- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622077541
作品紹介・あらすじ
芸術学・哲学を中心とした多木浩二(1928-2011)への評価は没後ますます高まっている。昨年には遺稿『トリノ』『視線とテクスト』も刊行された。「映像文化論」講義を編集し<br>て成った本書には著者の活動の軌跡と思考のすべてが凝縮されている。しかも今福龍太の導きによって、よりわかりやすく。ベンヤミン論、リーフェンシュタール論、プロヴォークの時代… 20世紀の芸術・哲学、戦後日本の文化、そして一人の思想家を知る最高の書。
感想・レビュー・書評
-
「いま」に生きている人、ある物、場所を、その表象からではなく、歴史的体積の上にある「歴史的存在」として捉え、出会う場、それを多田は「ヒストリカルフィールド」と呼んでいる。
ある「場所」の堆積(変遷)の上にある「現在」を、「イメージ」として捉えられた時、そこに「現在時」という特異な「場」が発生するのだと考えられる。
-----------------------------------------------------
以下引用
写真の視線が達するのは、「歴史」のなかには登場することのない歴史である
写真家は世界全体を再現しようなどとは考えない。彼は写真は断片である限り、価値があることを知っている
本当の哲学というものと哲学史というものを分けて考えるようになった
書き写す事と、コピーすることの大きな違い
写真そのものが「デノート」(明示的な意味を示す)しているわけです。そこには指示対象があるわけだから、それをキャプションに書いたって意味がない
写真のなかに写っていないことを書け(キャプションに)
時間をかけ、思考にも媒介され、多次元かされた経験に伴う知覚ー触覚的
触覚的な受容は、慣れ
建築が人間の知覚を根本的に変えていく歴史的な能力は、、
人目見て、理解できるようなものではないのです。何回も何回も見てゐるうちに、なんとなく感じて来るものがある、それが歴史性
人間が生きてきた歴史的知覚を獲得できるかどうか、に意味を置いていた
自分の気がつかない無意識をかえてくれる何かこそが重要なのです
人間がこうしたくつろいだ空間を経験するというのは、いったいどういうことなのでしょうか。これまでの公共空間は「文化的な経験を与えてあげるよ」といった顔をしています
多くの人たちは、芸術でも建築でも写真でも、最初から分かろうとしすぎます。そのうちに分かってってくるものなのです
這いあがってやろうとか、人を押しのけてでも名前を売り出してやろうとか、そんなことをしてもむだなのです。時間は経っていきます。
それは黙っていてもやがて浮かび上がってくるのです。
天才たちを知るにつけ、そんなことを焦ってやってみてもダメなのだと
その時代の思想を視覚的な世界の「かたち」のなかに求めた、そのかたちの発見が、「地方政治家」という仕事だった
★そのとき彼はただ海を眺めていたのではない。すでに長い間、この南海の島々の時間と空間に交わってきたのだ。その写真はこの交わりのなかに生じた瞬間であり、われわれが心を動かされるのは、長く複雑なその交わりと、瞬間の関係である。われわれにとっての写真の意味とは、イメージを言葉に翻訳したときに生じるものではなく、その写真が世界のイメージになるときに生じるのだ
★写真はたしかに人間や風景と撮影者の瞬間を関係を像として描き出します。先ほどの「地方政治家」における社会の「かたち」という言い方もそうですが、それは瞬間の形象のなかに圧縮されて像を結んだイメージということです
➡こういうことがやりたい。一断片(的言説)が全く歴史や現在を「イメージ」として顕現させてします、そういうものをつくりたい
この海の写真のなかに、沖縄とのあいだの長い継続的なつきあい、つまりある種の触覚的な歴史の凝縮された姿を、読み取った
心に浮びあがる瞬間的な都市の形象
➡近江のはまさに
★どうしてこんなあまりにもささやかな日常的な光景をそれほど凝った修辞で固めた言葉でもないこの文章が、ひとつの都市、そしてその背後にある歴史のようなものを、一瞬のうちに言い当ててしまうのか
(日暮れ時、女たちは大きな窯を持って三々五々市門の外の泉に水汲みにやってくる)
★イメージと歴史との交差が起こったのではないか
➡歴史的堆積の上にある現在の一風景の眼前(=心象)
イメージが歴史と詩的に交わる瞬間です。ある複雑な時間を抱え込んだ深い歴史と交わるということ
ベンヤミンは自分で饒舌に意味を語りません、なんでもない言葉をぽんと出しているだけなのです。
➡僕も最近はこっちに興味あるなぁ
★東松照明が何か沖縄で大変なものを見つけて、これこそ何かの象徴だといって撮っているのではまったくないのです。彼と沖縄とのあいだの長い長い触れ合いのなかであるときにふと空に浮かんだ雲、それに向かってシャッターを切ったときにはじめて歴史と深く結び合うことができたのです
★ヒストリカル・フィールド
ー深く長く交わっている時間の揺らぎや伸縮がある。つまりそれは単純な事件の連鎖としての歴史の連続性からは決して測ることができない時間の長さ
イメージとは説明するものでもなく、解釈するものでもなく、出現するものである。
エステティックなものによってこそ、彼は自身が捉えようとしている世界が感じ取れると、芸術家として直観していた
★そこにこそ、歴史がひとつのイメージとして像を結ぶ瞬間がある。無名の人々の、ささやかな、そしてときに痛ましい生の営みの断面に浮き彫りにされる、ヒストリカルフィールドの心象
➡歴史、というのは、運動体のようなものなのだと思う。環境や社会の推移、そこに生きる個人が知覚し、記憶しているところに、歴史があるんじゃないか
歴史から取り落とされ、零落れている瓦礫や破片を拾い集め、救済する
勝者の歴史が疎外してきた、人間の行為や残骸、そこから死者たちを目覚めさせる
瓦礫を凝視し続けるこの天使の可能性というものに、新しい歴史哲学の萌芽、歴史意識がある
しかしその文化的な活動こそ重要なのです
それらは私たちに状況を感じさせはしまう。しかし、それが戦争の実体であり、いまの世界の実体とは誰も思わない
カントは、日常的な些細なことをたくさん並べ、その背景にこそ人間存在の価値を見いだそうとした
日常生活をはぎとられたときに人間は、崩壊する
知識人は生命とか存在とかの意味を考えてしまうのです。しかしそれでは生き残れない。
★人間を構成しているのは、大変な思想であったり、芸術であったりするよりもまず日常生活なのです
芸術文化としての「クンスト」と、日常生活の技としてのそれを両方守り抜いていく
眼によってはとらえることのできない表象世界の深みに、「歴史の現在」を生きる人間の意味を見出す
自分が学ぶというのは、現実のこの日常から一歩も離れるものではない
「今」というものは、瓦礫のように積み上げられたまま忘却された因果を全て抱え込んでいる詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
多木浩二(今福龍太編)『映像の歴史哲学』みすず書房、読了。本書は札幌大学での集中講義を元にした「映像文化論」。建築・デザイン・映像を素材に権力と歴史の関係を活写した著者の密度の高い論集。著者の映像体験が参照される。初の映画体験はレニ・リーフェンシュタール「オリンピア」。
著者は「オリンピア」にみられる二面性を自覚したとき(圧倒的な映像美への感嘆とそれが作為だったこと)、その映像批判がはじまった…。時代の瞬間を切り取り、記録として残すということ。そこに作為なき自然など存在しない。
情報メディアとして映像に囲まれて生活する現代世界。その更新は比類なきスピードだ。しかし、その一葉だけが重大なのではない。その背景の、残らない息吹や所作が織りなす歴史に目を向けるべきでは。震災から1カ月後に著者は逝去。示唆的だ。
多木浩二『映像の歴史哲学』みすず書房。 http://www.msz.co.jp/news/topics/07754.html 「結果として、多木浩二というひとりの思想家の『生きられた全貌』、その生きた思考の動きが再現されたのではないかと思っている」。遺稿集『視線とテクスト』(青土社)と併せて読みたい。