人はどこまで合理的か 上

  • 草思社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794225894

感想・レビュー・書評

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  • 様々な事例が無駄なく本文と関係していて、数式ではなく概念で合理的意思決定を説明できている(と思った)。数式でない分、どこか「わかったつもり」なのかもしれないが、大変参考になる一冊。

  • 合理的であることって案外難しい事なんだなと。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/789760

  • 下巻にて

  • 有名人の本なので、ある程度期待していたが、中途半端。目新しい情報は無く、話の進め方も、特段上手いわけではない。ファースト&スローや、ゲームの理論の本を読んだ方がいい。

  • ベイス推論が大事ということなのだろう。理路整然としているものの退屈さを感じることも多かった。(特に後半)

  • 今回もピンカー節が炸裂してる。
    世の中おかしなことばかり起きて、フェイクニュースや陰謀論が溢れ、理知を欠いた妄言がはびこっている。
    人間の本性はひょっとしたら愚かで欠陥だらけで救いようのないポンコツなんじゃなかろうか、と。
    彼はこれに断固NOを表明する。
    これまであらゆる環境の中で人類が生きてこられたのは、優れた知性と合理性のおかげ。
    論理は人類が獲得した最高の知識の一つ。
    平均寿命は2倍以上になり、戦争や飢饉による死亡率は激減し、コロナだって数週間でゲノムを解読し、1年でワクチン投与を開始したじゃないか、と。

    だけどそう、悲しいかな我々は、非合理性も併せ持つ。
    それは、課題対象の問題だったり、認知的錯覚や推論の癖のせいだったり、数々の誤謬が関係している。
    合理性なんてカッコ悪い、理性に従ってたらツマラナイよという声には、こう反論する。
    合理的に生きるべきだし、理性の誤りは理性で正せばよい、と。
    あるいは理性から生まれてくる道徳によって。
    少しでも理性に反論し、合理性にイチャモンをつけようものならフルボッコで、「合理性は必要ない? その主張は合理的か?」とやり返され、議論の場に登場した時点で相手の死亡フラグが立つ始末。

    昔、池澤夏樹がエッセイで、訪れたレストランで料理が運ばれたとき、「○○になります」と言った店員に向かって、「待ってれば成るの?」と問い返したエピソードを紹介されていた。
    言葉の鬼だなと思ったが、ピンカーさんは論理の鬼で、コースメニューに「スープかサラダ」と書かれていたら、「それは論理学上は両方食べてもいいってことだ」と書いていて、ヒエッとなった。

    人が論理的になる課題は、「特権と義務の監視」で、「生きるうえでなすべきこと、なすべきでないこと」にかかわるルールであれば、人はもっと論理を働かせようとする。
    誰が特権を享受しているのか、誰がズルをしているのかには目ざとく頭を働かせるが、意味のないシンボルやマークでは頭の中で素通りしてしまう。

    最も面白いのはやはり、「モンティ・ホール」問題。

    閉じられたドアが3つ、あなたの前に並んでいる。
    1つのドアの後ろには特別賞の高級車が、それ以外のドアには残念賞のヤギが隠されている。
    あなたはドアを1つを選ぶ。
    開ければ自分のものだ。
    ここで司会者が、残りの2つのドアのうち、1つを開けてヤギを見せる。
    そして、最初にあなたが選んだドアを変えてもよいと言う。
    さぁ、あなたは選び直しますか?

    自分もそうだが、他の多くの人々が選び直しをせず、間違ってしまう。
    なぜ私たちの直観は誤った結論に辿り着いてしまうのか?
    脳はそもそも、確率の問題を得意としていない。
    確率の問題を苦手とする一方で、因果関係の問題は得意としている。
    我々は幼いときから、相関関係の中に因果関係を見つけることに慣れている。
    後を走る車が、自分と同じように角を曲がっていれば、後をつけられているか、目的地が同じと思い込む。
    実はまったくの偶然なのに。
    私たちの認知機能には癖があり、それを利用され騙される。
    目の錯覚や奇術と同じレベル。

    私たちの脳は、原因のない相関関係をうまく理解できるようにはできていない。
    この場合、「出場者のドア選択」と「新車の位置」の間には直接的な因果関係はない。
    そのため、両者に確率的な関連があることをまったく不可解なことに感じてしまう。
    残っているドアは2つだけ。
    最初のドアは完全にランダムに選択しているのだから、車がドアのうしろに隠れている確率は、どちらを選ぼうが半々で変わりはないはず。
    だから最初に選んだドアを変えようとしない。
    司会者に騙されているという疑念もあるけど、脳が勝算は五分五分だと告げている。

    これは二者択一の問題で、確率は五分五分で等しいと、なぜ考えてしまうのか?
    一方にはヤギが隠され、もう一方には車が隠されている。
    勝算は五分五分のはずじゃないか、と。
    しかしそうではない。
    なぜなら司会者は、あなたの選んだドアを条件にして行動するからだ。
    それと司会者は、あらかじめ車が置かれていないとわかっているドアを開ける。
    「司会者のドア選択」に対して、「出場者のドア選択」と「新車の位置」は影響を与えている。
    司会者が開けることができるのは、出場者が選択したドアでもなければ、新車が置かれたドアでもないものだ。

    司会者が車の隠されているドアを開けることは、絶対にない。
    ある事象がすでに起こったという条件のもとで、別の事象が起こるような「条件付き確率」は、私たちの直感に反している。
    なぜ出場者は、ドア1からドア2に選択を変えることで、車が手に入る確率が3分の1から3分の2に上がるのか?

    どうしても納得がいかなければ、司会者の視点に立って考えてみればわかりやすい。
    重要なのは、司会者は決してドア1を開けられないということだ。
    出場者がすでにドア1を選んでしまっているからだ。
    だが、司会者はドア3ではなく2を開くこともできたはずだ。
    にもかかわらず、彼がドア2ではなく3を開いたという事実は、ドア3を開くしかなかったからだ。
    彼がドア3を開けば、開く前とは違い、ドア2の後ろに新車が置かれている可能性は高くならないか?

    情報をどのようにして得たかは、情報そのものと同じくらい重要で、データ(司会者がどのドアを開けたか)だけでなく、そのデータが生成された過程、つまりゲームのルールを考慮することはとりわけ重要だ。
    当然、ゲームのルールを変更すれば、結論も変わる。

    ピンカーは指摘しなかったが、「司会者のドア選択」がランダムであった場合には、ドアの選択を変えるメリットは全くなくなる。
    司会者が、車が隠されていようがいまいがお構いなしにドアを開けるとしたら、ルールは変わってくる。
    それと司会者は毎回、選び直しを勧めるのか、というのも重要なポイント。
    常に選び直す機会を与えるのか?
    出場者の選んだドアに車が隠れている時のみ、司会者は選び直しを勧めるのか?
    それによっても条件も異なる。

    ピンカーは、人間が愚かなのではない、推論の癖によって非合理的になっているだけだと語る。
    頭の中にあるのは、確率ではなく因果関係。
    確率を傾向と混同しやすいというのも認知の弱点。
    確率は、物理的な傾向性だけではなく、物理的な実体のない知識やヒントによっても変わりうる。
    この場合、物理的傾向とは「車がすでにドアの1つのうしろに隠されていて動かせない」という事実で、知識とは「司会者があらかじめ新車が置かれていないとわかっているドアを開ける」という提供情報のこと。

    我々は、ルーレットで赤が続けば次は黒が出る確率が上がると思い込むし、打率3割以上のバッターがその日3打席で凡退してれば次は打ちそうだと期待する。
    これは頭の中に描き出された因果連鎖がもたらす錯覚で、この問題の場合では、1台の車と2頭のヤギは最初からドアの向こうに配置されていて、あちこち動いたりしない。
    それは、ドアが1つ開いたからといって、変わらない。
    だから、確率は五分五分のままだと。

    確率確率と言うが、我々は気象予報の降水確率さえ、本当に理解しているか怪しいものだ。
    降水確率は単に「雨の降りやすさ」を伝えているだけで、降水量や降水時間を表しているものではない。
    「降水確率10%だから降っても小雨程度だろう」とか「80%だから土砂降りに違いない」は間違いだ。

    このように直感確率は想像可能性に左右されるので、思い浮かべやすいものほど確からしく思えてしまう。
    想像を掻き立てるのであれば、ディテールは細かければ細かいほど真実らしく思えてくる。
    例えば抽象的な、「A」の確率は「AかつB」の確率より大きい、というのは正しく認識できても、具体的な事例になるとその逆だと思ってしまう。
    確率の基本原則から言えば、単文の事象が起こる確率の方が、複文の事象が起こる確率より大きくなる。
    だけど単文は抽象的で流れていきやすいのか、複文の方が鮮明な印象を与え、物語風になればさらに残りやすい。

    確率の法則から言えば、「憶測を追加すればするほどシナリオが真である可能性は低くなるが、弁論においては逆に、説明を追加すればするほどシナリオの説得力が増していく」。
    個々の事象の相関を因果的に捉え陥る誤謬もあれば、それぞれの事象が独立していると誤解する場合に起こる誤謬もある。
    一連の出来事が連続したからといって、それぞれの事象が独立しているかどうかの考慮を忘れれば大失敗となる。
    独立していれば、それぞれの確率の積を計算すればいいが、別々だと思っていた事象が実は1つの事象だったなら、かけ算では答えが出せない。

  • トランプ勝利、コロナ禍で現代の非合理が問題とされるなか、そもそも人間は「合理的」に考え、生きられるのかを探求する書。著者の博識と、身近な事柄を意識的に使った実例によって解説する。
    ただこの上巻は論理学を使った人間の思想と行動の合理可能性分析になっているので、やや退屈である(だがこれは後半部分を語る上で、必要な前提ではある)。

    「時には葉巻は葉巻に過ぎない」フロイトが何でも性に結びつける(特に棒状のものは男根の象徴にしたがる)と言われた時の言葉。つまり論理学A=Bなどの論理方程式は、現実のあらゆる会話解釈に適用するのはナンセンス136

    以前の社会では、理論的で冷静な言論が大切にされていた。特に学界やジャーナリズムにおいて。そこでは「人身攻撃論法(誰々の意見だから正しくない)」「発生論の誤謬(このデータのソース記事が掲載された雑誌は、人種差別団体が助成している。従ってこのデータは誤り)」「感情の誤謬(不快な意見だから聞く耳を持たない/遺族の気持ちを考えれば、この意見を否定すべきではない)」というバイアスにとても注意が払われていた。
    ところが現在は、この3つがあらゆる言論で幅を利かせている。ここから読み取れるのは、人々の間で信念というものの概念が変化してきているのだ。すなわち、ある考えが真実か偽りかという判断を離れ、個人の道徳、社会正義、政治的大義、文化アイデンティティーの表現として変化している。これは、学者や評論家(美術作家もそうかも)が自分の仕事をどうとらえるのかにも働いている156

    19世紀まで人類は世界の全てが概念として分類できると考えていた。これによって世の中のあらゆる問題が解決出来ると。しかし概念を追求すると、世の中の身近なものまで分類不可能なものだと解ってきた。アメリカでは、SUVは「トラック」に分類された(車両がトラック扱いだと安全や排ガス基準がゆるい)。ピザは「野菜」だと連邦議会で採決された。170

    生活で確率を用いるときは何事も「ベイズ推論」を用いて判断すべき。ベイズ推論は、ある事柄がこの世で真である確率の推定243

    「~間違いだった?」「常識を覆す~」「新進気鋭の若手が~」「~革命」と銘打った記事や本のタイトルのものはベイズ推論の「事前確率」が低い(信頼度が低い)ものである。これらはほとんど間違った推論で成り立っているので再現性が無い(つまり似非科学)。最近はジャーナリストはおろか加害者もこのようなものを追いかける261

    しかし何かの目的会得は、ベイズ推論を金科玉条にそのまま使うことでは達成できない(収入率、婚姻率、犯罪率、などを人種や性別で分類すると、そこに必ず差が見いだせる。これを素直に社会で使用すること)。例えば、火災保険会社の重役が保険料の見直しのため、各地域の火災率を調べて保険料を設定した。これは問題にならなかったが、そこに各地域の人種構成を当てはめたら、周りから非難された。ここで判るのは「保険料の試算だけが目的」ならば上の人種構成当てはめを用いるのが正解。しかし目的はそれだけではないはずである。保険会社重役のもうひとつの目的は「人々から信頼される会社たる」ことである。「人種で扱いを換えたり、偏見をもたれ公平性のない会社」は信頼されないからだ。265

    ↑は公的機関や政治の分野て特に適用されるべき。したがって、そのときの予測精度が少々落ちることより、不公平のサイクルを止めることを優先させるべき。しかしこれを社会科学やジャーナリズムの分析にまで適用するのはいけない。そうすれぱ、そもそも差別や不公平の原因を分析することが出来なくなる265

    神がサイコロを振っているような世界に生きている以上、多くの人がベイズ推論を身につけることが公共の利益になる。またこれは教育の優先課題でなければならない275

  • 行動経済学の人がどこまで不条理に働くかを書いています。ベイズ推論がわかりやすい。

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著者プロフィール

スティーブン・ピンカー(Steven Pinker)
ハーバード大学心理学教授。スタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学でも教鞭をとっている。認知科学者、実験心理学者として視覚認知、心理言語学、人間関係について研究している。進化心理学の第一人者。主著に『言語を生みだす本能』、『心の仕組み』、『人間の本性を考える』、『思考する言語』(以上NHKブックス)、『暴力の人類史』(青土社)、『人はどこまで合理的か』(草思社)などがある。その研究と教育の業績、ならびに著書により、数々の受賞歴がある。米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」、フォーリンポリシー誌の「知識人トップ100人」、ヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。米国科学アカデミー会員。

「2023年 『文庫 21世紀の啓蒙 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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