- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784862380685
作品紹介・あらすじ
意味もよくわからないのになぜかグッとくる。哲学者の書くとぎすまされた言葉には、歌舞伎役者の切る「見得」にも似た魅力がある。かたや大阪大学総長にして臨床哲学者、かたやフリーライター、肩書きにちがいはあれど、ともに哲学にとことんイカれた2人が、キェルケゴール、デカルト、カントから、ニーチェ、サルトル、メルロ=ポンティまで、古今東西の哲学者23人の「グッとくる一言」を題材に、哲学の魅力、おもしろさ、アブなさを語りつくす。ときにはんなりとやわらかく、ときに熱く繰り広げられる、極上哲学漫談。
感想・レビュー・書評
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ベテラン・ライター永江朗と、哲学者・鷲田清一の対談集である。永江が「生徒」となって、鷲田から月イチで受けた「哲学個人授業」という体裁をとっている。月刊誌『ミーツ・リージョナル』連載の単行本化だ。
プラトンからメルロ=ポンティまで、古今東西の哲学者23人(「東」は日本の西田幾多郎、九鬼周造のみ)を取り上げ、それぞれの思想的特色を1人1回で解説していく「哲学入門」である。
俎上に載る哲学者の代表的著作から「グッとくる一言」(副題にいう「殺し文句」)をピックアップし、そのフレーズを手がかりに対話を進める、というスタイルをとっている。
ただし、本のそでに「極上哲学漫談」という惹句があるとおり、知的な笑いに満ちた内容となっており、凡百の堅苦しい「哲学入門」とは一線を画している。たとえば、次のような具合だ。
《鷲田 二十世紀の哲学が、その媒体である言語についてばっかり語り出したから、急に哲学離れが起こってきた。「読んだけど、人生については何も書いてなかったよ」とかね。
永江 ははは。わかります。哲学を人生相談と混同している人は多い。
鷲田 生き方を求めてフッサールを読んだのに、『論理学研究』には生き方について書いていないじゃないか、とか。
永江 そりゃそうですよね、『ビッグトゥモロー』じゃあるまいし。
鷲田 二○世紀の哲学者は、世界についてじかに語らなくなった。媒体についてばかり語る。あるいは世界を媒体のしくみの問題に還元してしまう。》
くだけた語り口ではあるものの、その中には目からウロコの知見やずばりと本質をつく卓見がちりばめられている。たとえば――。
《永江 前から気になってたんですけど、考えるということと、疑うということとは、別のことですか。
鷲田 同じやと思う。
永江 つまり、考えるということは、疑うことである。だけど私たちは、「考えます」っていうとき、ちゃんと疑っているかなあ?》
《鷲田 カントとマルキ・ド・サドはだいたい同じ年なんですよ。そこでしばしば、「カントとサドは意外と近いんとちがうか?」っていわれる。
永江 イメージは正反対だけど。
鷲田 まるで機械のように理性に従うカント、機械のように欲望に従うサド。その違いしかないんやないか。カントが純粋理性批判ならサドは純粋感覚批判やね。
永江 サドとカントは兄弟! サドのような反道徳的な人がいないと、カントの道徳も立つ瀬がない。サドとカントは共存共栄ですね。》
難解な哲学を、軽やかな「漫談」にブレイクダウンしていく両著者の知的咀嚼力はすごい。取り上げる哲学者の思想の本質をつかんでいなければできない芸当なのだから……。
「哲学を(もう一度)学んでみようかなあ」と思っている人に、“楽しそうで入りやすい入り口”を提供する良質の入門書。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「殺し文句から入る」という副題にやられました。
哲学からは、逃げて逃げて逃げまくっている私。でも、そろそろ哲学の世界に足を踏み入れなければ・・・と思い手に取ったのがこの本。
最初、哲学者の有名な本からの抜粋があり、そのあと鷲田サンと永江サンの対談形式でコメントがある。
抜粋部分は、読んでも全く頭に入ってこないものが大半。
でも、次のページをめくって、二人のコメントを見ると安心します。だって、「よくわからん」て書いてあるんですものw -
231124-3-7
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f.2008/7/2
p.2008/2/5 -
思索
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毎回1人の哲学者の書籍から気になる言葉とその前後の文を抜粋して、それについて議論する進み方。ただ、哲学者の基本的な考え方を理解してないと難しい本かなと感じた。正直けっこうわからなかった。
以下、気になった部分をいくつかまとめておく。
オルテガの「哲学は自己自身の存在を疑うことから始まり〜」
あらゆる前提を疑い、確実だと思って立っている場所さえも掘り起こすことが大事、これはソクラテスの無知の知と同じ思想で、「考えることとは疑うこと」であると。オルテガの述べる「大衆」とは、自分に知らないことがないと思いこんでいる人たちのことで、つまり考えるのをやめた人たち。
現象学の祖、フッサールの「はじめにあるのは無言の経験であり、それが固有の意味をもった表現へともたらされなければならない」というのは、モノづくりに関わる立場としてはハッとした。ものは言葉以前にすでに存在しうるわけではなくて、それに特定の記述や表現をあたえなければいけない、というのは勿論正解はわからないが最適な伝え方や表現を模索しつづけることでしかその事物は事物となりえないのだろうな。
ヘーゲルの「法の哲学」の所有の考え方は何かシェアリングエコノミーを紐解くヒントがあるような気がした。所有とはただ持っていると思っているだけでは成り立たず、他者もそれを了解したときに主体として向き合える。所有=主体になる、と説くのであれば所有を手放しつつある現代は主体を棄てているといえるのだろうか?でもここでいう所有は失うことを前提にしているために、それとはまた違ったニュアンスなのか。
ニーチェの道徳の概念における、「奴隷の道徳」と「主人の道徳」はおもしろい。前者は見返りをもとめ、後者は自分が気持ちいいからやるという贈与。ただ後者も自分の行為に対する悦に浸るという意味では見返りを求めているといえる。
そこから派生して、サービスの語形に近しいサーヴァント=奴隷、という関連。サービスを提供するとは奴隷に成ることなのだと介護を例に本書では述べられていて、距離感が重要と説かれている。介護において「かけがえのないもの」になってはいけないと。これは対クライアントにもいえるし、対ユーザーにも言える。ユーザーの奴隷になってはいけないのだと。
そしてかなり考え方にピンときたのがレヴィナス
レヴィナスの章は内田樹さんが解釈を説いているのだけど、自分が何者かわからないルールも共有できず理解できない人間とぶつかりあい、共生していく際にどうするのか?という部分。そのような異質に相対したときに始めて自己も立ち現れる。
ただそれには不快が伴うのであろうというのは容易に想像できて、でもその不快感もいってしまえば自分のフレームの中での不快感で、他者にとっては快なのかもしれない。
これの部分にはため息がでた。理解できないものをどう理解して自分の世界と相手の世界を両方ふくんだ世界にたどり着けるか、そうすることで人間として成長するのだろうなー。 -
23人の哲学者の言葉を引用し、それについて二人が対談するという形式。哲学の言葉そのものは理解が難しいが、対談によってなんとなく見えてくる。分からないけど面白いという感覚を味わえる。鷲田による、各哲学者の著書の紹介があり、何から読んだらよいかを教えてくれる。内田樹も参加している。
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哲学の仕事とは、疑似問題に、それは問題ではない、とはっきり言ってあげること。
社会はその時の基本的形態と現れる。
我々の研究は商品の分析から始まる。
ニーチェの場合は、必然的の根拠があるというのは幻想である。 -
13/03/23、ブックオフで購入。
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紹介されている哲学書をあれもこれも読んでみたくなる。