思い出のマーニー〈下〉 (岩波少年文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784001141115

感想・レビュー・書評

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  • 10年ぶりに再読。
    ちょっと内向的でヒネた主人公アンナと不思議な少女マーニーとの心の交流を描いた上巻、そしてマーニーの謎をするする紐解きながらアンナが変わっていく下巻。ストーリー性も描写力も文句なし、大満足の作品でした。
    児童向けの作品なので、ストレートでわかりやすい表現が多いです。でも扱われている内容は、子どもからの脱皮を経験した大人だからこそ分かることも多いので、おそらく子供目線と大人目線で感じ方が変わるのではないでしょうか。私は10年前と今回とでは明らかに感じ方が違いました。20年前にも読んでいたら、きっともっと違いを感じたと思います。
    今夏上映のスタジオジブリ映画も期待しています。

  • じんわりと満たされていくような読後感。驚くべき愛の物語でした。これを米林宏昌監督がどう料理してくれるのか、楽しみです!

  • 恐ろしいくらいの孤独の中に住むアンナはしめっち屋敷に越してきた兄弟姉妹と打ち解けていき、マーニーの秘密も解き明かされていく中でアンナの閉ざされた心も次第に開かれて温かいものが入ってくる。孤独を感じる思春期の生徒に届けたい一冊だと思いました。

  • 何かメッセージ性を持って
    マーニーが現れたっていうのが
    主題でもよかったかな

    映画になるんだ!
    設定が日本って…(^_^);
    アンナは、日本人とのハーフになるのかな?

    孤立している時に
    勇気をもらえる本だと思う
    友達がいなくて
    図書館に通っている女の子にすすめたい

  • 物語の前半は、海辺の洋館に住む不思議な少女マーニーとの出会いと、マーニーと過ごす秘密の時間の中で、アンナが少しずつ自分と向き合い、心がほぐれていく様子が描かれています。  ようやくできた心を許せる友達だったマーニー。  でも、村人たちは誰一人としてマーニーのことを知りません。  そんな中「風車小屋事件」とでも呼ぶべき事件が発生し、結果的にアンナはマーニーと別れ別れになります。  そして後半、マーニーと別れたアンナは彼女と一緒に過ごした時間の思い出を糧に、少しずつ少しずつ彼女が「内側」と呼んでいた世界とも向き合うようになっていきます。  

    物語の後半、いなくなってしまったマーニーの正体や、 アンナが決して知ろうとはしなかった彼女の生い立ちの物語等々が明らかになります。  それら全ての謎の鍵をにぎるギリーさんというおばあちゃんが登場するのですが、そんな彼女が語る

    「あなたがたがわたしぐらいの年になれば、これは だれのせいだとか、あれはだれが悪かったからとか、 そんなことはいえなくなりますよ」

    という言葉は今の年齢になったKiKi の心にストンと落ちてくる言葉でした。  そしてそれに続いてアンナが感じるようになる

    「自分が内側にいるとか、外側にいるとか、 それは、自分自身の中でどう感じているかによること」

    という真理・・・・のようなものに思わずぐっときてしまいました。  これはKiKi 自身も折に触れ読み返してみたい物語だし、多くの人に読んでもらいたい物語だなぁと強く感じました。

    (全文はブログにて)

  • 私がbk1で本書の上巻に書評をつけたのは2008年11月30日。

    今日は、いつもに増して自分語りになってしまい恐縮なのだが、
    私は、2008年4月に大切な人を亡くしている。

    旅立った人は病を得ていたこともあり、
    2008年2月から会うことができないでいた。

    書評も2008年2月から2008年10月中旬まで1本も書けなかった。

    本書の上巻への書評を書いていた頃は、読書も復活していて、
    文章も書けるようにはなっていたものの、
    読むものも書くものもどこかで
    彼のことを思い出させるものばかりだったように思う。

    本書も少女時代の自分と非常に縁の深い本だったこともあり、
    再々読し、重ねて原書にもチャレンジしたのだった。

    彼は、少女時代の自分と縁のある存在で、
    再会後の1年半の間に自分に自信のなかった私が
    自己肯定感をもてるように助けてくれた存在だったからである。

    上下巻ある本書の書評は、上巻に集約させて終わらせるつもりでいた。

    ところが、1年半が経ち、もう一度本書を読み返した今、
    前回の書評で書ききれなかった分をさらに書いてみたいと思うに至ったのである。

    そして、それを書く日は今日をおいて他にないと思っている。

    原書である"When Marnie Was There"は、
    入手しづらい状態になっており、
    前回チャレンジした原書はブッククラブで借りたものだった。

    先日、やっと中古で見つけたそれが、2010年4月27日届いたのである。

    まるで、誰かが今だと背中を押してくれたような気がした。

    前回の書評は、アンナがどういう子であるか、
    そして、風車小屋に自分を置き去りにしたマーニーを許したことには
    大きな意味があったということについて書いた。

    だが、上巻と下巻をまとめて1本で書くつもりでいたため、
    あらすじについてはきちんと書けてはいなかった。

    上巻で印象的なのは、
    「あんたの通りに見える」とサンドラに言われて、
    アンナが大変傷ついたというエピソードである。

    彼女が自己肯定感が低かったことの現れである。

    受け取る方がどうとも思わなければ、どうともない言葉。

    だが、自分のことが好きになれない存在にとっては、これほど痛い言葉はない。

    そして、発した相手もそれをわかっていて突いてきているのだ。

    悪口か否かは、言葉ではなく、投げ手、そして、受け取り手が決める。

    リンゼー家のアンドルーに「やぶにらみの妖精」と
    言われてもアンナが怒らないのが好対照な例である。

    アンナの心理描写は痛いくらいに当時の私であり、
    今も時おり顔を出す、私、である。

    大好きなお友だちを独り占めにしていたい気持ち。

    似ているところがあるからこそ惹かれあい、
    似ていないところは羨ましくて、
    でも、本当は相手の奥底にある他の誰もが
    触れないような淋しさに気づいていて、
    だからこそ、その根っこの部分で惹かれあったのだ
    ということわかっている。

    それでこんなことを言ってしまったりする。

      あたしは、あなたにいてほしいの。

      あなたがあたしにいてほしいより、
      もっと、ずっと、あなたにいてほしいの。

    マーニーに言い返されるように、
    むちゃくちゃナンセンスなのだけど、
    この言葉、自分の言葉として痛いほどにわかる。

    上巻で展開されるのは、アンナとマーニーの物語である。

    マーニーがアンナを風車小屋に置き去りにし、
    エドワードと帰ってしまうのは、
    下巻の最初のエピソードである。

    そして、マーニーはしめっ地やしきから去り、
    アンナとはもう会うことはない。

    下巻は、アンナとリンゼー家の物語である。

    リンゼー家の人々は、新しく修繕されたしめっ地やしきにやってきた人たちで、
    アンナは、マーニーに会うずっと前にリンゼー家の5人兄弟を目撃している。

    だが、そのときに村の人は誰も彼らを知らないと言ったため、
    アンナは彼らを自分の想像の中の人たちだと思っていたのだ。

    マーニーと会っていた頃のアンナは、
    しめっ地やしきの裏側である海側から訪問していたのであるが、
    リンゼー家に訪問するときは、しめっ地やしきの表側から訪問する。

    リンゼー家の人たちと知り合ってから、アンナの世界は急展開する。

    一見、マーニーのエピソードとリンゼー家のエピソードは、
    違う物語のように見えるのだが・・・。

    自分に自信がなく、周りの人たちとの関係をうまく築けなかったアンナは、
    マーニーと友だちになり、その関係を経た後、成長を遂げている。

    アンナはマーニーとの出会いを経ていたからこそ、
    リンゼー家の子どもたちと友だちになれたのではないか。

    これはマーニーの置き土産であったといっていいだろう。

    リンゼー家の5人兄弟の中で、もっともアンナと仲良くなるのが
    プリシラなのだが、そのことは、
    プリシラをプリシラと知る前からアンナにもわかっていて、
    遠くからアンナを見つけていたプリシラにもわかっていた。

    つかまえてほしいけど、そう簡単にはつかまえてほしくなくて、
    続けてしまう追いかけっこ。

    そんな気持ちも自分のことのようにわかった。

    お互いにお互いではなければない相手というのはわかるものである。

    アンナにとってのマーニー、マーニーにとってのアンナ、
    アンナにとってのプリシラ、プリシラにとってのアンナ。

    そして、アンナはなぜマーニーと出会ったのか、
    出会わなければなからなかったのか。

    そのすべてをここで語ることはできないのだが、
    ひとつだけ前回の書評から展開させておきたい。

    自分を風車小屋に置き去りにしたマーニーを許すことができたのは、
    アンナにとって大きな意味があったということについて。

    風車小屋の事件が起こる前に、アンナは、マーニーに
    今まで他の誰にも言うことができなかった秘密を、悲しみや怒りを語っているのだが、
    そのひとつに、自分を置いて亡くなってしまった母や祖母に対する怒りの心がある。

    自分をひとりぼっちにして旅立ってしまったことへの怒り。

    マーニーはそんな怒りを表出したアンナにいくつもの意味で深い答えを返している。

    その言葉の深い深い意味は、すべてがわかったときにつながるのだが。

    アンナがマーニーを許したことの意味のひとつは、
    自分を置いて行ってしまった者への許しであり、
    それは母や祖母に対する許しにもつながるのだ。

    そして、それは、出会いが一瞬でもう会えなくても、
    その相手を愛することであり、感謝するということなのだ。

  • マーニーの正体がわかる瞬間、世界が逆転しミステリー小説のような驚きがあった。
    めでたしめでたしの感動的ラストではあるけど、こうだったらなというような優しい世界だなあと思った。

    本筋はアンネの混沌とした心の内側であったり、世界への向き合い方の変化であったりなので、生き辛さを抱えてる子どもや、かつてそんな子どもであった人には刺さる作品だと思う。

    子どもって、イマジナリーフレンドを作ったりもそうだけど、現実と空想の世界が無理なく混ざり合ってるなかで生きてるんだなあ。
    そんな子どもの心に寄り添って描かれている名作だと思う。

  • 1980年の出版である。原題はWhen Marnie Was There?
    1967である。書かれてから13年もたって翻訳された。もっと早く翻訳されていれば子ども時代にも読んで記憶があったであろうが、初めて読んだ気がする。
     あとがきで著者から直接家の写真ももらったと書かれている。
     100分で名著では1回で結末まで説明されたが、話が急展開するのは下巻である。
     小学生が今読んでも面白いと思われる。

  • 下巻を読んでみた。上巻の「よくわからない」を取り消したいくらい面白かった。
    マーニーがいなくなって、それが幻だとアンナが気が付く。
    しめっち屋敷の新しい住人『リンゼー家』の人々との交流が下巻のメイン。


    アニメはマーニーとアンナの交流がメインで、マーニーが実は祖母だったという事までは分かったけど、『寂しい少女が見た幻』という認識しか持てず、バタバタと終わってしまった印象だった。見終わっても「だから、何?」と思ってしまった。

    原作はマーニーとの交流の上巻。それと比較して下巻は『リンゼー家の人々』との交流がメインで、単なる『寂しい少女が見た幻』というだけではない事が分かってよかった。

    アニメでは『自分が普通ではないと思っているアンナ』という描かれ方だったけど、原作は『自分は外側にいて、内側には入れないアンナ』が描かれている。
    アニメはエンタメだからわかりやすく『普通』という単語を持ってきたのかなとも思うけど、私は『外側』という言葉の方がしっくり来た。

    自分と外の世界との繋がりの物語。
    「普通という誰かが作った枠」ではなくて、「自分が作ってしまった『内側』と『外側』」が原作の物語。

    マーニーは『内側』の物語として語られていて、最終的に「マーニーが祖母で、祖母が元々しめっち屋敷に住んでいた」という繋がりが『外側』であるリンゼー家の人々と繋がっていく。この繋がりに読んでいて、震えてしまった。アニメではそこがなかった。



    アニメではしめっ地屋敷の新しい住人「彩香」という少女が日記を見つけて、アンナに見せてくれる。それを見て、アンナはマーニーの存在に疑問を持つ……となっていたけど、原作ではマーニーとの出会いが終わってから、しめっち屋敷の新しい住人達との交流が始まる。だから、アンナは最後までマーニーの存在は疑っていない。二度と会えなくなるまでは。

    新しい住人たちは『5人の子供たち』と『その母親+父親』で、彼らを通してアンナは「心をすり減らさずに人と接する事」を学んでいく。
    日記を見せてくれたのは「プリシラ」という変わった少女。彼女の他に4人の兄弟たちがいる。どの子たちも魅力的に書かれている。人数が多いので若干うるさくも感じるけど、それもまた「一人きりのマーニー」との対比のような気がする。


    リンゼー家の人々はすごく優しくて気さくで、アンナが「ボートの小さな錨」を黙って持ち帰っても怒ったりしなかった。何か理由があると考えてくれる思慮深い人たち。アンナは後からちゃんと謝って、錨が実は「マーニーのもの」と確定した時点でそれはアンナが所有してもおかしくないものとして、「キレイに塗り直す」ことまで提案してくれる。

    リンゼー家の人々の優しさが、アンナの心を解いていくのが読んでいてわかる。そして、「おばちゃん」も彼女たちに会って、アンナに真実を話そうと決心する。実は「アンナはマリアンナという名前だという事」を。

    この辺りはアニメでは一切なかった。(お金の話はあったけど)名前が実は変えられていたなんて……日本版で名前を変えるのは無理だろうけど。おばちゃんはアンナを「自分の子供にしてしまいたくて、元の名前の半分を消した」と。正直、それはないだろとは思うけど、そのありえない事をしてしまうくらいに「アンナが欲しかった」という気持ちは分かる。

    アニメはなんだか、「アンナの自力と運」だけで「祖母の事を知って自分も頑張ろうと思った」と言う風に見えたけど、原作は「たくさんの人と関わる事で変わっていくアンナ」が描かれている。

    最終的には「みんな自分が外側の気分になる事もある」という事にアンナ自身が気が付いてる。
    「自分は一人ではなかった」という着地点ではなくて、「みんなそう思っている」「人と繋がれる瞬間はある」「そして、一人きりの気分の時もある」というのが原作だった。

    私はこっちの方が好きだ。
    安易な「みんな繋がっていて、一人ではない」というものよりも、「一人きりの気分(外側)のときもあるけど、繋がっている(内側)の時もある」のほうが感覚として分かる。でも、エンタメとしてはそんな中途半端な作りにしたら、売れないのかな……とは思うので、アニメはアニメで刺さる人には刺さるのだろうとは思う。私は無理だっただけで。



    アニメにモヤんとした人は、原作読んで。特に下巻。マーニーと別れた後が本当に面白いし、アンナが成長していくから。とお勧めしたい。

    素敵な物語、ごちそうさまでした。

  • p199が印象的だった。
    映画を見たときはまだ経験が少なくて、あまり心に響かなかったけど、いま大人になって本を読んだら感動できた。目から汗が出た。p206らへん。

    アンナは血のつながった家族を早くに亡くしてしまったけど、優しいひとが周りにたくさんいて、周りに恵まれていたことを自覚できてよかったなと思う。

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