- Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582277838
作品紹介・あらすじ
瞬間の奥行きと無音の広がり。いのちと向かい合う現場。
感想・レビュー・書評
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大阪松原の旧屠場(=屠殺場、食肉処理場)を中心としたモノクロ写真集である。
現在、屠場は建て替えられて分業化が進み、工場のようにコンベアで運ばれる牛を解体していく形が取られているという。
旧屠場では、熟練集団が手作業で解体を進めていた。その技術員たちは、生物を食肉に変えていく現場で働いてきた。大柄な牛を扱う作業は重労働である。牛が暴れることもあり、鋭利な刃物を使う作業でもあり、大きな危険も伴う。
さらに作業に当たる彼らは、作業所を出れば、差別の対象となる部落の住民でもあった。
著者の前書きの後、重厚なモノクロの写真が続く。
雄弁なモノクロ写真を、まずは生で受け止めて欲しいということか、途中には解説は一切入らない。牛であったものが肉塊となり、屠場が清掃されてまた明日を待つ姿まで辿り着いて、巻末の写真解説を参照しながら、もう一度見直す。
屠場へと引き出される牛の中には危険を察知して抗ったり、へたり込んでしまうものもいる。脳に鉄棒を撃ち込む特殊な銃で意識を奪い、素早く放血させる。
皮を剥ぎ、内臓を抜き、背割りをする。こうして、セリに出される枝肉が出来上がる。
一連の作業は、迅速に適確に行わなければならない。作業員の安全のためという意味もあるし、肉の味にも関わるからだ。
動物の体温で、屠場の空気は冬でも湯気が立つほど熱気に包まれる。
苛酷な労働環境の中、作業に当たる彼らにはある種の誇りがみなぎる。
それは、命と向き合い、時には自らの命も危険にさらしながら日々を送る人のみが知るものなのかもしれない。
最後に作家の鎌田慧と部落解放同盟の吉田明の解説が収録される。
日本の屠場にカメラが入ることはなかなか難しかったのだという。それは作業員の大半が部落出身者で、差別を受ける職場であり、顔を出すことを嫌がる人も多かったからだ。そこに入り込み、特に旧屠場での、人の労働力に頼る形の解体を記録できたことは、著者の人柄に負うところが大きいようだ。
解説を読んでまた写真を見直す。
形状の多様な刃物。「少し前までは牛だった」吊される肉。ケース一杯の内臓。壁に残る牛の蹴り跡。牛たちが残した鼻木の紐の山。
残酷にも見えるが、肉を食う、ということはこういうことなのだ。
かつて著者は子供時代、戦後の厳しい時期に、家で鶏の群れを飼っていたという。卵で栄養を取るためだが、卵を産まなくなった雌鶏、増えすぎた雄鶏もときに、家族のタンパク源となった。鶏を絞める際、餌係として鶏たちをかわいがっていた著者を、父親は必ず立ち会わせた。特別に著者に与えられる2つの手羽先に肉が少しでも残っていると、「しっかり食べてあげなさい」と諭されたという。
肉を食う、ということはそういうことなのだ。
屠畜を被差別部落の人たちが担っていたということ、他者の命の上に自分の命をつなぐということ、さまざま考えさせる静かで雄弁な写真集である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筑豊やチェルノブイリの記録を発信してきた本橋成一が、故なき職業差別と身分差別に抗いながら、大阪・松原の屠場でいのちと向き合う人びとを追った、渾身のドキュメント。
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写真
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資料番号:011401742
請求記号:648.2モ -
大阪・松原屠場の記録。
牛の眉間に鉄の芯棒が飛び出すピストルを当てて
牛を一瞬にして気絶させる。
人が自らの手で牛を殺す。いのちと向き合う屠夫の姿。
毎日牛の眉間に鉄のノッキングペンを何十頭に打ち込むSさんは
著者との会話中に、蚊が身体に止まっても叩いたりしないで、
手のひらでそっと追い払う。命の扱い方を熟知しているんだ。
屠畜室の入口には馬頭観音が祀られているのか。
カシラ(頭)は、2001年のBSE検査開始以後に
頬肉を除いて、すべて焼却処分されることになった。
その他の部位は、大切に無駄なく処理される。
日本人は殺生は「悪」と教え込まれてきたので、
牛や豚を屠る労働は、人間の生存を維持する食を
生産する仕事でありながらも眼を背けられてきた。
この写真の多くは
人間労働が中心となっている生産工程の古い方式で、
今はもっと機械化が進んでいて、
トロリーコンベアがたてに長く並んで、
牛の身体を移動させながら処理する
労働が分解・分業化されたシステムになっている。
職人の熟練の技術とプライドがフィルムに焼きついている。
素晴らしい。神々しいくらいだ。 -
ショッキングな写真集。スーパーの肉屋できれいにパックに納められた肉は、実はこうして屠られた動物たちの成れの果てなのだ。目を背けていた事実を見せつけられて怯む。差別の文化と食卓は密接につながっている。
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読むべき。
現在は多くが機械化されているらしい屠畜だが,人の手による屠畜場の写真集。
「いただきます」の重さが変わる。
もちろん何に対しても命のありがたみとか重さは変わらずあるんやと思う。でもやっぱり大きな生き物が生々しく屠畜されて,原型とは違う形でわたしたちはいただいているわけで。なんて表現したらいいかわからんけど,全て同じ命の重みやけどやっぱり訴えかけてくる力が違うから,だからなんかすごい。
差別についても向き合わなければならない。これは職人技。プロフェッショナル。 -
ノンフィクションかエッセイと思い込んでおり、注文して届いたら立派なモノクロの写真集であった
タイトルの通り、生きている家畜を屠殺し食肉にする屠殺場の写真集
現在はかなりの部分で機械化が進み、生き物の死を感じにくい環境となっているようであるが、本作は旧来の屠殺場での仕事風景を収めた写真集となっている
モノクロであるためギリギリ見ることが出来た気がする
熟練者たちは、消費者がウマイと思う肉となるように、その腕をふるい屠殺を行う
屠殺の腕がまずかったならば、きっとそれを食うものは「マズイ肉だなぁ」などと言うのだろう
そうだ、自分は肉を食べる、屠殺された肉を食べる、そんな当たり前のことを強く意識する
”牛の眉間に鉄の芯棒が突き出る鉄砲を毎日何十頭に打ち込むSさんは、蚊がたかっても決して叩かない
”手のひらで、そっと追い払うのだ
自然から遠ざかり都心で「文明」に囲まれて暮らしていると、命は、どこか遠いものになってしまう
偶然今読み進めている本の中で、戦後、GHQは日本の家制度を崩壊させるため、出産を自宅ではなく、病院で行うように政策を進めていったとあった
これまで、生と死に接する機会が最も多かった場所は病院だった
病院は人間の生死が生々しくある場所、と思っていたが、自分の用な一般的な人間が許容出来るレベルに生々しさを覆い隠しているのかもなと思った
私は自然の一部であることを忘れぬように、体に自然を彫っている者であるが、本作を開いて、すっかりそのことを忘れている自分に気づかされた
呆れたものだ
自分は何者かを忘れぬように、かさばるこの本作をブックオフすること無く手元に置き、時々開くことにする -
あたりまえだが、日々死と向き合うものがなければ、われわれは生きてはいない。この写真集と向き合うことで、わずかでもその、あたりまえの事実を、確認しておきたい。
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当たり前のように食卓に並ぶ「お肉」
当たり前だからこそ知っておきたい光景、世界。