はみだしの人類学 ともに生きる方法 NHK出版 学びのきほん [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 電子書籍で299円まで降りてきたのでポチ。ずっと読みたい本だった。好きな分野ということもあるけど、2020年現在、著者は岡山大学文学部准教授なのだそうだ。どんな人なのか知っておきたい。

    あゝとっても聡明でやさしくて、共感できる思考を持った人だった。講演会に呼びたい。

    文化人類学専攻といっても、上橋菜穂子もそうだったけど、学生の最初のフィールドワークは日本国内である。お金ないのだから当然ですね。公民館に合宿して自炊しながら島根半島の村人の話を聞く中で、専門書の記述とは全然視点の違う生きた民俗が見えてくる。その体験は2週間以上の調査をしないと、なかなか実感できないものかもしれない。と、私的体験から思う。そして著者は次はエチオピアに行く。

    「わたし」と思っている個人が、実はまざまな見方によって、さまざまに見えてくることを発見する。

    文化人類学を突き詰めることで「わたしとは何か」「日本人とは何か」「人間とは何か」がいったん分解されて、再構成されて、それを表現することができるようになる、簡単に言えば、そんなことを松村さんは書いているように思う←要約し過ぎだろうか?では、もう少し具体的に述べる。

    学生のとき、教養学部民俗学の講師に誘われて民俗学のサークルに入った。祭りの当人制が細々と続いているK村で、2週間合宿して村人から世間話に似た聴き取りをしていった。ふと「あの家は狐憑きの家でね‥‥」という言葉が出てきた時の驚きは忘れない。近代化された日本で、まだその「信仰?」が生きていたことに心底驚いた。人は、状況によってさまざまな「わたし」に分かれる。人と人とのつながりには、人と対立して「わたし」が際立つつながりもあれば、人と溶け合って「わたし」がわかり変わるつながりもある。それは、同時に所属していた新聞サークルでの取材行為でも同じような事を、(いま考えれば)感じていたのであった。

    この簡単な入門書では、戦争を始めた「人類」の分析にまでは辿り着いてはないけど、考古学にせよ、民俗学にせよ、人類学にせよ、日本史学にせよ、近代日本思想史にせよ、わたしの関心は、いつも「未来の平和」に向かっている。いつかそれが、人類学のように立体的構造的に言葉にできる日は来るのだろうか。

  • NHK出版 学びのきほん の「はみだしの人類学」松村 圭一郎著、読了。

    文化人類学者である著者が、文化人類学という学問で得られた知見から、私たちが生きるための人とのつながりについていろいろな気づきを与えてくれる本でした。

    文化人類学とは?

    Wikipediaによると、

    「文化人類学は、人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野である。」

    とのこと。本書では、

    「文化人類学は、一九世紀末から二十世紀前半にかけてヨーロッパやアメリカで確立された学問です。
     大航海時代を経て、西洋諸国がアジアなどを植民地にするようになった時代に生まれた。なぜ人類にはこれほど多様な文化があるのか? その差異はどのように生じたのか? 異なる他者とどういう関係を築けば良いのか? いずれもブローバル化が進む現代の世界で、今なお考えなければならない重要な問いばかりです。」

    と書かれていました。

    文化人類学の始まりは、西洋諸国(当時の覇権国)が、植民地や植民地化しようとしている土地の文化を研究する、というものであったと。

    「文化を知ってその国を知ろう」というのは良いことのように見えるけれど、その考え方の中には「相手国は自国とは異質なものである」と、逆に「明確な境界線を引く」行為でもある。「相手国を知ろう」という行為を通じて「自国の特徴を強化する」行為でもある、と。

    人間関係でも同じことが言えるのではないか、とこの本では考察を進めていました。

    例えばとある女子大生がいたとして、その「わたし」という人間は、「日本人」でもあり、両親の「子」でもあり、「女」でもあり、「学生」でもあり、塾の「先生」でもあり、「アジア人」でもあり、「仏教徒」でもある。

    確固たる「わたし」があるのではなく、他の人との関わりによって「わたし」は形作られている。親の前では「子」であり、教授の前では「生徒」であり、世界に出れば「アジア人」であり「日本人」である、と。

    なるほど、確かに。「わたし」を「わたし」たらしめているのは、わたしの周りの環境なのだと。そして、その環境は変化するし、カテゴリーが増えれば形も変わる。

    文化人類学は変化してきた。
    最初は、「固定的な民族というカテゴリーに注目して、そこに固有の文化がある」と考える見方。そして、「民族は、無数にある人間関係のカテゴリーのひとつにすぎない」という考え方に変化してきた。

    1つのカテゴリーだけの視点で見るからこそ「争い」が起きる。
    複数のカテゴリーで見る視点を持てば、違うところもあり、同じところもあり、「はみだす」ことによって共鳴できるところはある。


    2023年11月現在。世界はなんだかキナ臭い状況になっている。
    1つのカテゴリでいがみあっている。本当はみんな同じ地球人なのに。
    そんな簡単なことじゃないとは知りながらも、そんなことを考えながら読みました。

    っと、何が言いたいのかわからなくなってきた。
    NHK学びのきほんシリーズは、短くまとめられていて、さらっと読めるけれど、大抵深い深い話が書いてある。良い本でした。KindleUnlimitedで読んだけれど、これは何度でも読んで、頭を柔らかくしていくのに使いたい本でした。

  • 文化人類学がどのようなもので、どのような手法を用いて行われているのか。特に、手法の話は面白かった。

  • 私は出不精であまり人と交流することが少ないのですが、昨年はさまざまな人と会う中で揺さぶられる場面が多くありました。
    視野の狭さを思い知らされたという意味でもあります。

    この本はそんな自分にとってぴったりな内容でした。

    どんなに本や展示、著名人のトークショーなどから知識を学んでも、日本でありながらもその文化ごとによって文脈は異なります。話し合いながら可能性を探るという作業はどんなにデザイン思考やワークショップが流行っていても知識では解決できない部分ではあります。

    さまざまな本で、好例とされるプロジェクトが紹介されていますが、新しい試みをするにはそれぞれ
    文化を理解する


    誰もが間違っていないし、いい人ばかりなのだけど、どことなく気持ちの悪い部分がある。
    新しい環境では揺さぶられることで、それまでの自分が一度バラバラになるような気持ち悪さがありつつも、その後再構築された

    気持ちの逃げ場として、ビジネス書や心理学を探してみたところピンとこない中、文化人類学という分野に辿り着きました。

    期待通り、人や文化に対するもやもや気持ちを解決のある内容となっている本でした。

    少なからずいろんな環境に流されて生きているなか、個人の小さな合理性や理想を求めることの意味はあるのかということも考えさせられました。
    結果として答えは出てないのですが、個人として何ができるのか、どう生きるのかを改めて考えさせられました。


    文化人類学は人々と出会うフィールドワークから学びを得る

    時代やコミュニティごとにさまざまな文化が存在している。
    今ある時代は

    自分の欠点として自分の頭の中で物事を考えがちなところがあります。
    昨今、性格診断などが流行り、人によって考えが大きく違うことを知らされました。
    違いを知ることで、逆に人に対する距離が遠のいてしまった面もあったように感じておりました。

    解決策とまでは行きませんが、人々の違いを実践的に感じとることの面白さをこの本は教えてくれている気がします。

    価値観が揺さぶられた気持ちの逃げ場を探すべく、文化人類学という分野に辿り着きました。

    生活の中で必要な知識だけど、ビジネス書でもなく、
    人という動物として社会で生きることを俯瞰できるような内容になっていました。


    今のところ私が出会っている人は主に日本の人だけなので、今後海外の方と出会うことが増えたらもっと新しい感覚と出会えるんだろうなと、この本を通じてワクワクさせていただいた気がします。

  • めちゃくちゃ簡単な内容の文化人類学の入門書。
    ・効率的に生きることよりも、普段の小さな幸せ、生きる喜びを味わうために生きる
    ・他者と積極的に関わり、自分が変化していくことを楽しむ
    この二つがめっちゃ大事なんだなって学びはあった。

  • 異文化理解というものについてモヤモヤしてたことが少し見えてきました。

  • 文化人類学の考え方を学べた。

    その民族には「その民族である理由」があるんだな。
    と思った。

    進化の方向も一つじゃなし、答えや正解は一つじゃない。

  • 同じ人間にも複数のカテゴリがある。「日本人」「男」「A型」「会社員」「父親」などなど。どのカテゴリかで印象ががらりと変わる。生真面目なA型なら、A型だから、とA型のカテゴライズに使えるし、甘えっ子のA型なら末っ子だから、とカテゴライズすればよいく、別に嘘ではなく間違いでもないのだけれど、安易なカテゴライズは危険である。
    そして深く知るほどに「○○の」とカテゴライズされたその人ではなく、個を見るようになる……というのはわかるのだけど、人類学ってカテゴライズして分類することに意義があるような気がするのだけど、違うのだろうか。
    結局は、個でありそれぞれ、という普遍的に当たり前で正しいことを認めて、そこで停止したら学問にならない気がする。

  • 面白い。

    わたしの境界が溶けるなど、そういう感覚はたしかになあというところが見えてくる。

    最も良かったのはここ。
    >ほんとうにささいなことですが、インゴルドの言葉を読むと、もしかしたら限られた人生、娘を無事に幼稚園のバスに乗せることより、毎日、蜘蛛の様子を二人で観察して驚きや発見に満ちた瞬間を味わうことのほうが大切かもしれない、と思えてきます(バスに乗り遅れると、あとがたいへんなのですが……)。  たぶん私たちの日常には、そんなふだんは気づかないところに「生きる喜び」が潜んでいる。なのに、たいていは気づかずに通り過ぎてしまう。でもそのささいな喜びを人生からすべて取り去ったら、あとに何が残るのか。
    位置1015より

    インゴルドという人は、直線かフリーハンドか、いや二択ではないはずで、どちらもあると。そういう感覚からすると、境界線を引いてしまって、日本と海外とか、そういう境界線を引いてしまう態度、姿勢が「直線」的といえる。逆にフリーハンドとは、徒歩の旅のようで、つまり著者がいうエチオピア調査でいえば、その滞在時も含めたお隣さんがエチオピア人であり、「お隣さん」の感覚はまったくアップデートされる(例えば日本で生まれて育ってお隣さんを想像する時、それと異なるなど)。

    上の話は、著者の娘さんが、フリーハンド的であり徒歩旅行的である蜘蛛の観察があると。一方で直線的な幼稚園バス時間に間に合うようにバス乗り場にいくということがある。ここで徒歩やフリーハンドが絶対正しいとはいえないけれど、とはいえ直線的で済ませているとそこに余白はないなと。

    そう、蜘蛛の観察的なことを日々やることのほうがわたしらしい、というか、その人らしいともいえる。そういう感覚がないならば、やはり境界線を引いて境界があるし、その違いを見出そうとすると。比較は面白いけど、比較するとは何か差がある前提という暗黙の前提がある。けどもそれはないのではないか、またはあっても共通するものがあってそう境界が引けるわけではないのでは?というところとなる。

    ここが分かるだけでもぐっと視点が広がる。とても学びになった。

    文化人類学の難しい話があるわけでもなく、著者のまなざしが伝わってくる。

  • - 「分断」は、かならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない。そう考えると、世の中が少し違って見えるはずです。 /// つまり、対立や分断しているとされる両者は、互いにまったく 相容れないと思う相手の存在を必要としている。その「つながり」の結果として対立や分断が可視化されている。
    - つながりをとおしてAとBが何者であるかが定まるように、他者表象と自己理解は別々の営みではなく、 同時に起きている のです。
    - バルトは、文化の要素が違うから異なる民族になったというよりも、ある集団と別の集団のあいだに境界線が引かれることで、その差異が強調され、 類似 した要素が無視されたり、排除されたりするようになった。そうして異なる民族が生まれてきたのではないか、と考えました。
    - 文化人類学が大切な手法としている「比較」には、二つの種類があります。ある集団と別の集団をその境界に沿って別のものとして差異を強調するような比較(日本とニューギニアはこんなに違う! 近代社会と近代以前の社会には大きな溝がある!)と、その境界線の引き方や差異を疑うような比較(日本人とニューギニア人ってまったく違うと言えるのか? 近代化しても変わらない普遍性があるのではないか?)です。  じつはこれこそが、それぞれの輪郭を強調するつながりと、輪郭が溶けるつながりという、この章の最初に述べた二つのつながりに対応しています。「わたしたち」と「かれら」の「つながり」を、それぞれの差異を強調する方向で比較するのか、別の境界線の引き方や境界線を越えて共有される側面に注目して比較するのか。  本書のキーワードである「はみだし」とは、その境界線を越えて交わりが生まれることに注目する視点です。
    - 自分たちの知識や枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。
    - 小説家の 平野啓一郎(一九七五~)は、複数の自分の姿をたんなる「キャラ」や「仮面」のようなものと考えてはだめなんだと言います。たったひとつの「ほんとうの自分」や首尾一貫したぶれない「本来の自己」なんてない。一人のなかに複数の「 分 人」が存在しているのだと、本書の内容とも通じる議論を展開しています(『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)。  英語の「個人 individual」は、「分割できる dividual」に否定の接頭辞「in」がついている語で、それ以上分割不可能な存在という意味が込められています。この西洋近代的な個人とは異なる人格のあり方を示してきた文化人類学にとっても、じつは「分人 dividual」はとても大切な概念でした。
    - 他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。
    - 第1章で説明したとおり、もはや文化人類学は、たんに異文化だけを研究する学問ではありません。異文化を理解しようとする試みが、自文化の輪郭を確かめ、その差異をとおして自己像をつくりだそうとしていることを意識しています。異文化として描かれる他者の姿は、それとは異なった存在でありたいという自己の欲望の一部にすぎない。ほんとうに多文化共生や異文化理解を目指すのであれば、そのことを意識する必要があります。  たとえば、「イスラムの文化を学び、尊重しましょう」と考えること自体が間違っていると思う人はあまりいないと思います。それでも、そこには日本文化とイスラム文化を切り離された存在として見ようとする姿勢があります。これではすでに引かれている境界線を前提にその差異を再確認して、境界線自体を強化してしまっている。  どうすれば、その差異を乗り越え、境界を揺るがすことができるか。それこそが異文化理解の目指すべき姿勢なのに、乗り越えがたい差異があると考えるところからはじめている。
    - むしろ、その境界がひとつしかないとする前提こそが、深い「分断」があるかのようなイメージをつくりだしている。  そんなとき、異なる複数の境界線を引くことが既存の境界を乗り越えるために必要な想像力になります。だから「異文化理解」を考えたいのなら、ほんとうに「異文化」なのかどうか、どんな意味で「異文化」とされてきたのか、そこで引かれている境界線とそれに沿って見いだされている差異そのものを疑うところからはじめないといけない。  複数の境界線を引いてみると、どの境界線によって浮かび上がる「差異」も、けっして絶対的なものではなくなります。国や宗教の違い以外にも、私たちは さまざまに異なっている。そう考えると、日本と外国を最初から「異文化」だとみなす考え方が、いかに狭い見方かがわかるでしょう。
    - ふりかえってみれば、出会った人と複数のカテゴリーのなかで向き合う時間を重ねたことが大切だったように思います。私たちは、人と出会うとき、まず性別とか年齢とか、国籍とか、いろんなカテゴリーをのなかからひとつを選んでその人のことを見定め、コミュニケーションの手がかりにします。
    - ほんとうにささいなことですが、インゴルドの言葉を読むと、もしかしたら限られた人生、娘を無事に幼稚園のバスに乗せることより、毎日、蜘蛛の様子を二人で観察して驚きや発見に満ちた瞬間を味わうことのほうが大切かもしれない、と思えてきます(バスに乗り遅れると、あとがたいへんなのですが……)。  たぶん私たちの日常には、そんなふだんは気づかないところに「生きる喜び」が潜んでいる。なのに、たいていは気づかずに通り過ぎてしまう。でもそのささいな喜びを人生からすべて取り去ったら、あとに何が残るのか。そう考えさせられます。
    - 大きな目標を達成することだけを目指して、それまでのあいだずっと周囲の変化や他者の姿に目をつぶって耳をふさぐ。そうやって「わたし」の変化を 拒みながら足早に通り過ぎていくうちに、私たちは確実に「死」へと近づいています。  インゴルドも、フリーハンドの曲線のような人生だけがよりよく生きることだと言っているわけではありません。線には直線と曲線の二つがあるのに、私たちは知らないうちに直線的な歩みをしてしまいがち。だからこそ二つの歩み方があることを自覚できるかどうか。それが「よりよく生きる」ことにとって意味がある。たぶんそう考えているのではないかと思います。
    - 「わたし」や「わたしたち」が変化するからこそ、周囲の人や環境も、自分自身もあらたな目でとらえなおすことができる。 脅威 に感じられた差異が可能性としての差異に変わる。それこそが、さまざまな差異に囲まれ、差異への憎悪があふれるこの世界で、他者とともに生きていく方法なのではないか。

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著者プロフィール

松村 圭一郎(まつむら・けいいちろう):1975年熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は文化人類学。所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『くらしのアナキズム』『小さき者たちの』『うしろめたさの人類学』(第72 回毎日出版文化賞特別賞、いずれもミシマ社)、『旋回する人類学』(講談社)、『これからの大学』(春秋社)、『ブックガイドシリーズ 基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『はみだしの人類学』(NHK出版)など。共編著に『文化人類学との人類学』(黒鳥社)がある。


「2023年 『所有と分配の人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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