新潮文庫のシェイクスピアは表紙が好みで訳も読みやすかった。
ただ第一幕第一場のしょっぱなのサムソンとグレゴリのセリフのなかの「石炭(コール)かつぎなんて仕事は……」が「虫を殺すのは……」とだいぶん意訳されていた。
「石炭coal(コール)」は続くセリフの「石炭かつぎcollier(コリア)」「癪cholar(コラー)」「絞首索collar(コラー)」という語呂合わせとなるもので、読み比べした岩波文庫『ロミオとジューリエット』ではそのような訳のままだった。
うーん、日本語で英語表現のそのような面白さを表すのはなかなか難しいのだろうな。
岩波文庫版の訳もよくて、だけどジューリエット(ジュリエット)が「乳母(ばあや)」を「あんた」と呼んだり、乳母が「ジューリエット」を「お前様」と呼ぶのは、私のイメージとはちょっと違うんだよね(←細かい)。
やっぱりジュリエットには「乳母」のことは「ばあや」と呼んでいてほしいし、乳母も「ジューリエット」のことは「お嬢様」と呼んでてほしい。
ちくま文庫や角川文庫、白水社などのものは読んでいないのでわからないのだけど、これからも数冊を読み比べてから、どの戯曲も手元に一冊はおいておきたい。でもいちばん表紙がお気に入りなのが新潮文庫だから、そのシリーズを揃えたくなるんだよなぁ。
さきに映画を観たり朗読を聴いたりしていたおかげで、文字からだけでも人物像や情景は十分想像できたので戯曲をスムーズに読むことはできた。でもやっぱり文字だけではあじけない部分もあって、戯曲は演じられることで命が吹き込まれるものなんだと改めて感じる。
なかでもマキューシオとティボルトの、ロミオとティボルトの決闘シーン。たとえばロミオとティボルトが剣を交えるとき、セリフ以外は「(両者闘う。ティボルト倒れる)」の一文であっけなく終わる。そりゃそうだよね、小説じゃないのだから。
だけれどシンプルに書かれているからこそ、自由に想像を広げることができるのも戯曲の脚本なんだなって思う。
シェイクスピアの脚本では、ロミオが初めてジュリエットを意識したシーンは、ダンスをしているジュリエットに気づいてという、まあオーソドックスな出会いなんだけど、私が観た映画はもっとドラマチックな出会いのシーンとなっている。
それはロミオがマンチュアへ追放となる前夜のシーンも同じことで、ジュリエットと過ごした最初で最後の甘く切ない時間をシェイクスピアは書かずに、いきなり場面は朝の窓辺となる。
思ったのは、その余白があることで、これからも演じられていく『ロミオとジュリエット』にたくさんの素敵なシーンが生まれるのだろうなってこと。
原作を読んでよかったなと思ったのは、初めて知ったことがいくつかあったこと。
キャピュレット夫人が、ティボルトを殺しマンチュアへ追放となったロミオに毒薬を飲ませるつもりでいたこと。
パリスとロミオの邂逅、そしてパリスの最期。←これには大変驚いた。
モンタギュー夫人がロミオの追放の悲しみによって、死んでしまったこと。
そしてモンタギューとキャピュレットの和解まで描かれていること。
これらを知って、ロミオとジュリエットの両親とパリスへの見方が変わった。
その上で、やっぱり原作が魅力的だったのは、ロミオとジュリエットの数々のセリフの美しさ、そして若々しさを詩集のように味わえたこと。
原文にも触れてみたくなる。
- 感想投稿日 : 2023年1月9日
- 読了日 : 2023年1月9日
- 本棚登録日 : 2023年1月9日
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