P 24
何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略) ある物に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略) すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである。 パラケルスス〔一六世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師〕
P 31
第一章 愛は技術か
P 35
a 友愛
P 36
c 恋愛
P 37
d 自己愛
P 40
第四章 愛の習練
P 65
愛の問題とはすなわち 対象 の問題であって 能力 の問題ではない、という思いこみである。
⚠️ 114
技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。ひとつは理論に精通すること。いまひとつはその習練に励むことである。
⚠️ 120
理論学習と習練の他に、どんな技術を身につける際にも必要な第三の要素がある。それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心事でなければならない、
P 127
人びとはこんなふうに考えている──金や名誉を得る方法だけが習得に値する。愛は心にしか 利益を与えてくれず、現代的な意味での利益はもたらしてくれない。われわれはこんな 贅沢品 にエネルギーを注ぐことはできない、と。
P 154
孤立の経験から不安が生まれる。
P 170
人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に 全面的に 失敗したら、精神に異常をきたすにちがいない。
P 313
集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。だから、いずれも、実存の問題にたいする部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち 愛 にある。
P 361
共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した 愛は、 自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、 人間のなかにある能動的な力 である。
⚠️ 363
愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、 依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。
⚠️ 387
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも 与える ことであり、もらうことではない、と言うことができよう。
P 390
与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはとても曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、 剝 ぎとられること、犠牲にすること、という思いこみである。性格が、受けとり、利用し、 貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受け止めている。
P 429
このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分に 跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受けとることになる。与えることは、他人をも与える者にする。たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのだ。与える行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝する。とくに愛に限っていえば、こういうことになる──愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。
P 448
与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどれくらい発達しているかによる。愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか、なんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
P 454
愛の能動的な性質があらわれている。その要素とは、 配慮、 責任、 尊重、
P 455
知 である。
P 477
配慮と気づかいには、愛のもうひとつの側面も含まれている。 責任 である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものとみなされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為で
P 497
人を尊重するには、その人のことをまず 知る 必要がある。その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう。いっぽう知も、気づかいが動機でなければ、むなしい。他人に関する知にはたくさんの層がある。愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。
P 500
相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。そうすれば、たとえば相手が怒りを外にあらわしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。もっと深くその人を知れば、その人が不安に駆られているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。そうすれば、その人の怒りがもっと深いところにある何かのあらわれだということがわかり、その人のことを、怒っている人としてではなく、不安に駆られ、 狼狽 している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。
P 785
愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する 態度 であり、 性格 の 方向性 のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人びとには無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。
P 900
たいていの人の場合、自分自身も、他人も、すぐに探検しつくし、知りつくしてしまう。そういう人の場合、親密さはおもに肉体関係から得られる。その人にとっては、人間がたがいに孤立していることは、肉体的に離れているという意味にすぎないので、肉体的に結合することで孤立を克服しようとする。
P 909
だがこの種の親密さは、時が経つにつれて失われていく。その結果、まだよく知らない新しい人との愛を求める。そして恋に落ちるという激しい高揚感をふたたび味わうが、その高揚感もしだいに衰えていき、この新しい人も「親密な人」になってしまい、ふたたび、新たな征服、新たな恋を求めることになる。毎回、今度の恋は前のとはちがうのだという幻想を抱いて。そうした幻想を支えているのは、性的欲望の誤解されやすい性質である。
P 918
多くの人は性欲を愛と結びつけて考えているので、ふたりの人間が肉体的に求めあうときは愛しあっているのだと誤解している。
メモ逆にSEXすると愛されていると、一定思うのか
P 940
愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。
⚠️ 991
他人にたいする態度と自分にたいする態度は、矛盾しているどころか、基本的に 結びついている。これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分への愛は二者択一ではないということになる。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛せる人すべてに見られる。原則として、「 対象」 と自分とはつながっているのであるから、 他者への愛と自己愛とを分割することはできない。
P 1,009
自分への愛と他人への愛が基本的につながっているとしたら、利己主義をどう説明したらよいだろう。
P 1,017
利己主義と自己愛とは、 同じどころか、 正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、その人は自分を憎んでいるのだ。
P 1,735
まず、技術の習練には 規律 が必要である。
P 1,749
第二に、 集中。これが技術の習得にとって必要条件であることは、ほとんど証明不要だろう。
P 1,758
第三は、 忍耐 である。何かを達成するために忍耐が必要
P 1,768
技術の習得に 最大限の関心を抱く ことも、技術を身につけるための必要条件のひとつである。
⚠️ 1,802
もし自分の足で立てないという理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
メモ依存しているのは愛ではない。深いなー
P 1,818
何をするときにも精神を集中させるよう心がけなければいけない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色をながめるときも。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければいけない。精神を集中してさえいれば、 何を しているかは重要ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるため、これまでとまったくちがって見えてくるはずだ。
⚠️ 1,838
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すら与える。相手の話を真剣に受け止めず、したがって真剣に答えない。その結果、会話しているふたりはどちらも疲れてしまう。そういう人にかぎって、集中して耳を傾けたらもっと疲れるだろうと思いこんでいるが、それは大まちがいだ。どんな活動でも、集中してやれば、人はますます覚醒し、その後には、自然で心地よい疲れがやってくる。精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで、一日の終わりにベッドに入ってもなかなか眠れない。 集中するとは、いまここで、全身で、現在を生きることだ。何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。いうまでもなく、いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。彼らは往々にして、さまざまな方法を駆使してたがいに相手から逃げようとするものだが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。集中力を身につけるための習練は、最初のうちはひじょうにむずかしく、これではいつまでたっても目的を達成できないのではないかという気分になる。そこで、いうまでもないが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時がある。それを知らずに、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身につかない。忍耐力がどういうものかを知りたければ、懸命に歩こうとしている幼児を見ればいい。転んでも、転んでも、けっしてやめようとせず、少しずつ上手になって、ついには転ばずに歩けるようになる。
P 1,866
同じように、人は自分自身にたいしても敏感になれる。たとえば疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたとき、その気分に屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれると、鈍感さを助長することになる。そういうときは、「何が起きたのか」と自問すべきだ。
⚠️ 1,871
以上の例に共通して重要なのは、変化に気づくことと、手近にある、ありとあらゆる理屈を持ち出してその変化を安易に合理化しないことである。それに加えて、内なる声に耳を傾けることだ。なぜ私たちは不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、内なる声はその理由を、たいていすぐに教えてくれる。
P 1,903
愛を達成するためにはまず ナルシシズムを克服しなければならない。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという基準からのみ経験される。 ナルシシズムの反対の極にあるのが客観力である。これは、人間や事物を ありのままに 見て、その 客観的な イメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。
P 1,944
愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。
P 1,954
愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのだ。
P 1,976
根拠あるヴィジョンの着想から理論の構築にいたる過程のあらゆる段階において、 信念 は不可欠
P 2,061
人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、 ほんとうは無意識のなかで、 愛することを恐れているのだ。 人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。
P 2,271
たしかに、交際には技術がいる。だが、人を愛すること自体が技術なのだと考えている人はほとんどいないだろう。誰もが、交際の練習はしても、「愛の習練」を積もうなどとは考えない。その意味で、本書の主張は今もなお新鮮である。