・頭木弘樹編「絶望図書館 立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語」(ちくま文庫)は 書名通りの書である。巻頭の「絶望図書館 ご利用案内」に、「絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、その長い『絶望の期間』をいかにして過ごす か?(原文改行)そういうときに、ぜひ館内に入って来てみていただきたい」(8頁)とある。「絶望したときの気持ちは、誰にもわかってもらえないもの。 (原文改行)でも、文学だけは、わかってくれることがあります。」(同前)本書はそんな時のためのアンソロジーだといふ。さうなのだらう、さうかもしれないと思ふ。洋の東西を問はずに選んだ「絶望」に関はる12の物語、その作品を選んだ理由も書かれてゐるが、必ずしも納得できないものもある。絶望といつたところで様々である。個々の人生、そんなに単純なものではない。本書が本当に絶望した「心に寄り添ってくれる」のかどうか。
・とはいふものの、「第一閲覧室『人がこわい』」の第1作三田村信行「おとうさんがいっぱい」はおもしろい。平仮名のタイトルから分かるやうに、これは児童文学である。「人に受け入れてもらえないつらさ」(12頁)で選ばれた。父親が3人になつてしまふ物語である。それは全国的にであつたから、政府も対策 を講じて、本当の父親は誰かといふ問題にまで口を出す。いや、口を出さざるをえなくなる。調査委員会の調査官がそれぞれの家に赴き、そこで「父親」全員に自己の主張を述べさせ、家族がそれをきいて父親を決めるのである。要するに「父親」の自己申告によつて家族が己が父親を決定するのである。さうでもしないと決められない。そこで主人公は誰を選んだか。いや、選ばれる父より選び方が問題である。誰をどのやうに選んだか。さう、あみだくじで選んだのである。皆同じでは選びやうがない。しかし選ばねばならぬ。そこで籤である。外れた2人の「父親」は国の管理下に置かれる。一件落着ではあつても、その2人は息子に 「受け入れてもらえな」かつたことになる。それがつらいと書かれてゐないのが児童文学、結構あつけらかんとしてゐる。私は軽い不条理劇でも見るやうな気分で読んでゐた。よくできた物語である。最後は当然の帰結として、「〈トシマ・トシオ〉が、目のまえに立っていた。」(63頁)つまり、因果は巡るで息子が2人になり、選んだ人間が選ばれる側に廻るのである。「受け入れてもらえな」くなるかもしれない「つらさ」をトシオは感じるのか。児童文学の軽いタッチで物語は進むので、不条理劇の重さや違和感はない。だからこそその「つらさ」が出てくるのかどうか。編者の目論見にかなふ物語ではあらう。次が筒井康隆「最後の接触」、これもおもしろい。人間と異星人マグ・マグとの最初の接触の物語である。カルチャーショックなどといふ言葉では言ひ表せないほどの衝撃を受けた主人公は長い報告を出す。それがマグ・マグで読まれて「『人間がよく描けて』いた」(102頁)と評価された。人間のつきあへる相手ではないのにである。ここではマグ・マグ人と上司に「受け入れてもら」ふことができなかつたのであらう。例の饒舌にくるまれても、重い内容はやはり重い物語となつたといふことであらうか。「第二閲覧室『運命が受け入れられない』」には安部公房「鞄」がある。鞄に導かれる物語、鞄が持ち手の行き先を決めてしまふ物語である。「選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。」(204頁)最後の逆説と皮肉が正に安部公房である。そんわけで、おもしろいが 「絶望」を知らぬ能天気には微妙なアンソロジーであつた。