戦争の枠組: 生はいつ嘆きうるものであるのか

  • 筑摩書房
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感想 : 3
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  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480847195

作品紹介・あらすじ

『ジェンダー・トラブル』のジュディス・バトラー最新刊。暴力、移民排除、性の政治、傷つきやすい"生"への責任を問う。

感想・レビュー・書評

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  • 2000年以降のバトラーは「生のあやうさ」という概念をベースに現実世界に対する意見表明を積極的に行っていて、ここでは「戦争」がテーマ。

    90年代のバトラーに比べると、読みやすい感じはするもののやっぱりなんかわかりにくいな〜。

    でも、この人の書くことって、共感できないことも多けど、なんか気になるんだよね。

  • 確認先:品川区立品川図書館(KK03)

    前提条件としては『生のあやうさ』第2章「暴力・哀悼・政治」の延長上に存在すると見ていいだろう(これはちょうど一冊前の日本語訳書に当たる『自分自身を説明すること』が同書の第5章「生のあやうさ」を念頭に置いたものであると類似した関係にある)。これら『生のあやうさ』あるいは『自分自身を説明すること』がそれまでの日本語環境におけるジュディス・バトラー受容と相容れないものであったために、とあるところでは「転向した」とすら言われているがそのようなことはなく、『ジェンダートラブル』以来続いているメランコリーと権力作用の問題についての新たな側面が浮かび上がってきたと見なすべきだろう。

    長々前置きを書いたが、本書を一読するに『アンティゴネーの主張』から提示されてきた課題である「誰が公的空間において嘆くことが可能なのか(あるいは不可能なのか)」という問題が「どのような前提条件をクリアしないと公的空間で嘆くことができないのか(あるいは嘆くために何が求められるのか)」という社会構成のフレームと戦争をめぐるフレームが相似関係に至らざるを得ないなかで、そのフレームに抗するために何が求められるのかについて単純化することなく行きつ戻りつの思索なくして成り立たないことが指摘されている。単純化をしないというのが本書最大のみそである。というのも、フレームに単純に抗するのはそのフレームの強化を伴うという皮肉が存在するからだ(機動隊のデモ隊封じ込めの手段である「ケッテング」はまさしくこの皮肉の極みであろう)。

    しかし、この単純化の排除というのがなかなかできない相談になりつつある。かといって評者や筆者が単純化の排除へとつながる有効な手段を提示することは、(彼女のテーゼを用いるならば)また新たな単純化を引き起こすと言えるだろう。そうしたなかで、何が求められるのか。本書から出された問いの重さとその奥行きに尻込みしているのが実情だが、しかしそれでは何も始まらないのもまた事実なのである。

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著者プロフィール

カリフォルニア大学バークレー校教授。主な著書に『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの撹乱』『アンティゴネーの主張――問い直される親族関係』(以上、竹村和子訳、青土社)、『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社)、『分かれ道――ユダヤ性とシオニズム批判』(大橋洋一・岸まどか訳、青土社)、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』(以上、佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社)、『生のあやうさ――哀悼と暴力の政治学』(本橋哲也訳、以文社)、『戦争の枠組――生はいつ嘆きうるものであるのか』(清水晶子訳、筑摩書房)、『触発する言葉――言葉・権力・行為体』(竹村和子訳、岩波書店)、『欲望の主体――ヘーゲルと二〇世紀フランスにおけるポスト・ヘーゲル主義』(大河内泰樹・岡崎佑香・岡崎龍・野尻英一訳、堀之内出版)、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性――新しい対抗政治への対話』(エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェクとの共著、竹村和子・村山敏勝訳、青土社)、『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(ガヤトリ・スピヴァクとの共著、竹村和子訳、岩波書店)などがある。

「2021年 『問題=物質となる身体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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