愛するということ 新訳版

  • 紀伊國屋書店 (1991年3月25日発売)
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どうして愛が必要なのか。僕だったら、愛を媒介として子孫をつくり後世へと生命を繋げていくためで、あくまで手段としてプログラムされたものなのかもしれない、と答えるでしょう、いきなり訊かれたならば。しかしながら、「でも……」とそう答えてしまってから首をひねるでしょう。愛って、そんなに矮小なものだろうか。そしてそんな単一な機能しかもたないものだろうか。人生を楽しくしたり、幸せにしたりするのも愛だとする。それだって、楽しい人生じゃないと生きようという気持ちが芽生えず、生命は滅んで行ってしまうからプログラムされた、と言えるかもしれない。ここで再び、「でも……」とプログラム説の冷たさにたいして疑問を感じ始める。愛っていうものは、生命を巧妙に騙すプログラムで、人生に豊潤さすらもたらすくらい、全力をかけてできているものだとする。生命が愛ありきで設計されたものであっても、人間の知性が世界というものを知り、それを肯定して深めていって完成させるものなのかもしれなくはないでしょうか。これは、才能が、生まれついての先天的なものか、あるいは環境や努力による後天的なものか、という問いに似ています。プログラムはされていてもそれはある意味で「種」であって、後天的に発展させたり深めたりを自分でしていかないとうまく成熟しないものなのではないでしょうか。

本書は、この、後天的な部分を担当する読み物です。とりとめのない愛というものの本質を、愛することととらえ、さらに愛する技術を学ぶことが大切だとしています。愛は、考れば考えるほど、自分の視野ではとらえきれないようなものだとわかってしまうようなものですが、本書は、うまくそこに形を与え、理論化しています。途中、同性愛を否定する箇所や、眠りを疎んじ覚醒をもてはやす箇所などで古さを感じるのですが、それ以外はおおむね読ませるどころか、新たな学びともなる、ひとつの見事な論理として愛というものの姿を知ることができる内容になっていました。

前置きが長くなりました。ここで序盤の文章から一文を引用します。
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人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
(p23-24)
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著者・フロムの心理分析では、こういった「孤立」を解消するために愛があるとされます。また、愛にいたるまでにも、「孤立」を解消する行動を、人はいくつも行うことも記されています。たとえば、外界があるから孤立を感じる、というところに人は気づくのです、おそらく無意識の領域で。では、外界と同調し自分を失えば孤立はなくなるがそれだとどうか、となる。どうして生きているかもわからなくなりそうです。そうならないようにうまくやるには、つまり外界との同調を嫌いながら孤立感をやわらげるには、外界を消し去るほかなくなります。アルコール依存や薬物依存の理由はそうやって外界を消し去るため。外界を消すことは、外界から徹底的に引きこもることで成されるからです。また、祭りなどの非日常の行動も、孤立感を消し去る効果がある。これは、高揚状態と集団の結束のつよまりから孤立感が薄れます。この類いの行為としては、考えてみると、パチンコや競馬などのギャンブルに足を突っ込みすぎることというのは、孤立ゆえに外界を消そうとする行為なのだろう、とわかってきたりします。あとは、創造的活動が、没頭して生産的になることで世界とひとつになるような経験をし、孤立感が無くなります。ただ、人間同士の一体感こそが、偽りでもなく一時的でもない一体感であり、孤立から脱する完全な答えとしての行為が、愛なのだ、と著者はいうのでした。

ここで僕なりに思い浮かんだことは、引きこもることも、外界を消す行為だということでした。孤立から自分を救うための行為ということになります。誰も自分のことをまるでわかってくれないことが孤立だともいえます(孤立とその不安を解消できる機能を備えた社会が作れるのならば最高ですよね)。少なくとも西洋社会では、個人は孤立から逃れる心理ゆえに自ら社会に同調していくといいます。日本はどうだろうかと考える。建前で同調して、隠した本音では同調することで自分をなくしたくないと思ってはいないだろうか。だとすれば、本音を隠したその行為、その心理は孤立感を育てるでしょう。ゆえに不安を呼び、強迫的な行動に繋がりやすくなる。また、不安って認知を歪めるといいます。隠された本音由来の孤立感からくる不安が認知を歪めることで、似非科学や陰謀論にふりまわされやすい心理状態になりやすいのではないかと考えるところです。

愛は与えることだとも書かれていました。ある人が誰かに与えることで、与えられた誰かの中でそれがなにかが生まれるきっかけになり、なにかが生まれたときには与えた人にそれが思わず返ってきたりする。上昇スパイラル、正の連鎖ですね。べたな例ですけど、ライブなんかでのミュージシャンやアイドルと、観客やファンの関係はそれにあたりそうです。損得や犠牲で「与える」という行為をとらえているうちは、うまくいかないということでした。

とても勉強になったのは、父性と母性のところでした。無条件で愛する母性と、自らの言うことを聞くなら愛するというような条件付きで愛する父性。人は成熟すると、自らのなかに母性も父性も自足するようになるというのです。ただやっぱり、ちょうどいい母性と父性との関わり具合があって、そのバランスがおかしいと愛することがうまくいかなくなる、と。神経症的な愛の形になってしまうんです。

たとえば僕は母の介護をしているなかで、強い父権でもって完璧主義と強迫観念で母に接する父がいることで、家庭でのバランスを無意識にとろうとして無条件に愛する母性的接し方をするようになった。でも機能不全家庭で育った僕にそんなことができるのだろうか。まやかしの母性ではないかと疑念がわいてきます。愛することが得意かどうかというと、僕は子どもへの接し方に苦労するほうなので、そこを鑑みるとほんとうは得意ではなさそうなんです。でも、子どもってふつうに闇や悪をかかえているもので、ピュアではないことを知っている(自分の子供時分のことを覚えている)から接するのに苦労するのかもしれない。ある意味で素直でシンプルなのが子どもの可愛いところ。でもピュアな感じでの善とは違うでしょう。親を含む大人などの他者が子どもである自分をどうみているかをちゃんと知っていてそれを利用して演じたり嘘をついたりし、自分の思う通りにする。混み入った罠を思いつき実行したりもします。

神経症な愛のひとつの例として、以下の引用をしておきます。
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「投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、そのかわりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度にも、神経症的な愛の一つの形が見られる。この場合、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点も目ざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。」(p151)
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後述に「自分が支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったりしても、それを全部相手にかぶせて(投射して)非難し、性格によって、相手を矯正しようとしたり、罰したりする。」とあります。こういう人、いますよね。母性や父性との関わり方がうまくいかずに大人になったからではないか、と本書を通読するとそう考えてしまいます。

最後に。
愛の技術を磨くには、「規律」、「集中」、「忍耐」、「技術への関心」がカギになると書いてあります。そして、これらは様々な技術を会得するのに必要なものだし、愛の技術もそれらと同様なのだ、と解説されていました。なるほど、そうかもしれない。気が向いたときだけやるのではなく、規律をもって、気が向かなくてもやりなさい、というところが耳に痛かったです。

おまけとして。
他者に無関心でいることが現代の特徴だとして、その無関心を通り道にナルシシズムへ行き着くのではないのでしょうか。相手の事情を考えられなくなっていき、自分の利益ばかり主張するのがナルシシズムの一面です。客観性が弱い。それだと、まともな「愛する」行為がわからなくなっていく。偽りの愛ばかりになるのでしょう。本書では、客観性がないということは理性がない、ということになる、とありました。そして、謙虚さは理性の証みたいなものなんですよね。なるほどなあ、と肯くばかりで。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 説明文
感想投稿日 : 2022年10月29日
読了日 : 2022年10月29日
本棚登録日 : 2022年10月29日

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