純粋理性批判 (2) (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (423ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752040

作品紹介・あらすじ

人間の認識を成り立たせる二つの能力、感性と知性。1巻では感性について考察した。2巻では知性を分析する。認識のために知性はどう働き、知性が用いる純粋な概念であるカテゴリーはどのように導きだされ、根拠づけされるのか。「形而上学の秘密全体を解くかぎ」の解明に取り組む。

感想・レビュー・書評

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  • カント。
    昔大嫌いだった。
    でも、今は好き!
    こんなふうに物事を考える彼の後ろ姿をみたかった。
    恐らくその光景はどんな文章でも表現できないだろう。
    カント。孤独の哲学者。
    合理的なリズムで踊る文体。
    こんなふうに私の感性と知性が絡み合うのです。

  •  前巻で「感性」を扱ったので、この巻からテーマは「知性」(悟性)。
    「判断表」「カテゴリー表」なるものが出てくる。これらが「完全なもの」とはまったく思えないのだが、その後に続く思考が素晴らしい。
    「[現象において観察される]諸法則は、こうした現象そのもののうちに存在しているわけではない。たんに知性をそなえて[観察して]いる主体にたいして存在しているのであり、これらの現象はこの主体のうちに宿っているだけなのである。」(P.170)
     こうしたカントの認識論は、まっすぐ20世紀のメルロ=ポンティまでつながっていくものであり、実に重要である。
    「わたしたちは、いつかわたしたちの認識のうちに登場する可能性があるすべての像について、わたしたち自身がつねに同一であることを、アプリオリに認識している。
     この[自己同一性の]意識はすべての像を可能にするための必然的な条件として意識されるのである。」(P219, 初版の文章)
     ここで言われる統覚、同一性は、20世紀個人心理学でいう「アイデンティティ」のことではなく、つまり個体としての自我ということでなく、自己と共に存在している「世界」との「あいだ」、その刹那に「ともにある」すべての事象が直面する知覚の「パースペクティヴ」の同一性(統合性)と解釈する限りで、正しいと思う。
     それにしても、巻末の訳者の長大な解説は、今回も余計なものに感じた。そう思っているのは私だけなのだろうか・・・

  •  第一巻に続いて、論理学の原理論。この巻を暗記するぐらい理解しておかないと、あとのことが全く判らないというぐらい重要な巻です。
    中山元さんの解説も良く、踏ん張りがいのある作りになっていると思います。
     
     この中山元訳のカントは、これまでの翻訳と違い、理解をうながす構成になっているのが良いところだと思います。
    何度もチャレンジして挫折した人には、ああ、こうゆう構成で書かれていたんだと、何度となく納得できるようになるのではないだろうか。

  • この本で強調されていた2つの事項の対比ー感性と知性、分析と総合、アプリオリとアポステリオリ、主体と客体、原因と結果だ。世の中の多くの事は2つの比較で考えられることが多いからだ。超越論的認識、形而上学、ロック、ヒューム、自己統合、カテゴリー、弁証法、実体の根拠付け、親和性、ものごとを抽象化して考えるくせを付けないといけない。

  • むずい
    評価できず

  • 2022/07/10解説読了
    【いつわたしたちはカテゴリーを獲得するのか???】という大きな疑問が残った。

    以下、読書中のメモ
    p258
    論理学>広義>>一般>>>純粋(理性、知性の使い方)
             >>>応用(心理学的な影響を考慮)
       >超越論的>>分析論
            >>弁償論

    p267
    一般論理学    <> 超越論的論理学
    直観× 対象がない <>直観を使い対象を見る
    机上の空論が可能 <>分析論で批判
    詭弁が可能    <>対象の無を指摘すること(弁償論)で批判

    p271
    cf.カント『論理学』(カント全集17)
    感受

    知覚(注意を向ける)

    反省(見分ける)」ここまでは動物もする
    ↓←言語<総合<想像力・直観(像)/ 知性(認識)
    抽象化(切り捨てる)
    認識
    ↓←カテゴリー
    判断、理解、統一 判断を下す能力=知性

    p275
    判断>消極的(推論的)
      >積極的(人間側から自然の法則を規定できる)←『純理』の最終的な結論

    p283
    判断・主語と述語の関係
    すべての人に共通
    ジンテーゼ>(テーゼ←→アンチテーゼ)

    p289 カテゴリーについて
    (3)判断の関係
    断定 「人間は自由だ」
    仮言 「人間が意思を持つもの」ならば「人間は自由だ」←真かどうか不明、帰納
    選言 対立する命題の組み合わせ、矛盾対等の関係←ほかの判断を「排除するため」のもの

    (4)判断の様態
    (1)(2)(3)と全く関わらない
    命題>可能か否か
      >可能なら現実的か←真理?実存性?
      >現実的ならその判断が必然的だったか

    p290 超越的論理学と一般論理学との違い
    客観性がある、他人とわたしの判断が一致する

    p291
    太陽が石を「照らすと」石は暖かくなる 知覚判断・対象
                         ↓←概念
         「温めると」        経験判断・客体

    p300
    【人間にはそもそも「原因」という判断形式が備わっているから原因について考えられるってこと?】←【これはどうも違うみたい】

    p305 カテゴリーについて
    (1)量 ・外延的

    ↓スペクトル(強度)
    (2)性質・内包的
    数学的なカテゴリー=物質の実在的なあり方

    (3)関係←時間の概念が支えている
    最重要なカテゴリー
    思考の基本的パターンを支える

    p310 (3)関係の下位のカテゴリーについて
    ((1))断言判断
    すべての判断の土台
    実体カテゴリーの概念の基礎
    客観性の保証
    ((2))因果関係
    現象(物自体ではないことに注意)に適用
    (3)関係カテゴリーはすべて因果関係について【???】
    ((3))選言判断
    相互性(片方が存在しなければ他方も存在しない)
    物理学の「作用・反作用」の法則の根拠づけ

    p315
    (4)様態 主体(判断)とモノの関係
    モノに対してはいかなる規定も加えない

    p319
    演繹とは
    一般的なものから特殊なものを推論すること

    この本で使われる「根拠づけ」とは
    法学の専門用語から
    裁く側(感性・知性が担当、知性・理性の越権【詭弁のこと?】を許さない)の権限の問題

    p321
    感性 誰にとっても自明
    知性 自明ではない
         ↓←判断の根拠づけ
        自明にする=カテゴリーの正当性を示す

    p326
    「形而上学の秘密全体のかぎ」
    認識が他人と了解しあうことができるわけ
    像によって対象を思い描くことができるわけ

    人がモノを認識する時の図式
               (人)
    外・モノー(時間・空間の形式)ー直観ー現象
    内・現象ー(カテゴリーの形式)ー認識ー思考

    p333
    カテゴリー>アプリオリ(感性・知性)←客観的な根拠づけ
         >経験可能【感覚?】←主観的な根拠づけ

    把握   ー感覚
    再生産 ー想像力         >知性
    再認ー自己統合の意識

    p335
    把握 (今・直観)≒注意【知覚?】
    時間が過ぎることで一つの景色が分節される

    今が今として把握される

    再生 (過去・想像力)
    過去を今とつなぐ 
    >経験的 昨日のパーティーを思い出す
    >超越論的 経験を可能にする ex.曲は過去の音を残しつつ今の音をつなげることでメロディが見える

    再認・掴む意識 (時間の継続性)≒概念、知性の領域
    現在が可能なのは過去と未来が存在するから

    知性>再生・経験的【上記の超越論的な再生のこと?】
       >概念・超越論的(規則があるため)

    p345
    内的な状態の知覚<内的感覚
    =経験的な自己統合の意識
    「不動な自己ではない」

    (1)
    統一的な認識
    「不動な自己の統一」
    =超越論的な自己統合の意識

    以下を可能にする
    >直観>把握>過去
    >想像力>再生>現在 >>各々に 経験的・超越論的が存在
    >掴む意識>再認>現在となる未来

    (2)
    直観の対象
    存在することだけ直観できるもの
    超越論的な対象
    認識する側の見方


    物自体
    存在する側の見方

    p350
    すべての人間の認識はある必然性をもつ
    各々の人間の経験は「ひとつ(共通)の経験であるべきこと
    これらの必然性はどこから来るのか?

    知覚判断 「ある固いものは石である」
    経験判断 「石は固い」(実体・属性のカテゴリーから)

    p355
    自然界は特定の現象のあとで別の現象が頻繁に起こる
    =「親和性」
    人間には自然を観察する時にやりがちな判断がある
    =「超越論的な親和性」

    p357
    主観的な根拠づけ←すべて想像力の働き

    客観(上)→主観(下)への根拠づけ
    純粋な自己統合の意識
    (わたし>経験的な意識=自己同一性の意識)

    ↓ 過去の像
    ↓  ↑
    ↓  総合←産出的な想像力(アプリオリ)
    ↓ <判断(カテゴリー・知性)
    ↓  ↓
    ↓ 現在の像

    経験的な直観

    p360
    主観(現象/下)→客観(カテゴリー/上)への根拠づけ
    現象/知覚
    ↓  カオスを総合>想像力<過去を結びつける(再生)
    ↓                ↓            
    ↓           連想(親和性)
    把握/形象          ↑     
    ↓           産出的な想像力
    ↓           自己統合の意識=自己同一的な規定
    再認>根拠が経験一般の形式(カテゴリー)だけにかかわる

    p361
    自然に法則があるように見える
    →人間がカテゴリーに沿って自然を見るせい

    「知性と感性を結びつける根源的な役割」を果たすのは「超越論的な想像力」【やっぱり!!】
    感性ーばらばらな知覚>総合←想像力
    知性(概念)-多様なものを自己統合の意識を結びつける>感覚的な直観と関係を結ぶ←想像力
    cf.ハイデガー『カントと形而上学の問題』

    p367
    純粋な自己統合の意識=自己意識の超越論的な統一
    >マッス(ぼやっとした全体)からひとつの像を切り出す働き
      →判断より前から働く知性による
    >自己の内部にその像を描く働き
      →「わたしは考える」という自己意識

    p372
    認識が成立するための二大原則
    (1)直観されたものは空間・時間の形式に従う
    (2)直観されたものは自己統合の意識の統一に従う

    p376
    知覚の判断
    他者と共有できない「あるものを持つと手に圧を感じる」


    他者と共有できる「物体には重さがある」
    判断の表現(経験判断)

    p378
    認識
    >直観(感性)
    >知性(概念)

    思考
    >……
    >知性だけでもできる ex.幾何学 ←経験的な直観に適用 〇認識 ×妄想

    p382
    カテゴリー適用の条件
    (1)知性を通す
    (2)直観(時間・空間の形式)に沿う
    (3)(1)、(2)を総合する自己統合の意識下にある

    「矛盾律」=矛盾してることは間違ってるということ
    「矛盾律に反する」=矛盾しているということ

    知性・時間の形式にしばられない=矛盾律が成立してしまう
    ex.ソクラテスは老人であってかつ老人ではない??
    無時間的な知性>>><<<時間的な直観
            想像力が結びつける
               ↓
             矛盾律を証明

    p385
    想像力
    「対象が目の前になくても像を思い描くことができる能力」
    受動的ー再生、連想
    能動的ー産出→感性が自発的に行う<知性の特性と似ている

    p387
    知的な総合ー直観一般<カテゴリーの総合←知性の力だけ
    図示的な総合ー感覚的な直観<カテゴリーの総合
               ー想像力の超越論的な総合(超越論的な統一だけ)
                  <カテゴリーにはまる形で直観を総合する想像力(知性が感性に及ぼす働き)

    p389 自己統合の意識について
    ・初版
    経験的・内的な現象
    超越論的・必然的な現象【アドラーの「共同体感覚」ってこれ?】

    ・第二版
    「初版の経験的」を外した

    内的感覚の無力さ<時間を直観できない<直観が含まれていない<認識には役に立たない

    外的な対象に直観を使う(再生的想像力)
    知性(カテゴリー)の型抜き(産出的想像力)→初めて「把握」へ

    p392 カントの難問
    人 思考ー主体
       行為ー客体

    自分について思考
    (1)現象的な客体としてしか「現れない」
    (2)主体の「わたし」が同時に客体の「わたし」でいられるのはなぜか?

    (1)の考察
    直観の時間の形式 一本の線(違う現象からイメージを借用)
    「わたし」 現象としての「わたし」を認識

    (2)の考察
    考える「わたし」を意識←「わたしは存在する」という意識に過ぎない
    「わたし」を認識←他の客体と同じく直観(※)とカテゴリーを使って認識する
    ※直観ー時間の形式

    自発性を備えている【?】
    「わたし」を単なる現象にしない
    行動につながる→『実践理性批判』へ

    p404
    「純粋理性の後成説」
    カテゴリーによって初めて経験が可能になるという考え方←『純理』でカントが言いたかったこと


    カントが否定した「純粋理性の前成説」
    カテゴリーはわたしたちに最初から備わる素質であるという考え方
    【では、いつわたしたちはカテゴリーを獲得するのか???】


    2022/01/27 本文読了時の感想
    ※前巻に引き続いて、訳注と解説は読んでません。

    もしかして、
    「経験はカテゴリー(純粋知性概念)の形式であらかじめ制限される」
    ってことだけを言うためにこの膨大な量を費やしたのか?!!!
    うわぁ、なんか、それ、知ってたよ。
    知ってたけど、改めて説明しろってなるとこうなるのか。
    こうならざるを得ないかー。
    うわぁ…、大変だぁ…と思った。

    とりま、弁証論をむちゃくちゃ嫌ってるなぁということは分かった。

    以下、読書中のメモ

    第一部
    第二部門 

    序、第一節

    認識
    ー直観 (像を思い描く力、受容性「赤い何かがある」
    ー概念 (像から対象を認識する力、自発性「りんごだ」

    直観、概念ともに
    ー感覚を含むもの=経験的、実在するもの
    ー感覚が混在しないもの=純粋なもの、形式だけのもの
    p75

    直観
    ー感性、何らかの形で触発されて、受け取る、感覚
    ー知性、みずから像を作り出す、思考

    人間の直観には感覚的なものしかあり得ない
    だから、知性は、感覚が直観したものを思考するしかない

    認識
    ー直観を概念のもとに配置する→感性論
    ー概念に感覚(直観)できる対象を与える→論理学
    p76

    論理学
    ー一般論理学
    それなしでは知性を働かせることができない規則
    ー特殊な知性の利用
    特定の種類の対象を正しく思考するためのもの
    p77

    一般論理学
    ー純粋論理学
    経験的な条件は無視される
    理性や知性を利用する際の形式だけにかかわる
    認識の内容は考察しない
    ー応用論理学
    純粋論理学が主観的で経験的な条件のもとで使われる時
    知性の利用に関わるものだけが対象
    対象の違いは考慮しない
    さまざまな条件下で知性を使う際の注意点を取り扱うもの?
    p78

    第二節 超越論的な論理学
    純粋な知性と純粋な理性認識
    この起源と客観的な妥当性を規定する学

    何のこっちゃ訳わからん。
    とりあえず、アプリオリより上の階層の話なのかな?
    p82

    第三節 真理とは何か
    内容から真理を探すことは無理。
    他との違いを指摘せずに特徴を示すことができない「内容」に普遍性を求めるのはナンセンス。
    真理があるとしたら「形式」。
    でも、これも矛盾がある時はある。 

    認識に形式を見つけるのが一般論理学。
    それは基準でしかない。
    個々の「対象」を扱う時は違うやり方で。
    弁証論は、一般論理学の見つけた形式を使って「対象」を考えようとしたがるけど、あれはただの「おしゃべり」。
    この先、この本で弁証論って言葉を使う時は、「対象」を扱わないで「仮象」を扱おうとしてるっていう批判の意味で使うよ。
    p87

    第四節

    超越論的な論理学では、起源が知性だけにある思考を取り上げる。
    第二部門の第一部では分析論、真理の論理学を扱う。
    経験から与えられた素材に概念を与える作業をする。
    ただし、そこにある素材の形式を知る作業だから、その形式をまだ未知のものにまで拡張して、判断を下す使い方をしてはいけない。
    同じく第二部では、未知のものにまで判断を下す弁証論の批判を徹底的にやるよ。
    p88

    第二部門の第一部
    分析論
    純粋な知性による認識の要素に分割する試み。
    以下、4つのルールを守ること。
    1.経験的な概念は扱わない。
    2.思考と知性に属するもののみ扱う。
    3.基本的な概念のみ扱う。
    4.それによって作られる表は完璧であり、全体を完全にカバーできるようにする。
    純粋な知性はそれだけで自立し、自足する統一体。
    そこから来る認識の全体は、一つの理念から体系化できるはず。
    その体系が完全であれば、体系に含まれる個々の認識が正しいことを判定することができるはず。
    分析論では第一編・カテゴリー論(諸概念の学)と第二編・原則論(←理念のこと?)をやる。
    p90

    第一編
    カテゴリー論
    知性の能力そのものを分析する。
    純粋な概念は人間の知性のうちにすでに準備されていて、経験をきっかけに発達する。
    この概念は知性のおかげで、その内、経験から解放されて、純粋な姿を見せる。
    p91

    知性による認識は推論的な認識である。だって、感性や直観に頼らないってことは、概念による(経験によらない)認識しか扱えないから。

    知性はそもそも判断を下す能力。
    だから、可能的な判断の述語として現れる。
    その述語を統一的に(←できるだけ簡素にって感じ)を列挙できたら、知性の能力をすべて発見できる。
    p95

    判断の関係・選言判断(AはBであるかCである)がややこしい。
    いくつかの範囲が互いに除外しあいつつ、主語の守備範囲を決めるって感じ?
    後で大事になるらしいのでメモ。
    p100

    「判断の様態」は「可能」<「現実」<「必然」の順で知性との一体化が強くなるらしい。
    そして、「可能」が知性、「現実」が判断力、「必然」が理性の働きを示すらしい。
    (←知性と理性の違いが出てきた!)
    p102

    知性の二つの機能
    1.さまざまな像を統一して一つの判断を作り出す。
    2.さまざまな像(直観)のたんなる総合(想像力)に、統一性を与える。
    2の統一性を「純粋知性概念」と呼ぶ。
    (←1の「さまざまな像を統一して」と2丸々は一緒のこと言ってない?)

    知性が概念を分析的に統一すると、判断の形式が成立。
    直観が多様なものを総合的に統一すると、超越論的な内容が成立。

    純粋知性概念はアプリオリな形で客体と結びつく
    (←???)
    p105

    カテゴリー(←純粋知性概念の形式と私は捉えてる)の規則は普遍性がないとだめ。
    例えば、「原因」という概念は経験の実例でいくらでもあるよねーって言えて広く使える。
    でも、それは帰納法で言えるだけで相対的なものだから、必然性がない。
    純粋知性概念としての「原因」の概念はそれとは違って、なんか「威厳」みたいなものがないとだめなんだ!
    p125

    第14項
    対象が像を作り出す
    →経験的なもの
    像が対象を作り出す
    →人間が心に描いた像を対象として存在(実在)させることはできない。実在する対象を、像によって対象として認識できる。

    何も直感していない場合にも何かを対象として思考できるのではないか。そのためにはアプリオリな概念が経験より先に存在してるのではないか。
    このアプリオリな概念が先にあるから、経験を客体として扱えるのではないか。
    だから、カテゴリー(=アプリオリな概念?)を利用しなければ、ある経験の対象をそもそも思考することができない。(←?なんか急だな、私には分からない飛躍を感じるな)

    すべての経験を可能にするアプリオリな条件として、アプリオリな概念が存在していることを認識しなければならない。
    (←経験を客体視できるのは、土台となる概念があるおかげだってことかなぁ?)
    p127
    ^_^
    判断表とカテゴリー表の使い分け
    判断表は主語述語の関係性を表すだけ。
    カテゴリー表は対象を主語となるものか述語となるものか規定する。
    直感で与えられる対象をカテゴリーで規定することで、判断ができるようになる。
    p111

    多様なもの一般を総合させる働きの中で、主観自身が作り出す必要がある働き(=結合)を知性と呼ぶ。
    p130

    「わたしが考える」時、常に「わたし」が他と区別されていること、「わたし」の中でしか多様なものが総合できないこと(多様なものそれぞれに合わせて「わたし」が存在したら、たくさんの「わたし」ができちゃうから)が認識の最高原則であり、「統覚」=自己統合の意識と呼ぶ。
    p136

    想像力とは、対象が目の前になくても、直感で対象の像を思い描くことのできる能力。
    感性に属する。
    産出的な想像力はアプリオリな認識の可能性の説明に貢献しうる。
    (再生的な想像力は経験的な法則=連想の規則にしたがうので、哲学ではなく、心理学の問題となる)
    p152

    「わたし」の内側で感じること(内的な感覚能力)も〈あるがまま〉ではなく〈現象〉としてしか認識できない。
    p156

    「わたしが存在する」ということだけを意識するのは思考。
    「わたしがみずからを認識する」という場合には、思考だけでなく特定の直観の働きも必要。

    「わたしが自分とは異なる客体を認識するときには、客体そのものについての(カテゴリーによる)思考のほかに、さらに直観を必要とするのであり、この直観を通じて普遍的な概念を規定するのである。それと同じようにわたしは自分自身を認識するときにも、[わたしが存在するという]意識のほかに、そして〈わたしが自分のことを考える)ということのほかに、わたしのうちにおける多様なものの直観を必要とするのであり、この直観によってわたしはこの思考を規定するのである。たしかにわたしは叡智的な主体として存在しているのであり、この叡智的な主体はみずからの結合能力を意識している。しかしこの叡智的な主体も、[自己の認識において]みずから結合する多様なものについては、内的な感覚能力と呼ばれるある制約にしたがうのである。そしてこの結合を意識するときには、ほんらいの知性の概念の外部にある時間の関係にしたがって直観するしかないのである。だからこの叡智的なものが自己を認識するのは直観によってであって(この直観は叡智的直観ではないことに注意しよう。これは知性がみずからもたらす直観ではないからである)、みずからにたんに現れるかぎりにおいて認識するのである。そしてこの直観が叡智的直観であった場合に認識するようにはみずからを認識することができないのである。」
    ↑すごく大事なことを言ってる気がするけど理解できない。もどかしい。

    「わたしが今、存在する」ことは時間の形式で直観することができる。この時、「わたし」はただの「現象」である。
    「わたしが考える」ことを直感するにはわたしを意識する自発性がある直観(←時間も空間も越えた次元の直観ってこと?)が必要。
    (↑2022/02/14追記、時間も空間も超えた次元の直観は神の領域だから人間には手が追えないよって話をしてるんじゃないか)
    p157

    なぜ自然の法則がカテゴリーに当てはまるのか。人間にカテゴリーを超える自然の法則を理解できる力が備わってないから。カテゴリーに当てはめることのできる自然の法則しか理解できないから。だから、人間から見る自然の法則は全てカテゴリーに当てはまって見えるだけ。
    p165

    カテゴリーがあることによって、経験が可能になる。
    p167

    純粋知性概念=全ての経験の可能性の原理
    全ての経験の可能性の原理=空間と時間における現象の規定一般
    自己統合の意識の根源的で総合的な統一の原理→空間と時間における現象の規定一般
    統一=空間と時間において知性の示す形式

    ということは、純粋知性概念って空間、時間とすごく関係してない?
    空間、時間を決めてるのって知性の方で合ってる?
    合ってるとしたら、知性が決める範囲でしか感性は働かないってこと??
    分からんっ!!!
    p169

    補遺 初版の純粋知性概念の根拠づけ(=演繹)

    経験したものでも全くの虚構のものでもわたしたちが頭の中で考えられるということは、経験に頼らないアプリオリな直観の仕方があるはず。その形式がカテゴリー。
    p A97

    思い描く像を区別するためには思い描いた「時間」(順番)の違いが必要。
    だから、認識においても時間の形式は重要。
    p A99

    人が何かを認識する時にはフィルターを通さないと一つのまとまり(概念)として把握することができない。このフィルターの形がそもそも決まっていないと、把握することすらできない。そのフィルターの形がカテゴリーってことっぽいぞ。
    直観が時間と空間の形式に頼らないとできないように、認識はカテゴリーの形式に頼らないとできないって言ってるっぽいぞ。
    p A112

    純粋知性概念=カテゴリーは経験から導き出せない。
    例えば、原因という概念について考える。
    ある現象の後に別の現象が起こることは経験から学べる。
    しかし、ある現象の後に「必然的に」別の現象が起こるということは学べない。
    ある現象が条件となって、別の現象が結果として生まれることはアプリオリに、しかも普遍的に推論している。
    p A113

    確かに自然の中に規則を見出したいって欲求は何も与えられてない時からあるなぁ。
    何かしらの共通点が見つけないまま世界を見渡してても、手がかりなしで不安だもんなぁ。
    それが分類したい、カテゴリーにしたいっていう自己統合の意識か?
    そうだとしたら、それは確かに自発的だな。
    経験からは得てないかもだなぁ。
    p A115

    思考(認識)には自己統合の意識(自己同一性、それを意識する自分が継続した1人であること)が必要。
    その自己統合の意識に先立つものとして想像力の産出的な(純粋な)統一が必要。
    (多様なものを結びつけるのが総合。 総合をまとめ上げるのが統一。)
    だから、(直観の形式は時間と空間だったように)想像力の純粋な統一(総合の超越論的な統一)が認識の形式である。

    知性の働きによって、自己統合の意識や想像力の統一はある。
    知性は「想像力の純粋な総合の必然的な統一」を含んでいる。これこそがカテゴリー(純粋知性概念)である。

    以上から、認識には知性が含まれることが分かる。
    また、現象は経験とかかわることは既に述べた。(第1巻)
    経験した現象を認識するということは、カテゴリーを媒介として、知性との間で現象が必然的な結びつきを作るということである。
    p A120

    経験した現象を認識する流れ

    <以下、自己統合の意識内で起こる>
    経験

    現象=認識の対象

    知覚(一つの現象から複数出会う)
    ↓←把握(再生的な想像力、連想)
    形象化

    産出的な想像力(総合の力) 」」ここまでは感覚的なもの
    ↓←自己統合の意識の統一
    概念=カテゴリー=認識
    p A124

    経験

    感性⇄想像力⇄知性

    現象

    経験

    現象の把握

    再生(連想による結びつけ)

    再認(昔のアレと同じだ!)<概念=経験の形式=カテゴリー
    p A126

    「知性とは規則を与える能力」
    感性は直観の形式を与え、知性は規則を与える。
    「知性の働きは、その可能的な経験に形式的な条件を与えて、現象にすることにある」
    p A128

    カテゴリーを持っているから、経験を現象とすることができ、認識することが可能になる。
    p A130

  • 非常に難しい。
    理解できたことはほんのわずかだった。

    カントは時間と空間をアプリオリなものとして前提しているが、この前提がまず納得できていな。人間はうまれたときから時間と空間を認識しているのだろうか。成長過程において認識するのではなかろうか。
    今回も書籍の半分程度を中山元による解説が占めている。
    これがなければ、理解は難しい。この解説があっても、ほとんど理解できないのだから。
    人間は、連続した時間を認識して生きている。過去と現在がつながっているものだと認識している。それがなければ、音楽は理解できない。今聴いた音が、次の瞬間には過去になる。その音を記憶したうえで、その次に来る音とのつながりを理解する。その繰り返しによって、人間は音楽を理解する。つまり、人間がなにかを理解するためには、過去・現在・未来という時間の流れを認識している必要がある。
    カントが述べるところによると、三段論法は、個別の事象を説明するだけで、普遍的な物事を説明することができない。アリストテレスは人間である。人間は必ず死ぬ。だからアリストテレスは死ぬ。のように。アリストテレスについて語ることはできても、人間全体について語ることはできない。
    また、たとえば、庭を眺めていて、そこにケヤキがあることを認識するためには、木という概念をしらなければ、目の前には緑の塊があるだけで、地面とケヤキを区別することもできない。など。
    要するに、人間がなにかを認識する際に、人間の中でなにが起きているのか、ということを分析していくのが、本書なのだろう。
    難解であるとはいえ、こういう思考の流れに触れることで、頭を使う。自分なりに理解しようとする。カントはなにを考えているのかとか、この理論は果たして正しいのだろうかとか、そういう風に考えることで、読者も成長していく。それが哲学の面白さだ。

  •  感性を扱った第1分冊に続く本書では、主に人間の認識における知性の役割に焦点が当てられる。ちなみにこの中山訳では「悟性」ではなく一貫して「知性」が使用されている。
     哲学というものは往々にしてそうなのだろうが、用語の使用が一般のそれと全く乖離しているために用語を見ただけではそれが意味するところを把握しづらいところがあるが、本分冊では特にこれが目白押し。何度読んでも「判断力」と「想像力」の違いや、「総合」とか「統覚」の関係性が頭に定着せず、その度に定義を確認する羽目になる。
     極め付けは頻発する「根拠づけ」という言葉。流石にわかりづらいと考えたのか、訳者も解説に多くの紙面を割いているがそれでもピンとこない。訳者によれば、ここで行われているのは直訳の「演繹」ではなく「権利問題」、つまりカテゴリーにより生ずる客観認識の場合ならば、感性・知性・理性のどれがその認識を生じさせるかについての「権利」=「権限」を有しているのかが論じられているのだという。これは直感的には極めて理解しにくい。それならもっと字面から意味がはっきりわかる言葉にしてくれればいいのだが…。

     なお本分冊の「純粋理性批判」全体の中の守備範囲はさほど広くない割には、解説の記述量が多く丁寧な説明がされている。やはり経験に基づく判断によりカテゴリーが理解されるのではなく「カテゴリーを用いた経験の統合が客観的判断そのものを可能する」という例の転回が、「批判」の前半の大きな山場となるからだろう。ここのところは多くの例示を用いられていることもあり割と理解しやすかった。ロックやヒューム的な経験論との対照も鮮明でわかりやすい。

  • 134-K-2
    文庫(文学以外)

  • やはり難解。知性の考察の巻

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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