明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫 フ 10-1)

  • 筑摩書房 (1997年6月1日発売)
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以下引用

バタイユ―おのおのの存在者の根底には、不充足の原理がある

不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付すことから生じる。そしてこの付疑が果たされるために他者が、あるいはもうひとりの存在者が必要になるのである。存在者は、単独ではおのれのうちに閉じこもり、眠りこみ、そこに安らいでいる。

おのおのの存在者の実質は、他の存在者のおのおのによって絶えず異議提起を受けている。

存在者が求めているのは、承認されることではなく、異議提起されることである。彼は現存すべく他者へと向かい、他者によって異議にさらされ、ときには否認される

この剥奪状態の中ではじめて彼は存在しはじめるのである。こうしておそらく彼は、外にー置かれるというかたちで現存し、自分をつねにとりあえずの外部性として、あるいはそこかしこに破綻をきたした現存として体験しながら、ただ、荒々しい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる

バタイユは、何らかの集合的位格における融合の実現を排除している

彼にとって重要だったのは、自己自身をも忘れ去る忘我の状態であるよりも、不充足でありながらその不充足性を断念できない現存が、活を入れられおのれの外に投げ出される、まさにそのことを通して貫かれる困難な歩み、超越の通常の諸形態をも内在性をもひとしく崩壊させてしまう、この運動のほうだった

不充足は、それに終わりをもたらすものを求めているのではなく、むしろ満たされるにつれてますます募ってゆく欠如の過剰をこそ求めている

この不充足性が異議提起を呼び求めるのである。その意義提起は私ひとりに由来するものだとしても、それはつねにひとりの他者に対して自分をさらけ出すことである。他者だけが、彼の位置そのものからして、私に活をいれることができるのだ。もし人間の現存が、自己を不断に根底から疑問に付すものだとすれば、おのれの力を超えるこの可能性を、彼は自分ひとりでささえることができない。そうでなければ、疑問一般に対するひとつの疑問が欠けることになるだろう。自己批判とは、いうまでもなく、他者からの批判を拒否することにほかならない

他人の死を、自分にかかわりのある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって、それ(共同体)を開示しつつ、その開口部に向けて、私を開くことのできる唯一の別離なのである

誰かの死に立ち会うとき、生きているものは、もはや自己の外に投げ出されてでなければそれに耐えることができない、死にゆく者の手をとりながら、私が彼と続ける無言の対話、私はそれをただ彼が死ぬのを助けるためにのみ続けるのではない、彼のもっとも本来的な可能性でもあるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼の所有の権能を根底から奪い去ってゆく限りでひとと分かち合うことのできない彼固有の所有に属するとも思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話を続けるのだ

共同体は、いかなる生産的価値をも目的としていない。では、それはいったい何の役に立つのか。なんの役にも立ちはしない。ただ、死のさなかにいたるまで他人に対する奉仕を現前させ、そのことによって彼が、孤独に消え去るのではなく、死のさなかで自分が誰かに代補されていると感じ、同時にこうして得ている代補を彼がもうひとりの他者にもたらす、そうした事態が生ずるために役立つといえば役立つだけだ

共同体は、至高性の場ではない。それはおのれを露呈しながら他を露呈させるものである。共同体は、それを締め出す存在の外部を内に含んでいる。外部、それには、死、他者との関係、あるいはことば、それも語る様式のうちに織り込まれることなくそのため、それ自身とのいかなる関係も(同一性も他性も)もちえない場合のことば、等々さまざまな呼び方が与えられているが、思考はそれを容易に手なづけることができない。

共同体はおのおのにとって、私にとって、そしてそれ自身にとって、その運命である自己ーのー外を統括するものである以上、分かち合われることなく、とはいえ、多重に響く、それゆえに交し合うことばとしては展開されえない、つまり、つねにすでに失われており、用途もなく、働きもせず、この純粋な喪失状態の中でおのれを顕揚することもない、あるひとつのことばを可能にする。それがことばの贈り物である。他者にとってたしかに受け取られるということを保証しえないような純粋な喪失としての贈与、ただ他人だけが、ことばとまではいわずとも、少なくとも語ることへの嘆願を可能にしはするのだが、その嘆願すらも、拒否される、行き場を失うあるいは受領されないという危険をはらんでいるのである
→外としての自己喪失という出来事それ自体としてのことばが贈与ということかな


共同体は、ほかならぬその挫折のさなかで、ある種のエクリチュール,窮極の言葉以外に求めるものをもたないエクリチュールと関係する部分があるのではないか。おいで、来るがいい、来なさい、あなた、それともきみといおうか、きみには命令や祈りや期待が似合わないだろうから

黙示録的な声がいっさいの聴取に先立ってその条件として聞き取られるのは、共同体において

バタイユは、彼を他者たちへと開き荒々しく彼自身から引き離すものの中で、この無限の要請へと身をさらしている。供犠に付すこと、それは殺すことではない。投げ出し、与えることなのだ。アセファルに関わること、それは己を投げ出し、おのれを与えること。すなわち、無限の放棄に見返りもなく、おのれを与えることなのである。それが共同体を解体しながら、基礎づける供犠である。

限界へと滑り出ることであるような、内部の空間を解き放つ。内的体験は、このようにこの表現のみかけとは反対のことを言っている。それは、主体に発しながら、主体を蹂躙する異議提起の運動だが、その実、他者との関係を最も深い起源とするものであり、そしてこの他者との関係こそが共同体

この共同体は、知ることのできないもの、すなわち深淵であり、恍惚でありながらなお特異な関係として存在し続けるあの自己ーのー外の認識を提起する、あるいはそれを逃れえぬものとして私たちに課すのである

恍惚は、それ自体がコミュニケーションであり、孤立した存在者の否定、この荒々しい破裂の中に消滅するが、それと同時に激しく高揚することを、あるいは彼の孤立を打ち破り、彼を無辺際へと開くものによって、豊かになることを熱望してもいるのだ

恍惚の決定的な特徴は、それを体験する者が、体験の時点ではもはやそこにはおらず、したがってそこにとどまって恍惚を体験することができない、という点にある。その同じ人間は、自分が記憶から立ち戻るようにして、過去における恍惚から立ち戻ると信じることはできる。覚えている、私は想い出す、思い出す可能性の一切を超え出てそれをゆるがす忘我のなかで、私は語る、あるいは書くというように。最も厳格で、最もつつましい神秘家たちはみな、個人的なものと見なされる回想は疑わしいものであるほかなく、それは記憶に属するものではなあるが、記憶を逃れ出ることを執拗に求めるもの、時間外的な記憶、あるいは決して現在形で生きられることはなかったであろう、ある過去の記憶の列だと悟っている

この意味でもまた、最も個人的なものは、ひとりの人間に固有な秘密としてとっておかれることはなかった。それは個人の限界を破って、分かち合われることを要請していた。というよりは、むしろ分かち合いそのものとしておのれを宣明していたからである。

共同体とは、そこに保持すべきものが何者もない場処-非処としてしか存続せず、いかなる秘密も、ないがゆに不可解で、無為のためにしか、つまり書くことそのものを貫き。また、あらゆる公私のことばの交換の中でその終わりを印す沈黙を響かせているあの無為のためにしか活動しはしない

★★それは苦悩に満ちた日記のノートである。その共同体が開示されるのは、それぞれに特異な義理のない少数の友人たちが、自分たちの直面しているあるいは自分たちがそこに運命づけられている例外的な出来事を、はっきりと意識しながら分かち合う沈黙の読誦によって、それを構成するときだ。その尺度に見合う何事も語ることはできない。


孤独を打ち破ることもなく、ただ未知の責任へと差し向けられて、共同で生きられる孤独の中でその孤立を深めるばかりである

体験が単独者には起こりえないというを含意している。というのも、体験は、個別者の個別性を打破し、個別者を他の人へとさらし出す、したがって本質的に他人に向けてのものである。

★自分の生が自分にとって意味あることを願うなら、私の生は他人にとって意味をもつものでなければならない

体験が、コミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質のいて外部への開口であり、他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっている

★★読者は自分の読むものに関して自由な、単なる読み手ではないということ。彼は求められ愛されもするが、おそらく容赦されることもないのだ。彼は自分の知っていることを知りえず、また自分が思っている以上に知っている。読者とは自己放棄に身をゆだね、自分自身を失いながらも、同時に、どこに生起し喪失の中で彼の手を逃れてゆくものをよりよく見定めるために、路肩にとどまる同伴者なのだ
→★生命それ自体である文章を読むことで、読者もまた
自分の生命に押し流されてしまうという事態が生じるということ。その意味で、なんの意味も意図も受けていない文章を書くということは、ただただ生命を書いているにすぎないし、筆者が文章をかけるのは、自分が常にいなくなっている、世界において、ことばに流されていきているからなのだと言える。そうしたところで産み落とされた文章によって読者に生じることもまた、それに近似したことだということ。文章は、その人の生、世界それ自体を書いているだけであり、その人の生、世界それ自体を推し進めていくことだけに作用する

★★私はそれにあてて書いている当の者は、たった今読み終えたものに心打たれて涙せずにはいられないだろう、ついで彼は笑うだろう、自分の姿をそこに認めるからだ。しかしその後にはこう続く、彼に私が、私がそれにあてて書いている者を知ったー垣間見た、見出したとしたら、私は死んでしまう。彼は私を蔑むだろうが、それは私にふさわしいことだ。しかし、私は彼の侮蔑によって、死ぬのではない。生きながらえるには重さが必要
→●●生命の分有がおこっている。そこにいのちへの覚悟が起きる。

★★私はそれにあてて書いている者とは、私の知ることのできない者であり、未知の者である。そして未知の者との関係は、それが書くことによってつくられる関係であるとしても、私を死、あるいは有限性へとさらけ出すが、この死の中には死を鎮めるなにものも存在しない。では、そのとき友愛はどうなっているのか。友愛、友をもたない未知の者への友愛。あるいはまた友愛が書くことによって共同体に呼びかけるとすれば、友愛はおのれ自身から除外されるほかない。(いっさいの友愛を締め出す書くことの要請に対する友愛)

→未知に向けて書いている。それが出来るのは、それが未知との出遭いを書いているからだし、未知なるものからの要請をそのまま形にしているからだろうな。そこに意味は求めていない。そこから生まれてくるものがあるのだとすれば、外、それ自体なのだと思う


コミュニケーションの基盤とは、必ずしもことばではない。いわんやその背景でもあり、節目でもある沈黙ではない。それはおのれを死にさらすこと、それも自分自身の死にではなく、他人の死に、その生生しい至近の現前そのものが、すでにして永遠のものであり
→★ふと思いついたが、結局、自分が書かされている言葉とか、自分の中に流れてくる言葉、自分が押し流されて、巻き込まれてしまっている言葉を書くという行為は、「死」それ自体を、その出来事自体を、描いているのかもしれない。つまり、それが流れてきたことで、もう自分が、今までの自分ではなくなってしまったわけで、その変異に際しての、それまでの自分への決別、言い換えれば喪の作業をすることが、文章を書くということなのかもしれない。

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感想投稿日 : 2023年4月9日
本棚登録日 : 2023年4月9日

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