココロの健康」について、多少の対策を、気持ちの中で持ち得るのだろうなあ、と思いました。
いやあ、そういうことを、言ってみればゼロから言葉として作って行ったんでしょうから。
フロイトさん、確かに、大したものです。
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以下、メモ風に
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「自我」「超自我」「エス」という三つのコトバで、人の気持ちや欲望を分析するのは、なんとなく理解できました。(多分)
つまりは、「自我」というのはなんとなく僕らが普段考えている「エゴ」みたいなこと。
「エス」というのは、大抵の場合、道徳的には問題がある、僕らの本能的な欲望。
つまり、破壊とか殺戮とか征服とか、セックスとか食欲とか、そういう、ダークな、井戸の底のような、悪い本能っていうか。
「超自我」っていうのは、恐らく雑に言うと「良心」とか「モラル」とかそういった。
産まれてからの後付けで身に着けている、「自分がこうありたい」というルールのようなもの。
「自我」というのはなかなか大変で。
「社会」「エス」「超自我」という、三つの、正反対の君主に仕えている訳です。
しかも、それぞれの意味合いで、この三人の君主は暴君で、強力な訳です。
そういうところから、うつ病になったりする。
というか、うつ病というのは、うつ病の発作である、という考え方。
こういった整理の仕方は、スッキリ分かった気がします。(多分)
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そういうのが全て、理性の判断とか知性とか、そういう水平線を超えた(あるいはその下の)脊髄的な持ってしまっている感情支配が前提なんですね。
で、それはすごく判ります。
結局は、ヒトは最後は合理性や理念では動かない。
そういうのは全て、感情、気持ち、そういうものが、「その場の都合のいい外套」を選んで着ているようなものなんですね。外套=理念や理屈、合理性。
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そして、死、というものの考え方。
ヒトの歴史は殺戮の歴史。
でもどこかで、「自分の愛する者が死んだら、心がぽっかりしてしまう」という矛盾?に気づく。
そこを誤魔化す?正当化する?癒す?ものとしての宗教、死の概念。魂の不死、という考え方。
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喪、という言葉を、「愛する人を失った場合」に限定せず、理想や仕事やプライドや自由や、そういうものを失った場合でも同じ。
という考え方。これも、凄く納得。ふむふむでした。
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そして、「自我」と別に「超自我」とか「こうなりたい自分」みたいな理想。
それをまず、親から影響を受ける。
ここで、同一化、つまり、同じようになりきる感じ、というのと、その人に好かれたい、という憧れ感と、に二分される影響の受け方がある、という。
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やや脱線で、マルクスなどの唯物史観は、経済が人間に及ぼす影響を過大評価していて、
実は人間は、経済的には過去の文化でも、親や大人に与えられてしまったそういう「価値観」に縛られることが多い...
と、言う指摘には、それはそれで、「なるほどおお」と思ってしまいました。
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それに加えて...
割と言葉だけは有名な、子供の精神状態の「口唇期」とか「肛門期」とかの話とか。
産まれるときの窒息の恐怖感が及ぼす影響とか。
性器を切断されるという原体験的恐怖感?だとか。
なんとなく「ああ、フロイトってこういうことを言っているってことが、よくギャグ化して言われるよなあ」ということについての言及も多かったです。
なんですが...そこンところは正直、ピンと来ず...
ま、読み方が雑なんでしょうけれど。
この先まだまだ、そういう興味が出れば、そういうことを読んだり考えたりする楽しみもあるなあ、と思いました...。
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そうそう。
第1次世界大戦で、これまでにない酷い戦場体験を多くの人がして。
「もうあかんわ、戦争でけへん」
という心の病人が出たんですって。大量に。
そこで、時の政府、軍隊は、
「甘ったれてんぢゃないよ」
ということで、電気ショック療法(拷問?)を施したそうです。
そうすると、多くの兵が、
「電気ショックの辛さよりかは、戦場に戻ります」と戻って行ったそうです。
そうなると、電気ショックをした側は、
「ほら、そうだろ?甘えなんだよ」と、エッヘンな訳です。
ところが。
そうやって戦場に戻って行った兵隊たちが、やがて、相当に高い確率で、もう、戦闘不能なくらいに心が壊れちゃったんですって。
というわけで、困った困ったになって、フロイトさんたち「電気ショック反対派」が改めて招聘されたそうです...
へえ、というお話ですけれど。
実は、笑えませんね。この話。2016年現在も。
怖い怖い... -
アインシュタインの問題提起に対して、フロイトが回答したという名著。2人の天才がどのような対話を行ったか、非常に興味深い。
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経験から推して、暴力がこの世からなくなる可能性はないと言っていいだろう。法が保証する権利は、一種の暴力であるし、自己の内から沸々と湧き起ってくる怒りや攻撃的情動の存在を否定することはできないからだ。だが、暴力がこの世からなくならないという結論は、戦争を排除できないことを意味しない。(戦争勃発の可能性は常に内包し続けるだろうが)フロイトは本書で以下のように述べる。
「それは、わたしたちがなぜこれほど反戦活動に熱中するのか、わたしもあなたもほ かの人々も、人生のその他の多くの苦痛に満ちた苦難の一つとして、戦争をうけい れようとしないのはなぜかということです。戦争というものは、むしろ自然なもの で、生物学的に十分な根拠があり、実際問題としてほとんど避けがたいものと思わ れるからです。(略)わたしたちが戦争に強く反対する主な理由は、ともかく反対 せざるをえないからだと思います。わたしたちは平和主義者ですが、それはわたし たちが生理的に戦争が嫌だと感じるからです。それだからこそ、戦争に反対し、さ まざまな反戦論を提示しようとするのです。」(p.33-35)
このフロイトの発言は一考に値する。なぜなら、我々が戦争に 反対する理由を、倫理観や道徳等、「意識」の領域、つまり理屈に求めるのでなく、当の本人には知られず、であるにもかかわらず、その本人の行為に影響を及ぼす生理=「無意識」の働きに求めているからだ。無意識の領域は、まさに意識できない領域であるがゆえに、執拗である。その無意識が戦争を拒否していると仮定するならば、戦争を排除する可能性は残されていると言えるだろう。この書を読んであなたは何を考えますか? -
中山元は『フーコー入門』が読み辛かった覚えがあるのだけども、この訳はなぜこれほど読みやすいのだろう。フロイトのエロス/タナトス理論のわかりやすい解説になると共に、アインシュタインとの往復書簡が秀逸。当時の西洋世界にとって、戦争がどれほど人類の既存の知を脅かしたのかが肌に伝わるようだ。
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アインシュタインの疑問に心理学的に答えようとする書簡の表題。そこから、メランコリー(ここでは鬱病)のメカニズムや性を基盤としたフロイト心理学の解説をとても分かりやすく行っている。中山訳は読みやすい。フロイト自身が自己の理論に制限を感じながらやっていたとは知らなかった。
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共産主義者たちも、人間の物質的な要求を満たして共同体の成員のあいだに平等性を確立すれば、人間の攻撃性を消滅させることができると考えています。
道徳哲学では、良き欲動の動きから生まれた行動だけがよいものとみなされ、そうでないものは良いものとは認められない。
人間の知性を信じられるのは、強い感情の動きにさらされていない場合のみである。
自我が自分の弱さを示さざるをえなくなると、字がは突発的に不安を起こします。 -
第一次世界大戦に衝撃を受けたフロイトによる精神科医としての考察。冒頭のアインシュタインとの書簡が興味深い。人間の本性は、(どんなに知性があっても)他者を攻撃する欲動があり、それを抑えるための社会であり文明があるとする。そのため、文明が発達すればするほど、人間の本質が失われてしまう。では、どうすればよいか。人間の欲動、無意識、夢を観察し、人間の外と内でコントロールすればよいのではないか。絆を探したり、社会性の中で発散する仕組みなどあらゆる環境下で心のエネルギーを拡散させる場が必要であろう。※後半は、本旨とは関係なし。。