アブサロム、アブサロム!(下) (岩波文庫)

  • 岩波書店
4.33
  • (21)
  • (18)
  • (2)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 295
感想 : 15
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003232378

作品紹介・あらすじ

憑かれたようにサトペンの生涯を語る人びと-少年時代の屈辱、最初の結婚の秘密、息子たちの反抗、近親相姦の怖れ、南部の呪い-。「白い」血脈の永続を望み、そのために破滅した男の生涯を、圧倒的な語りの技法でたたみ掛けるフォークナーの代表作。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 現時点で既読のフォークナー作品は「サンクチュアリ」「八月の光」「響きと怒り」なので、4作目。
    予めクエンティンの「その後」を知っているからこそ思うことが多かったので、「響きと怒り」は先に読んでおいてよかった。
    そして、一見白人なのに「黒い血」へひどく「戦く」ということ、については、予め「八月の光」のジョー・クリスマスを知っていてよかった。

    と、いわば事前準備万端だったし、
    この岩波文庫版では関係図や章ごとの語りの構造が訳者の手で明記されている上、なんと上巻に訳者解説があるので、大いに事前に予習させてもらった(なかばネタバレ状態)(訳書は3種類……いずれ読み比べしたい)というのに、
    どうもキツイな……と、特に上巻では息も絶え絶え、へこたれていた。
    主に文体の難解さによって。
    だから上巻を読みながら、

    おとさん、ダラダラ。ネチネチ繰り返し多い。そもそも関係者じゃねーじゃん。観察者。
    おばあさん、元夢見少女でポエジー。実際詩人らしいし。いいですか、愛していない、見たこともない、と念押しを重ねるあたり、相当コジラセ。
    命名にギリシャ神話て。秋幸がインテリになるものやむなし。
    父と初体面のおばあさんに延々喋られて、クェンティン、カワイソス。そりゃ幻覚も見るわ。

    と、茶化すメモを取ることで、気を紛らわせながら読んだ。
    が、下巻に入って、(じいさんばあさんの繰り言に終始する上巻と違って)クエンティンとシュリーヴの会話になってからは、あまりの面白さに前のめりになった。
    だからこの上下巻分冊は、相当いい構成だと思う。
    上巻であちこち飛んだ、朦朧とした挿話のミルフィーユを、下巻の序盤でシュリーヴが軽快に整理してくれる、という構成も、視界が晴れていくような気持ちになった。
    学生二人が現在いるニューイングランドという寒い異郷の一晩が、意義深く感じられた。

    思春期に中上健次に入れあげた身なので、どうしても中上を思わずに読むことはできなかった。
    被差別部落出身というモヤモヤを抱えた中上が本書を読んだときの、あ……これはオレの話だ、という感動は、想像するに余りある。
    アメリカ南部の黒人差別……日本の部落差別……禁忌と愛おしさ……という重ね合わせが、大江フォロワーだった中上の小説を、世界文学に押し上げた。
    また「フォークナーの子」として中上とガルシア=マルケスが兄弟になった事情も、思う。
    もちろんフォークナーを読んだことで中上の評価が落ちたとかいうことではなく、中上はむしろ都市化・浄化による路地の解体に立ち会いながら、現在時点と過去の証言を残そうと苦戦したことに意義がある。
    また、殺された亡き子と、殺した子と、への龍造の思いを縷々綴る「覇王の七日」(小学館文庫の選集に収録)は、まるでトマス・サトペンの心情を中上が想像した「二次創作」のようだとも思う。

    本来作品間の連想は一番最後にまとめることが多いが、今回は異例。
    トマス・サトペン → 中上「岬」「枯木灘」「地の果て至上の時」秋幸三部作の浜村龍造、
    という連想にかこつけて、他に思い出したものを列挙してしまうと、
    ・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のフョードル。
    ・エミリー・ブロンテ「嵐が丘」のヒースクリフ。
    アメリカ南部では、
    ・フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」。
    南米ラテンアメリカでは、
    ・ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」。
    ・ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」。
    ・イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」。
    あとは、いちいち書かないが南米文学にあるマッチョなパパの系譜、
    そして、
    ・(やや文脈は異なるが、正木=コントロールフリークという意味で)夢野久作「ドグラ・マグラ」。
    ・横溝正史「犬神家の一族」の犬神左衛門。
    映画では、
    ・ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」のバート・ランカスター(子世代のアラン・ドロン)。
    ・ポール・トーマス・アンダーソン「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のダニエル・デイ=ルイス。

    以上、強大な父権にまつわる話を列挙したわけだが、すべてに共通するのは、父権を観察する「子供の物語り」であるということ。
    子供世代が親世代のあれこれを聞いて「巻き込まれる」ということ……ここにおいて、アメリカ南部のローカルな話のはずが、グローバルに読者が発生し続けている意味がある、と思う。
    本来トマスなど全然関係なかった立場のクエンティンが、おばあさんや父親に話を延々聞かされて、気持ちが引っ張られて憔悴した挙句、「そうだ、僕はあまりにも長いあいだ話を聞かされ過ぎたなあ」。
    ましてや兄妹間の近親姦の欲望に駆動されたクエンティンが、どんな気持ちでヘンリーとジュディスのことを想ったことだろう。

    WWⅡ以前の小説が100年後も読まれている理由は、ジェネレーション・ギャップを中心に据えたことで「読者が更新されていく」ということ。
    また、構造的には(ややいびつな)安楽椅子探偵モノ(探偵が本来部外者のはずのシュリーヴ、証言者にして助手がクエンティン)と見做せなくもないのに、時間も空間もかけ離れているのに、語っている内容をこの場に召喚してしまう・引き込まれてしまう・再現してしまう、文体が齎す、危うさ。
    安全な位置からの語りなど、ないのだ。
    今回私はネタバレ気味の読書をしたわけだが(衝撃度は軟着陸程度)、たとえば50年前に自力でパズルのピースをはめながら読んだ読者の驚き(衝撃度は追突)を想うと、やっぱり本書の重要度は格別。

    子世代から親世代に遡るようにしてトマス・サトペンに言及するわけだが、
    成り上がり者(どこかの馬の骨)の人生設計(デザイン)って、子世代にとっては動機が「単純すぎる」のだ。
    ヘンリーが同性愛と近親愛との混合に悩んだ鬱屈に比べると、トマスの欲望の発生源は、(本来)単純。
    なのに、その単純さが隠蔽された結果、謎が神話化し、神話化に貢献する子世代の証言は(良かれ悪しかれ)続々増えていき、子は親のことが分からなくなってしまう……この乱脈こそが小説的語り、なのではないかと思う。
    小説の語り手・読み手は、ギリシャ神話が繰り返される舞台の再演を、無力に見る・見届ける・見送るしかない……。
    こういう無力な子は、土着的な父性(トマスの立て直し)への憧れと、マチズモ嫌悪とに引き裂かれ、愛惜半ばにして、断定することができない……このどっちつかずが、文芸、と。
    実際、トマスが「家を興す」というバイタリティは凄まじいものがあるし、南北戦争後に何とか立て直そうとする足搔きに、読者は魅力をつい感じてしまう。
    ホモソーシャルな欲望が、欧米に限らず日本も含めて、ここ百数十年を浸しているヒトの流行り病のようなものだと思うが、その魅力と挫折を同時に描いているという点で、2020年代に読む価値あり。

    なんでもジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルースト、ヴァージニア・ウルフといった「意識の流れ」という文芸技法に連なるらしい、文体について。
    迂遠で、暗示的で、確かに難渋した。いつ誰が何について語っているんだ、と。
    しかし、パズルのピースをはめるように、といったヨユーな遊戯性(ヌーヴォー・ロマン的な)はあまり感じなかったし、
    聖書外伝的な文体、というほど未整理なテクストが連鎖しているわけではない、と感じた。
    まあ20世紀初頭の文芸作品だな、と。
    敢えて穿ったことを言おうと試みるならば、人を越えた、南部ディープサウスの地霊による、夢幻能舞台が、繰り広げられる「話の場」に立ち会ったようだとも言えるが。

    ところで、「ともすれば、単なるメロドラマに堕しそうな筋を、語りの技法によって文芸作品に押し上げた」とか言われているが。
    しかし、メロドラマとしてもなかなかよい、と個人的には、思う。
    現代人は(おそらく)皆、よりよく生きられるはずなのに失敗してしまった、という悔恨に浸されているし、
    別の人生もあったかも(春樹)、と夢想したり、夢想する暇もなく、動いたり、憎んだりしている人が多いからこそ、気づきを促す石になると思う。

    再読する未来の私に>推奨BGMは、ミシシッピ組曲。ロバート・ジョンソンのギター。

  • 最近になってラテンアメリカ文学や中上健次の面白さがわかるようになり、そこから遡ってゆくと、たどりつくのが実はこのフォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」。架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしているいくつかの作品群ですが、その代表作がこの『アブサロム!アブサロム!』。読めばなるほど、中上健次の路地ものなんかは、間違いなくこの作品の影響下にあることがわかります。構成は複雑だし、ときどき付録の家系図眺めて人間関係をチェックしなくちゃいけないけど(笑)、そういう煩雑さを補ってあまりある面白さ。

    • 淳水堂さん
      yamaitsuさん こんにちは。

      ブクログネットサーフィンしていたら辿りつき、お邪魔させていただきました。
      好きなジャンルもあった...
      yamaitsuさん こんにちは。

      ブクログネットサーフィンしていたら辿りつき、お邪魔させていただきました。
      好きなジャンルもあったり、全然読んだり見たことないジャンルもあったのですが、レビューが面白くてどれも読みたく(見たく)なってしまいます。

      >ラテンアメリカ文学や中上健次の面白さがわかるようになり、そこから遡ってゆくと、たどりつくのが実はこのフォークナー

      まさに私もそうです!
      好きな本から色々なところへ繋がっていって、読みたい本が増えるばかりです。

      …ところでところどころの映画レビューで「ギンレイホール」が出ていましたが、もしかして出没範囲が同じかもです(笑)
      でも私はもう10年くらい行ってないのですが…。
      以前は「若きディカプリオ二本立て」とか、「映画を見て泣いたらロビーで同じく泣いてる会社の人とばったり」とかやってました。

      それではこれからもよろしくお願いします。

      2015/05/01
    • yamaitsuさん
      淳水堂さん、コメントありがとうございます!(ここで返事して見ていただけるものかしら?)

      私もたくさん淳水堂さんの本棚拝見させてもらいま...
      淳水堂さん、コメントありがとうございます!(ここで返事して見ていただけるものかしら?)

      私もたくさん淳水堂さんの本棚拝見させてもらいました。被っているものも被っていないものも、これは!と思うレビュアーさんを見つけるとついついあれもこれも読み耽ってしまいます(笑)

      ギンレイホールは、私は10年越しの会員です(笑)出没範囲、かぶっているかもしれませんね!どこかですれ違っているかも・・・?

      こちらこそこれからもよろしくお願いいたします。
      2015/05/04
  • フォークナーの南部に関する思いがぎゅっと濃縮されている気がするが、何度か読まないと消化しきれない。メンフィスには何年か住んでいて、アラバマ州にも短期滞在したことがあるので色々と懐かしい。

  • ■上下巻読了後の感想、論点
    ・上巻ではなかなか頭に入ってこなかった物語が、サトペンの幼少期から、ミシシッピに突如現れるまでが語られたところあたりから、徐々に話の全体像が掴みかけてきて一気に面白くなった。

    <重層的な語りの手法>
    ・相変わらず、物語の登場人物たち自身の行動が直接書かれているわけではない。さらに下巻では、サトペンの物語を祖父から父へ、父から息子へと伝え聞いたクエンティンと、カナダ出身という、地理的にも本書の舞台であるアメリカ南部とは本来縁のないはずのシュリーヴという2人の学生によって、大学の学生寮の中で交わされる対話、という設定になっているため、ますます語られているところの物語本筋とは時代も場所も隔絶したところで語られ続けるのである。シュリーヴに至っては、クエンティンから聞いた話を、再度自分でも再構成して語り、時に踏み込んで想像を交えることに躊躇していない。それにも関わらず、聞き手のクエンティンは疑問を挟まないし、読者にとっては、もちろん他の方法で小説中の「真実」を知る方法などないから、縁もゆかりもないはずのシュリーヴの語りの内容がそのまま、当時のサトペンたちの行動・思考の内容の真実になる。
    ・そうであるならば、最初から「神の視点」たるフォークナーが、地の文で書けば良さそうなものを、あえて登場人物たちに登場人物たちのことを詳細に語らせているのは、もちろん意図的なものだろうし、伝聞によるはずの回想が、やけに詳細であったり、不自然なほどに長ったらしかったりするのも、もちろん意図したものであろう。それは、まさに事実とは、あるいは歴史に残らない歴史とは、そうやって形成されるものだからではないか。
    ・クエンティンの独白で、「すでにあまりに多くこの物語を聞いてきた」であったり、「投げ入れられた小石が水面に作る波紋」の例えであったりが示すものは、つまり、彼の語り手としての宿命を表している。サトペンの物語は、人種差別や近親相関、当時の男性中心的な社会などの歴史的テーマを内包しているとしても、あくまで個人の家系の物語である。だが、クエンティンの家系はその一族の歴史を語り継ぐよう運命付けられているのであり、本来、出自が全く別の土地であるはずのシュリーヴでさえそれに巻き込まれていく。下巻のクライマックスでは、もはやすでに死んだヘンリー、ボンなどの亡者と、語り手のクエンティンたちは一体となり、ほとんどとりつかれたかのように語る。それは小説の中で、あたかも小説を書いているかのようであり、また、私たちが普段意識しないが、結局誰かが語り継ぐことによってしか、人の一生も存在し得ないということの表現なのかもしれない。

    <サトペンについて>
    ・上巻冒頭の章では、ローザがサトペンへの呪詛によってのみ生きながらえているというほどに、彼の暴君的で、粗野で、悪意的な人格面が強調されるが、下巻ではサトペンは「無垢」であって、相当な辛酸を舐めてきた中で、その野望がいかに野蛮で、男性中心的で、また白人主義的なものと分かったとしても、彼は悪意というよりもむしろ「自然に」そうなったのではないかという側面が語られる。
    ・サトペンの破滅の物語は、もちろん当時の人種差別的な要素が大きな要因の一つだと最後に判明する(もしくは最もそれらしく想像される)わけだが、例えば父親に対するヘンリーの行動如何では、違う結末もあり得たのだと思う。訳者の藤平先生の解説にもあったが、時代背景的要素を抜きにしても、もっと単純に人間ドラマとしても壮大かつ作り込まれていて、読んで面白いプロットになっていると思った。
    ・関連して、本書のアメリカ南部の土地の因習的側面、血縁同士の姦通・敵対などの様子は、もちろん私が指摘するまでもないことだが、例えば中上健次「枯木灘」とか「百年の孤独」に通じるものがあると思った。特に「枯木灘」とは、(かなり以前に読んだので記憶が曖昧だが)手法面でも似通っていると思う。確か「枯木灘」も、父と子の関係を、執拗なほどに繰り返し繰り返し取り上げ、描いていた。「百年の孤独」は、他の2つと比べると、登場人物とエピソードの数が多く、深く掘り下げるというよりも、horizontalな方向のイメージの広がりにも特徴があったと思う。この3書、再読して詳細に比較すればきっと面白いのだろうが…。

    <意識の流れ 手法について>
    ・さて、池澤夏樹氏が指摘していたように、実はフォークナーを語る上でのキーワードで重要なものの1つは、「意識の流れ」なるもののようだ。その観点から言えば、しばしば代表例として挙げられるのは「響きと怒り」の方である。
    ・そのためか、今回本書を読了して、正直に言ってそれほどいわゆる「意識の流れ」的表現を明確には意識することはなかった。ただ、先述したように、そもそも本書は全体を通して作中人物が作中人物について語っているという構造を取っており、それゆえか、直線的に時系列通り物語が進行するということはなかったように思う。つまり、それはあたかも実際の人間の思考回路のごとく、行き当たりばったりに、思い出すままに語られている様を表現しているとも取れる。「意識の流れ」的手法について詳しい定義などは分からないが、偶発的で動的なイメージの連続で人間の意識が成り立っているとする、ということならば、本書におけるそれぞれの人物の語りのとりとめのなさが、そうした表現の一端と言えなくもないのだろうか。

  • 混血を許容できなかったゆえの一族の衰退。
    ボンが不憫。父親に一言だけでも声かけてもらいたかったんだね…。

    この話はクエンティンとの影響という観点から見ても面白い。妹への執着、理想化あたりはヘンリー、ジュディス、ボンの3人の話から感化された可能性ありそう。『響きと怒り』と併せて再読したい。

  • シュリーヴとクエンティンが、サトペンやその子供たちについて語る?議論し合う?下巻。重厚な畳みかけ、繰り返される主題の本質は、結局彼らの言葉を読んでいて掴めるわけではないけれど、しかし真理に触れていきそうで旋回するその虚像たちはとても濃厚で、物語の真理以上に物語らせるフォークナーの筆致に呑まれる。訳すの、本当に大変そう‥‥すごいなあ。
    ようやく、四年かけ、ボンを兄と認め、妹への近親相姦を許したヘンリーにさらに畳みかけられる真実は鬼気迫る。「それじゃあ、君が我慢できないのは、人種混淆の方であって、近親相姦じゃないんだね」「あなたは僕の兄さんなんです」「いや、そうじゃない。俺は君の妹と寝ようとしている黒人なんだよ。君が止めなければね、ヘンリー」
    「わからないかい? それは彼が心の中でこう思ったからなのさ、「もしヘンリーが本気でああ言ったのでなければ、何の問題はない、もしそうなら、自分が写真を抜き取って破ってしまえばいい。だが、もし本気でああ言ったのだったら、彼女に向かって、自分はだめな人間だから、自分のことなんかで悲しまないでください と言うためには、それしか方法がないだろう」と。そのとおりじゃないかい? そうじゃないかい? 絶対そうじゃないかい?」

    貧乏、格差、人種混淆、近親相姦、戦争、血、罪のありかは、勿論あかされない。そんな簡単に南部が語りきられるわけがない。シュリーヴに問われ、クエンティンは答える。南部を、憎んでなんかいるもんか! そういうものではない。土地のその磁場を濃厚に描いた、強く濃厚な作品。

  • 上巻は(書かれる内容は岩波版だからかていねいに前もって解説されてるけど)複雑すぎる文体に苛々しながら読んだ。
    下巻はもう一息に読むって決めて読んだら、すごい感情移入した。
    近親相姦への恐れだとか後半の人種差別の意識だとかにも濃さを感じたが、一番胸に迫ったのは父親にけして認知されない息子ボンの描写だった。あと、後半で65歳の執念深いローザ叔母さんの挙動に萌えた。
    でもやっぱり俺みたいなちっぽけな人間には、空間的にも歴史的にも大きすぎたわ。

  • 「アブサロム、アブサロム!」上巻はフォークナー恒例の、独特の読みづらさに呻吟した。だが、下巻では少し読み易くなっていた。これは、ハーヴァードの大学生シュリ―ヴリン(クエンティンの学友)が聴き手のようになって、語りを進めてゆくという形式のためもある。

    クエンティンとシュリ―ヴが、あたかも記者か歴史家のような感じで、サトペン一族の興亡史を、その物語を、ひもといていくスタイルになっている。
    恐らくフォークナー自身が一旦否定し捨て去った「神の目線」の語り口という小説技法が少し復活していて、読み易さにつながっている。そのため、フォークナーの他の小説に比べると、物語をある程度受け止めることが出来た、という読後感があるのだ。

    下巻では、線の太いストーリーがしっかり彫り込まれている。山岳地帯に生まれたプアホワイトだったトマス・サトペン少年。父の使いで訪ねたある邸宅で、黒人執事に門前払いを食った経験。その屈辱を機に、トマスサトペンは立身出世の構想(デザイン)を胸に秘める。西インド諸島のハイチに単身渡航し農場で働き、農園主の親娘と縁を築き、財産づくりの基盤を作る。その後、その娘と最初の離婚。大勢の黒人奴隷を連れて米国南部に帰郷し、ヨクナパトーファ郡に広大な地所を入手し、大邸宅と農園を建設。しかし、ハイチに残した元妻はその後息子を生んでおり、その青年は米国南部に出現。トマス・サトペンの実子である息子ヘンリーと娘ジュディスに接近。サトペンは自分の血をわけた子たちの近親相姦、そしてハイチの子に黒人の血が混じっていることから、実子の血がサトペン一族の血に入ることを忌避。
    その後「犬神家の一族」の如き、血の復讐劇が展開してゆく。さらに、南北戦争による「祖国」荒廃の惨状も加わり、壮絶なほどドラマチックな展開に至る。

    というわけで、フォークナーの主要作品のなかでは、本作「アブサロム…」を最も、favoriteと感じている。
    映画化してほしい感じもする、監督はアンソニー・ミンゲラで。
     

  • 長いセンテンスが多く本当に読みきれない、他人に語る長いメッセージというものは届かないものだなと実感

全15件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

一八九七年アメリカ合衆国ミシシッピー州生まれ。第一次大戦で英国空軍に参加し、除隊後ミシシッピー大学に入学するが退学。職業を転々とする。地方紙への寄稿から小説を書きはじめ、『響きと怒り』(一九二九年)以降、『サンクチュアリ』『八月の光』などの問題作を発表。米国を代表する作家の一人となる。五〇年にノーベル文学賞を受賞。一九六二年死去。

「2022年 『エミリーに薔薇を』 で使われていた紹介文から引用しています。」

フォークナーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×