雨月物語 [DVD]

監督 : 溝口健二 
出演 : 京マチ子.水戸光子.田中絹代.森雅之.小沢栄太郎.青山杉作.羅門光三郎.香川良介.上田吉二郎.毛利菊枝 
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  • / ISBN・EAN: 4582297250482

感想・レビュー・書評

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  • 先日読んだ「ミス・サンシャイン」で前半部を占めていたのは昭和初期の映画界の話だった。架空の監督や作品が並び、どれが実在したものなのか分からなくなるほど網羅されていた。その頃の映画を全く知らない私の脳裏に浮かんだのは京マチ子さんが出演している「雨月物語」だ。鈴さんは当時活躍した女優さんたちを総括して出来上がったキャラクターだろう。鈴さんの正式名称は「和楽京子」でもある。死霊・若狭姫を演じた京マチ子の怪しい魅力、田中絹代の母性、水戸光子のたくましい女の迫力に圧倒されたのだった。
    そこで7年前に観た感想を紐解いてみることにした。

    やはり名作でした!
    夢を追う(見る)男と質素でも堅実な生活を求める女たちの物語ー。
    江戸時代後期に上田秋成が書いた原作を1953年(昭和28年)に映画化。死霊・若狭姫を演じた京マチ子の怪しい魅力、田中絹代の母性、水戸光子のたくましい女の迫力は一見に値します 。
    霧たちこめる琵琶湖に舟を漕ぐシーンは幻想的、舞台となる長浜の武家屋敷に夜が近づき、屋敷の侍女たちが通路や部屋に明かりを灯していく場面などは王朝絵巻物を観ているようでした。若狭の着ている織物の手触りや色彩が想像でき、白黒でも充分色彩が感じられるものなのだと発見です。
    宮木(田中絹代)の現実的なシーンから、京マチ子演じる物の怪の世界が対比されるように描かれていますが、このふたつの情念が溶け合うような結末が用意されていました。
    死んでも夫を待ち続けた宮木の亡霊は不憫でした。
    原作にある一首は ”さりともと思ふ心にはかられて 世にもけふまで生ける命か”。(それにしても、夫がもうすぐ帰ってくるだろうと思う自分の心にだまされて、よくもまあ、今日まで生きてきたことです)。
    憂いを抱えた表情で繕い物をしている宮木に比し、妻が待っていたと信じて寝入ってしまう源十郎。家族の元へと帰ると決心した源十郎に若狭が言います。「男にとっては一夜の過ちでも、女にとっては違うのだ」。迫力ありました、このセリフ!
    子供(源市)を背負った宮木が野武士に襲われるシーンも見応え充分。
    いつ刺されたか分からないぐらいの槍の一刺し。野武士は子供をおぶっている背までは届かないようにいちおう慮っています。
    (野武士) おい、食らうものをくれ。のう。
    (宮木) 無理です、そんな。
    (野武士) おお、おお、あった。あった。
    (宮木) これは、これは子どもの食べ物でございます。どうぞ、許してください。
    (野武士) どけ。のけ。殿、殿ありました。
    宮木がよろよろと倒れ込む向こう側に、彼女を刺した野武士たちが取り上げた食料を食っていました。同じカットの中で生と死を同時に見せるのはさすがです。
    阿浜がレイプされるシーンは泥田に草履を残したまま。それで充分伝わります、現代のようにこと細かく撮るのは悪趣味と云うもの。
    阿浜と藤兵衛夫婦が村へ戻り畑を耕す生活を再開することで希望も描かれていました。ラストで子供が母・宮木に手を合わせているシーンにも救いがありました。

    撮影は『鍵』を撮影した宮川一夫です。ちょうど新聞で読んだばかりだったのでタイムリーでした。
    (2015.11.29 記)

    • 淳水堂さん
      しずくさん こんにちは。

      雨月物語私も見たことあります。
      溝口監督すごいですよねーー。

      日本の怪談で「残した女がそのままの姿で...
      しずくさん こんにちは。

      雨月物語私も見たことあります。
      溝口監督すごいですよねーー。

      日本の怪談で「残した女がそのままの姿で待っている」場合は亡霊となり鳥こそされる印象だったのですが、この映画ではすべてを乗り越えて今は心の平穏を取り戻して先の希望も見えるような素晴らしいラストでした。
      2022/06/02
    • しずくさん
      雨月物語は幽霊になり親友に会いに行くという「菊花の約」しか知りませんでしたから、本作は意外だったのを覚えています。第13回ヴェネツィア国際映...
      雨月物語は幽霊になり親友に会いに行くという「菊花の約」しか知りませんでしたから、本作は意外だったのを覚えています。第13回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞し、世界的評価も高い!「世界の黒沢」の以前にも素晴らしい監督や俳優たちがいて、受け継がれていったのでしょう。

      2022/06/03
  • 大人版の日本昔ばなしだね。

  • 再々々鑑賞だろうか。

    その全てが銀幕での鑑賞であったということに幸運を切に感じる今日このごろ。今回は翌週から始まる宮川一夫を主軸に備えた大規模な映画祭の序章、Japan SocietyのMonthly Classicsの1本として上映と相成った次第。デジタル4Kレストア版ということで映像美は抜群、ただ部分的に出ていたスピーカーからのハイピッチノイズが若干の減点を誘う。(劇場側の問題)

    1953年の作品、溝口健二監督としては52〜54年のヴェネツィア国際映画祭3年連続受賞となる真ん中の作品にあたる。鑑賞も三度目となると目(や耳)のつけどころがいろいろとおかしくなってくる。

    最初に挙げるのは耳の方。

    本作の音色を司る早坂文雄という音楽家についてはまだまだ映画を通してしか知らないわけであるが、ひと昔前の「七人の侍」(1954) しか結び付けられなかった自分からするとずいぶんと裾野が広がったように感じる。55年、41歳と早世した彼の映画音楽作品群を眺めても49年から後の作品だけでも十本以上は鑑賞させてもらったことになる。劇中にふんだんに散りばめられた琴、小鼓、笙といった和楽器の音に加え、時にハープなんかも交えたりするその技の多彩さに惚れ惚れとしながら、彼の偉業はその愛弟子の佐藤勝に引き継がれ、直接の弟子ではなかった武満徹にも少なからぬ影響を与えていたのだなぁ…と想いを巡らすとつい映画の本筋から離れていってしまいそうになる。

    次は地理。

    設定が戦国時代の北近江になっていることは初回鑑賞時からの萌え要素ではあったのだが、その中で「朽木屋敷」という名称がどうにも引っかかっていた。朽木という地名は本来琵琶湖の西岸に位置するわけで北近江と呼ぶには…といぶかしがっていたのだが、今回の鑑賞を通してその謎は解き明かされることになった。台詞の中で聞き取れていなかったのは「大溝」という地名で、これが現在の高島辺りにあった城下町ということが鑑賞後の調べではっきりすると「そうか、源十郎の夢物語は西岸での話だったのだ!」という結論にいたり先程の「朽木」というひっかかりも霧消する。そしてきっと書き手もこの「朽木」という字面に惹かれ、なんとかそこに話を持っていきたかったのではないか…とも夢想する。

    最後は場面転換の手法。

    源十郎が朽木屋敷に連れて行かれるシーンにおいては、どの時点で破れ障子が入れ替わるのかに注目していたのだが、他にも忘れかけていたもしくは注意を払っていなかった場面転換の手法がたくさんあった。ひとつは順にともる灯籠の火とともに人の気配が戻ってくる場面、ひとつは温泉の湯が湖岸の浜へと移り変わる場面、ひとつは感情と共に移り変わる能面、ひとつは長回しから元の場所に戻って登場人物が現れる場面…と枚挙に暇なし。これらの場面への思いの強さの多くは、鑑賞後に徘徊してたどり着いた、当時の助監督を務められていた宮嶋八蔵氏の回顧録を読むことによってさらに強められた次第。照明岡本健一とカメラ宮川一夫のペアは抜群だったそうで、灯籠や行灯のともりかたは裏の苦労と技を考えるとそれだけでおかわり数杯いけそうな気もしてくる。

    宮嶋氏の記録には先程の地理に関する部分についてもいろいろと記載されており「源十郎と若狭が戯れる浜の撮影は今の唐崎辺り、『わかもと』の社長の別荘地にて。」と言い切ってくれたりすると「地元萌え度」が確実にアップしてしまう。唐崎も西岸には違いないんで(笑)


    さて。

    この今週はFilm Forumにて1954「近松物語」(1954) と「山椒大夫」(1954) が上映中。この宮嶋氏の記述を読んでしまったからには…

    行ってしまうのだろうなぁ(苦笑)

  • 江戸時代後期に上田秋成が書いた読本「雨月物語」を翻案に、人間の欲望の愚かさと虚しさを、骨太な構成でありながらも、卓越したカメラワークに支えられた墨絵のような美しく風情ある映像でとても繊細に描いた溝口健二監督の代表作。

    戦国の時代。
    戦争特需による商売で一気に儲けたことから危険を顧みず次の欲を出す源十郎と、親子三人のささやかな幸せを願っていただけの妻の宮木。
    貧農なのに武士になって出世したいと欲を出した藤兵衛と、そんな彼を止められずに捨てられたも同然になってしまった阿浜。

    どちらも、肥大する欲望に取り憑かれて家族を無視して突き進んだ夫と、そんな夫によって結果的に悲惨な世界に足を踏み入れることになった妻という点では同じ。
    そしてその結末はというと…。

    二組の夫婦の姿を通じて描く人間の欲望の果てと戦争の惨さは、略奪、強姦、殺害…と、あまりに生々しい暴力に満ちていて、恐怖に身震いさせられてしまう。
    これだけだったら、あまりに辛くて、もう二度と観たくないと思ったかもしれない。

    でも、映像構成の緻密さと、本家の持つ怪談話の要素を活用した妖しい魅力、そして、妻の健気な愛情による最後の切なさが、哀しくも美しい余韻となって、じんわりと胸に迫ってくる。

    映像の要ともいえる、カメラマンの宮川一夫氏による見事なカメラワークは本当に必見。
    全体に通じる薄墨の美しさはもちろんのこと。
    特に、序盤の、霧と光に飾られた波の豊かな質感と、終盤の、室内に妻を見出す場面のいかにも怪奇的かつ劇的な様は、声を上げてしまうぐらいの見事さでした。

    「美しい幻影と厳しい現実を背景に、巨匠溝口健二が情熱を傾けて描き尽くす生々しい人間の姿」
    公開当時の予告編の大胆なナレーションに全く負けていない、骨太なのにとても繊細で美しい見事な作品です。

    まさに、日本映画史に残る名作ですね。

  • 映画が視線の芸術だとするなら、和服をまとった女性が舞踊しつつシナをつくる様は、映像表象にうってつけだと思いました。女幽霊の恐ろしさといったらありません。

    白黒映画だからなのか、構図がいちいち際立って見え、美しい。特に川を舟で下るシーン。霧にけむるなかを水音鳴らしつつ舟が行き、船頭唄が流れる。
    一点に固定したカメラの首を振って撮るようなショットが多く、あまりカメラが動かないので安心して観ていられました。

    二組の夫婦を対照化。妻を忘れた夫には厳しい結末が。馬鹿なりに妻を愛していた夫には安らかな結末が。役者に必要なのは演技力じゃなく存在感じゃないかなんて思っているんですけれど、これはそれに当てはまる映画だと思う。

    上田秋成の原作とはやはり異なるストーリーなんですね。次は読んでみたいです。

  • 戦国時代に焼き物を作って生活をしているところにまず興味を惹かれました。怪しげな女から焼き物の注文を受けて届けに行ったら…というオチが見え見えの物語が展開しますが、そのオチが二段構えになっており、思わず「上手いなぁ」と呟いてしまいました。

    また、武士になりたくて妻を置いて家を飛び出す一人の百姓の姿が並行して描かれます。この欲に憑りつかれた男たちは、やがて身の程を知って、元の家に帰ってくるわけですが、妻たちが温かく迎えるのです。そして再び家業に精を入れて働き始める。怪談でありながら、教訓に富み、かつ心温まる結末を迎えるという、非常に優れた物語でした。

  • 何度見ても見飽きない。これ見よがしのカメラワークなど皆無。だけど、一部のすきもない。こんな落ち着いて、洗練された映画、いまの監督には撮れないだろうな。我がでてくるやろ。女優陣の演技が素晴らしい。オーバーな芝居がかったところ名で微塵もない。引き締まった無駄のない映画。

  • 最後のシーン、死人によるナレーションが、斬新。「残念ながら私はもう人間ではなくなっているんだけど」みたいなかんじで。

  • なによりも一番大事なのは何かを痛切に描いた映画だった
    見終わった時、背筋がぞぞっと寒かった

    わかりやすく出世と金に目がくらんでいく兄弟が
    運よく出世しても
    妖しい女より本当は愛する家族の方が大事だと気づいても
    その時には、もうすでに遅い……
    というシナリオがすごく心に痛くて響く

    なんとか元の生活に戻っても奥さんだけがいないのが悲しい
    それでも息子がいい子に育っていこうとしているのが、せめてもの幸せ
    という結末にも涙だった

    それにしても兄を惑わす妖しい女の京マチ子が、まるで能面のような妖艶な顔だったのが印象的だった

  • 「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」でお馴染み溝口健二の代表作。幽玄。何故海外で評価されたのかはまだよくわからない。

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