- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314005586
作品紹介・あらすじ
人間砂漠といわれる現代にあり、こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。
感想・レビュー・書評
-
充実した内容、一文一文の密度が濃ゆい。
一読でどれだけ理解、消化できたか?
お堅い部分もあるが、問いと解がテンポよく綴られるので読める。
訳語の選択も良いのだと思う。
1956年に出版の本で、1900年生まれのドイツ人、しかも男性、もはや人間であるということ以外ほぼ共通点のないと思われる人の語る愛についての分析(否定や陥っていると指摘され図星になる点も含めて)が、ストンと落ちてくるから不思議。普段、友達と恋愛話はしても、「愛とは何か」なんて語らないから、なんで誰にも話したこともないのにこのおじさんに分かるの、共感できるのという感じ。(おじさんという親近感を持たせるほど、訳語が読みやすい) もちろん、共感できない部分もある。
資本主義社会での愛のあり方にまで、言及は及ぶが、今読んでも殆ど時代錯誤感がない。本にはコンピュータ、SNSはおろかテレビもでてこないのに。
ハイライトが止まらない。今までこんなにハイライトした本はないかもしれない。
愛は意志の行為だ。誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。
生産性の重要性。
私のウニヒピリとあなたのウニヒピリの関係だと思う
愛するとは能動的な行動=与えるということ
2020.6.6詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「愛は人を好きだったら、運がよければ愛に出会えるものではなく、自分から生産するもの」、「誰かを愛して、誰かを愛せないなら、誰をも愛してない」
現代社会、資本主義の構造が、愛ということを含む人々の精神状態の傾向を作っている解説は納得でした。
愛の修練の箇所では、自分に集中することなど、ヴィパッサナーと同じことが書かれていたのには驚きました。やはりそれが愛を生む前提の土台なのか‥2500年前に既に人が知っていたこと‥
改めて感動したと同時に、周りを見わたしても成熟した愛を生む喜びを感じられる幸福な人は少ないことに気づき、今の現実に気づかされました。
・たいていの人は愛を「愛する」ではなく「愛される」という問題として捉えている。
・能動的な感情を行使するときには、人は自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使するときには、人は駆り立てられ、自分では気づいていない動機の僕である。
・愛は行動であり、自由でなければ実践できず、強制の結果としてはけっして実践されえない。
・愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
・貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活がつらいからではなく、与える喜びが奪われるからである。
・与えるということは、他人をも与える者にするということである。
・愛するためには、性格が生産的な段階に達していなけれならない。依存心、ナルシズム的な全能感、他人を利用しようとかため込む欲求を既に克服し、自分の人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
・愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
・自分が相手に関して抱いていたゆがんだイメージを克服し、相手を、そして自分自身を客観的に知る必要がある。
・愛は人間の実存にたいする答え。
・助けが必要だからといって、その人が無力で相手方に力があるというわけではない。
・自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。
・母性愛の真価が問われるのは、幼児にたいする愛においてではなく、成長をとげた子どもに対する愛においてである。
・ナルシズム傾向のつよい母親、支配的な母親、所有欲のつよい母親が、愛情深い母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。
・人を愛することのできない女性は、子どもが小さいあいだだけは優しい母親になれるが、本当に愛情深い母親にはなれない。
・自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。
・1人の人間を愛することは人間そのものを愛することでもある。自分の家族は愛するが他人にはめをむけなといったことを、ウィリアム・ジェイムズは分業と呼んだが、これは根本的に愛することができないことのしるしである。
・もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたその人はまったく愛することができないのである。
・利己的な人は自分を愛しすぎるのではな愛さなすぎるのである。自分自身を愛しすぎているかのように見えるが実際には真の自己を愛せず、ごまかそうとしているのである。
★愛の修練、前提条件
・1人で何もせずいられること
・集中力(いまここで現在を生きること)
・目的を達成できないのではないかと思うが、何事にも潮時があるので、忍耐力をもつ
・自分自身に対して「どうしてそう思うんだろう?」と敏感に気づく
・自分は○○できるから、あの人だってできるはずだというナルシズムの克服
・子どものことを従順だとか、親としてうれしいとか、親の自慢だと感じ、子どもが実際に感じていることに気づかないなど客観性を失わない。
・人間や物事をありのままに見て、その客観的なイメージを自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと客観的に区別する能力
・客観的に考える能力、それが理性。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。
・権威への服従に基づいた信仰のことではなく、自分自身の思考や感情の経験に基づいた確信という「信じること」。
・自分の愛は信頼に値するものであり他人のなかに愛を生むことができる、と信じることである。
・他人を信じることのもう一つの意味は、他人の可能性を信じることである。
・教育とは、子どもがその可能性を実現していくのを助けることである。真逆の洗脳は、大人が正しいと思うことをこに吹き込み、正しくないと思われることを根絶すれば、子どもは正しく成長するだろうという思い込みに基づいている。
・他人を信じることを突き詰めて行けば、人類を信じることになる。人間には可能性があるので、適当な条件さえあたえられれば‥。
・権力を信じることは信念とは正反対。現在すでにある力を信じることは、まだ実現されてない可能性の発達を信じないことであり、現在目に見えるものだけにもとづいて未来を予想することだ。しか人間の可能性と人間の成長を見落としている。
・信念を持つには、苦痛や失望をも受け入れる覚悟の勇気がいる。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は信念を持つことはできない。他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は愛する、愛される勇気がない。
・ある他人にたいしてある評価をくだし、たとえそれがみんなの意見とちがっていても、また、なにか不意の出来事によってその評価が否定されそうになっても、その評価を守り通すには、信念と勇気が必要だ。あるいは、みんなに受け入れられなくても、自分の確信に固執するには、やはり信念と勇気が必要だ。また、困難に直面したり、壁にぶちあたったり、悲しい目にあったりして自分に課された試練として受け止め、それを克服すればもっと強くなれる、と考えるには、やはり信念と勇気が必要である。
・自分がどんなところで信頼を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているか詳しく調べる。そうすれ信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむくといった悪循環に気づく。
・人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが本当は、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
・愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
・愛以外の面で能動的・生産的でなければ、愛においても能動的・生産的になれない。 -
「愛するということは、どういうことか?」について、丁寧に考察した名著です。
よく考えると、今まで自分であまり真剣に考えたなかったテーマのような気がします。
わかったようで、本当のところはよくわからないといったテーマで、奥が深いと思いました。
人生の根元的で重要なテーマであり、読む価値ありの名著です! -
愛がなければ誰だってまともに生きていけないというのは、もはや自明すぎることだと思うが、その愛についてこれだけ深い思索を重ねて論じている本書は、その試みにおいても、そしてそれを読む我々においても、重要な意味を持つ一冊だと思う。
宗教的な精神論のような色合いは特段濃いわけではないし、フロイトの主張のようなトンデモ感もなく、初版は1950年だが現代においても重要な示唆を与えていると思う。
孤独耐性がなさすぎて群れてばかりの奴らに本当の愛なんて見えてねぇんだよ、とかスレた思いを抱きつつも、でもそういう奴らのほうが自分なんかよりも幸せに生きてるな…などと感じている私のような人間には、本書はある意味救いであった。
本書の言葉を借りれば、愛するということは「自分の内に存在するものだけを現実として経験する」ナルシシズムの対極にあり、客観性の観点がなければ実践しえない。そしてその客観性は「理性に裏打ちされたもの」であり、「その基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである」。
本書で言われるところの「ナルシシズム」が蔓延っている現代には、「愛」が欠落している(あるいは表層的な愛しかない)のも道理であろうし、それはまた知性の欠落とも言い換えられよう。
一点、あえて批判的な感想を述べるとすれば、愛の理論的な枠組みにおいて、「父親的」「母親的」といったようなジェンダー的な論法が目立つところはどうしても気になった。一部で比喩的な言い回しとして用いられているニュアンスはなくはないが、「男と女」という明確な二元論に議論が立脚していることはほぼ明らかである。20世紀前半〜半ばの著書であるので時代背景的に無理もないのかもしれないが、性別を超えたところの愛(隣人愛や母性愛でもなく)というものを本書では十分に説明できていないのではないかと感じ、この点だけはフロムの理論の不完全な部分ではないだろうか。
とはいえ、愛について質の高い評論が展開されている本書を読み、そして自分なりに考察するのとしないのとでは、愛を必要不可欠としている私たちの生にとって、大きな違いがあるのではないかと思う。 -
ブクログさんのプレゼント企画でいただいた本で、応募した時はまさか当選するとは思わなかったのでとてもうれしかったです。前から気になっていた本だったので、ちょうどいいタイミングで巡り合うことができて感謝してます!
そして実際に読んでみると、期待通りの内容でこれはいつまでも本棚にしまっておきたいな、と思った。しまっておきたい、というよりはまたいつか手に取りたい、読み返したいという内容だった。きっとこれは読むタイミングが違うと感じ取るものや学ぶものも変わるんだな、と思った。
愛は技術である。この本は「愛されるための」本ではなく、「愛する」ための本である。そして愛することはただ「落ちる」ことではなく、能動的なプロセスであることが繰り返し強調されている。昨今「愛されるための秘訣」や「愛され女子」だったり、ひたすら自分がどのように振る舞い、行動をすれば愛されるか、というハウツー本や記事はいっぱい見かけるけれど、愛するための方法を説く本はなかなかないのではないか?と最初に思った。そして読み進めていくうちに、愛することは一朝一夕で何かに取り組めばいいものではないということがよくわかる。何かを、誰かを愛するということは自分の今まで育ってきた環境によってもその行動や感情が左右されるし、そういう意味では誰しも歪んでいて正しい愛はないのだろう。けれど愛するためには信念が必要である、ということはストンと腑に落ちた。そうそう、これだ。これだよ。と四章を読んでる最中に妙に納得してしまった。
「自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。(…)愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を育むことができる、と「信じる」ことである。」
私は、愛することは信じることであると思う。愛は金銭の取引の時のような淡泊な心持ちで挑むのではなく、信頼や信念という不確かなものだからこそ難しい。そして誰かを愛するためには、自分のことを信じて、言葉を変えると愛するとができなければいけない。自分を愛する、すなわち自己愛はよくナルシズムだと言われて悪い印象を持たれがちだが(特に日本では)、でもやはり健康的な精神を保つためには自分を適度に愛することが必要なんだと思う。自分より他人を愛することが美徳と言われる世の中であっても、まず自分を信じることができなければその相手に対する愛情も嘘なのではないか?この文章を読んだときにずっと心の中にあった引っ掛かりが取れたような気がした。
長くなってしまった…この本は決して長くもなければ難しいということもない。200ページという短さでこんなにも濃い内容が詰まっているからこそ、気軽な気持ちで手に取ってもらいたい。これは誰にでも当てはまる内容だし、きっと唸るポイントがどこかに潜んでいると思う。
そして最後にもう一度、この素晴らしい本を送ってくださったことに感謝します。 -
どうして愛が必要なのか。僕だったら、愛を媒介として子孫をつくり後世へと生命を繋げていくためで、あくまで手段としてプログラムされたものなのかもしれない、と答えるでしょう、いきなり訊かれたならば。しかしながら、「でも……」とそう答えてしまってから首をひねるでしょう。愛って、そんなに矮小なものだろうか。そしてそんな単一な機能しかもたないものだろうか。人生を楽しくしたり、幸せにしたりするのも愛だとする。それだって、楽しい人生じゃないと生きようという気持ちが芽生えず、生命は滅んで行ってしまうからプログラムされた、と言えるかもしれない。ここで再び、「でも……」とプログラム説の冷たさにたいして疑問を感じ始める。愛っていうものは、生命を巧妙に騙すプログラムで、人生に豊潤さすらもたらすくらい、全力をかけてできているものだとする。生命が愛ありきで設計されたものであっても、人間の知性が世界というものを知り、それを肯定して深めていって完成させるものなのかもしれなくはないでしょうか。これは、才能が、生まれついての先天的なものか、あるいは環境や努力による後天的なものか、という問いに似ています。プログラムはされていてもそれはある意味で「種」であって、後天的に発展させたり深めたりを自分でしていかないとうまく成熟しないものなのではないでしょうか。
本書は、この、後天的な部分を担当する読み物です。とりとめのない愛というものの本質を、愛することととらえ、さらに愛する技術を学ぶことが大切だとしています。愛は、考れば考えるほど、自分の視野ではとらえきれないようなものだとわかってしまうようなものですが、本書は、うまくそこに形を与え、理論化しています。途中、同性愛を否定する箇所や、眠りを疎んじ覚醒をもてはやす箇所などで古さを感じるのですが、それ以外はおおむね読ませるどころか、新たな学びともなる、ひとつの見事な論理として愛というものの姿を知ることができる内容になっていました。
前置きが長くなりました。ここで序盤の文章から一文を引用します。
___
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
(p23-24)
___
著者・フロムの心理分析では、こういった「孤立」を解消するために愛があるとされます。また、愛にいたるまでにも、「孤立」を解消する行動を、人はいくつも行うことも記されています。たとえば、外界があるから孤立を感じる、というところに人は気づくのです、おそらく無意識の領域で。では、外界と同調し自分を失えば孤立はなくなるがそれだとどうか、となる。どうして生きているかもわからなくなりそうです。そうならないようにうまくやるには、つまり外界との同調を嫌いながら孤立感をやわらげるには、外界を消し去るほかなくなります。アルコール依存や薬物依存の理由はそうやって外界を消し去るため。外界を消すことは、外界から徹底的に引きこもることで成されるからです。また、祭りなどの非日常の行動も、孤立感を消し去る効果がある。これは、高揚状態と集団の結束のつよまりから孤立感が薄れます。この類いの行為としては、考えてみると、パチンコや競馬などのギャンブルに足を突っ込みすぎることというのは、孤立ゆえに外界を消そうとする行為なのだろう、とわかってきたりします。あとは、創造的活動が、没頭して生産的になることで世界とひとつになるような経験をし、孤立感が無くなります。ただ、人間同士の一体感こそが、偽りでもなく一時的でもない一体感であり、孤立から脱する完全な答えとしての行為が、愛なのだ、と著者はいうのでした。
ここで僕なりに思い浮かんだことは、引きこもることも、外界を消す行為だということでした。孤立から自分を救うための行為ということになります。誰も自分のことをまるでわかってくれないことが孤立だともいえます(孤立とその不安を解消できる機能を備えた社会が作れるのならば最高ですよね)。少なくとも西洋社会では、個人は孤立から逃れる心理ゆえに自ら社会に同調していくといいます。日本はどうだろうかと考える。建前で同調して、隠した本音では同調することで自分をなくしたくないと思ってはいないだろうか。だとすれば、本音を隠したその行為、その心理は孤立感を育てるでしょう。ゆえに不安を呼び、強迫的な行動に繋がりやすくなる。また、不安って認知を歪めるといいます。隠された本音由来の孤立感からくる不安が認知を歪めることで、似非科学や陰謀論にふりまわされやすい心理状態になりやすいのではないかと考えるところです。
愛は与えることだとも書かれていました。ある人が誰かに与えることで、与えられた誰かの中でそれがなにかが生まれるきっかけになり、なにかが生まれたときには与えた人にそれが思わず返ってきたりする。上昇スパイラル、正の連鎖ですね。べたな例ですけど、ライブなんかでのミュージシャンやアイドルと、観客やファンの関係はそれにあたりそうです。損得や犠牲で「与える」という行為をとらえているうちは、うまくいかないということでした。
とても勉強になったのは、父性と母性のところでした。無条件で愛する母性と、自らの言うことを聞くなら愛するというような条件付きで愛する父性。人は成熟すると、自らのなかに母性も父性も自足するようになるというのです。ただやっぱり、ちょうどいい母性と父性との関わり具合があって、そのバランスがおかしいと愛することがうまくいかなくなる、と。神経症的な愛の形になってしまうんです。
たとえば僕は母の介護をしているなかで、強い父権でもって完璧主義と強迫観念で母に接する父がいることで、家庭でのバランスを無意識にとろうとして無条件に愛する母性的接し方をするようになった。でも機能不全家庭で育った僕にそんなことができるのだろうか。まやかしの母性ではないかと疑念がわいてきます。愛することが得意かどうかというと、僕は子どもへの接し方に苦労するほうなので、そこを鑑みるとほんとうは得意ではなさそうなんです。でも、子どもってふつうに闇や悪をかかえているもので、ピュアではないことを知っている(自分の子供時分のことを覚えている)から接するのに苦労するのかもしれない。ある意味で素直でシンプルなのが子どもの可愛いところ。でもピュアな感じでの善とは違うでしょう。親を含む大人などの他者が子どもである自分をどうみているかをちゃんと知っていてそれを利用して演じたり嘘をついたりし、自分の思う通りにする。混み入った罠を思いつき実行したりもします。
神経症な愛のひとつの例として、以下の引用をしておきます。
___
「投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、そのかわりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度にも、神経症的な愛の一つの形が見られる。この場合、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点も目ざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。」(p151)
___
後述に「自分が支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったりしても、それを全部相手にかぶせて(投射して)非難し、性格によって、相手を矯正しようとしたり、罰したりする。」とあります。こういう人、いますよね。母性や父性との関わり方がうまくいかずに大人になったからではないか、と本書を通読するとそう考えてしまいます。
最後に。
愛の技術を磨くには、「規律」、「集中」、「忍耐」、「技術への関心」がカギになると書いてあります。そして、これらは様々な技術を会得するのに必要なものだし、愛の技術もそれらと同様なのだ、と解説されていました。なるほど、そうかもしれない。気が向いたときだけやるのではなく、規律をもって、気が向かなくてもやりなさい、というところが耳に痛かったです。
おまけとして。
他者に無関心でいることが現代の特徴だとして、その無関心を通り道にナルシシズムへ行き着くのではないのでしょうか。相手の事情を考えられなくなっていき、自分の利益ばかり主張するのがナルシシズムの一面です。客観性が弱い。それだと、まともな「愛する」行為がわからなくなっていく。偽りの愛ばかりになるのでしょう。本書では、客観性がないということは理性がない、ということになる、とありました。そして、謙虚さは理性の証みたいなものなんですよね。なるほどなあ、と肯くばかりで。 -
中庸な主張である。平凡という意味ではなく、急進的な考えを慎重に避けている。
その上で、資本主義が人間性と精神性を脆くし、愛することを難しくしている様を描く。
現代文明批判の側面もある。実践的なマニュアル本の側面もある。人格の高潔性、自律を重要視することに立脚している。
『自由からの逃走』の主張も一部含まれていたが、両書を読むことで論旨が豊かになっていく。
宗教と愛の関係を敷衍するところが本書の白眉か。 -
「愛することは技術である」という著者の考えから、現代(といってもこの本が発行されたのは1956年)の恋愛の背景、歪んだ愛や愛の習練などなど……愛について深く掘り下げる哲学書です。
かなり古い本であるにもかかわらず、2020年現在に読んでも全く違和感のない内容で驚きました。哲学書って時代を超えて通じるものなんだなあ、と改めて感じたのがこの本。
恋愛をするための指南書のように思う方がいるかもしれませんが、著者も冒頭で述べているとおり、そうではありません。恋愛について効果的な行動が示されているわけではない代わりに、ハウツー本などでは味わうことのできない深みと余韻を以てこの本は愛について語っています。
ブクログのフレーズ機能がびっしり埋まるほどの名言の数々でした。一方で痛いところを突かれているようであり、もう一方では今までモヤモヤと疑問に思っていたことがストンと腑に落ちるようでもありました。
単純なことではないからこそ、それにじっと向き合って一つのことを掘り下げていく。哲学のもっとも大切で興味深い部分を味わったような心地のした一冊でした。 -
原題は『The Art Of Loving』
愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性の事である。
エーリッヒ・フロムの代表作で、言わずと知れたロングセラー。手元の単行本で2018年で第38刷。勿論恋愛の指南書のような軽い内容ではありません。
「自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解(知)に根差している。」⇔利己主義(ナルシシズム)からの脱却。
「集中力を身につけるためには、くだらない会話、つまり純粋な会話ではない会話を出来るだけ避けることが大事だ。…」
「くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。私のいう悪い仲間とは、単に悪意ある破壊的な人たちだけではない。そういう仲間は毒をもっていて、こちらを憂鬱な気分にするから、もちろん彼らを避けるべきだが、それだけでなく、ゾンビのような人、つまりは肉体は生きているが魂は死んでいるような人も避けるべきだ。また、くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も避けたほうがいい。…」
自分が避けられないように気を付けなければなるまい。
本書内で語られる宗教感は日本人のワタクシには縁遠さを感じざるを得ない部分が多々あるも、人間の内面を痛いほど考察しており、深層心理学のコーナーに置いてあってもおかしくない内容。
煩悩の塊である自分を大いに反省を促させられる(笑) -
誰もがその言葉を知っていて、誰かに求め続けている「愛」。その愛をこれほどまでに理論的に説明し、技術として語るという内容に衝撃を受けた。今まで疑問に思っていた点たちを線で結んで形を与えてくれたような一冊。読まなかったら愛について誤解したままだったかもしれない。自己愛、異性愛、親子愛、兄弟愛、神への愛と、その違いが丁寧に説明されていて本当に勉強になった。
1956年の本だとは思えないみずみずしい内容。愛というと人間の内面というイメージが強いけど、社会構造が大きく関わっているという話も興味深かった。社会構造と愛についての関係性は今も変わらず溝を深めているように感じるね。
あとは、ぼくの印象に残った言葉を引用しておきたい。これからも人生において幾度となく読み返していきたい本になった。
「まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。」
「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに『落ちる』ものではなく、『みずから踏みこむ』ものである。」
「いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを『あきらめる』こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである。」
「愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。」
「配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。『責任がある』ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。」
「未成熟の愛は『あなたが必要だから、あなたを愛する』と言い、成熟した愛は『あなたを愛しているから、あなたが必要だ』と言う。」
「ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。」
「そして、愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。」