- Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004201755
作品紹介・あらすじ
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。
感想・レビュー・書評
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#2024年に読んだ本 30冊目
#5月に読んだ本 1冊目
随分前に買ったのだけど
ずっと寝かせておいた本…
たいへん興味深い内容詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
▼素晴らしい本です。馬鹿を承知で煎じ詰めると、方言がことばであり、文法とか正誤など些事であり、そこにヒトの愛着と歴史があり、国家なんぞ超えた普遍の価値がある。国家は国家のために言語にマルバツをつけてレッテルを貼るが、それはそれそのように理解せねばあかんぞな、というような。
▼(引用)人の精神には弱いところがあって、何かきちんとした数字が示され、それが教科書などに印刷されると、やっと落ちついた気分になって安心できるというところがある。
▼(引用)言語とは、それを構成するさまざまな諸方言をまとめて、その上に超越的に君臨する一種の超方言とする考え方である。それは頭のなかだけで描き得るきわめて抽象的なものであるから、誰にも話されていない、いわば日本語という名と、それについての観念とだけがある抽象言語とも言えよう。したがって言語とは、多かれ少なかれ頭のなかだけのつくりものである。別の言いかたをすれば、言語は方言を前提とし、また方言においてのみ存在する。それに対して方言は、言語に先立って存在する、よそ行きではない、からだから剝がすことのできない、具体的で土着的なことばである。それが観念のなかのことばではないという意味において、首都で話されている日常のことばは、厳密な言いかたをすれば、極度に観念のなかの標準型に近づけられた首都方言である。
▼スカして言えば、「そうに決まってるやんか」ですが、それをねっとりと情熱プラス実証で語る本書は、時を超えて残したい名著です。しかも平易です。たれでも読めます。
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国語、国家語、母語、母国語、方言、俗語ーー。これらの意味の違いを明確に言える人はどれだけいるのだろうか。ラテン語とラテン系諸語にも明確に線引きができるという。
「イディオム(固有語)という語は、一社会固有の特徴を反映するものときての言語をすこぶる適切に示す」ーー。こうしたソシュールのことばをベースにしつつ、言葉の持つ意味を多義的にとらえられる名著。日本という国にいるとなかなか感じない視点でもあるが、アイヌ人や在日朝鮮人の話にも通じる。40年前の本とは思えないほど新鮮だった。 -
学生時代に読んでうなってしまった。いまだに再読している。
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「ぼくたちは国家の中で生まれ育つので、よほど意識しないと、取り立てて「国家とは何か」を案が得ることは無い。しかし、非日常的な空間でそれが呼び覚まされる時がある。例えばワールドカップやオリンピックでは「日本」を「日本人」として応援したりする。旅行や違う文化に触れた時も自分が「日本人」として生きていることを実感したりする。
・「国民国家」とは、今から200年のヨーロッパにおいて、特にフランス革命とナポレオンの時代に「方言」ではなく標準語を話すよう強制され、それによって自分たちは同じ「民族」であるという考えが形成され始めた。このように、排他的な領土を持った上で、理念上は一つの民族が、一つの言葉を持ち、一つの文化、一つの宗教、一つの歴史を共有すると信じるようになった国家のことをいう。
・「国民国家」建設に成功すれば、政治的にも経済的にも、そして軍事的にも中央集権化が進むので、他国との競争は有利に働く。しかし同時にそれは、国内の少数民族など「マイノリティ(少数派)」に対して同化の権力を加え、非寛大な社会を構築することにもなった。」
(『世界史読書案内』津野田興一著の紹介より)
「だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す。」
目次
1 「一つのことば」とは何か
2 母語の発見
3 俗語が文法を所有する
4 フランス革命と言語
5 母語から国家語へ
6 国語愛と外来語
7 純粋言語と雑種言語
8 国家をこえるイディシュ語
9 ピジン語・クレオール語の挑戦 -
ことばがどうやって生まれるかを考えたことがなかった。あらゆる言語はピジンであることに気付き、驚いた。言語学の奥の深さを感じた。
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“ことば”というものを“国家”との関係性で見つめることが無かったの自分に愚かさを感じさせられた。
“母語”はそこに暮らす“なかま”たちのコミュニケーションのための必然として生まれてきたものであり、それがそのなかまたち(民族)の文化を作り上げ継承してきたものなのだから、それを奪われたり、他の“ことば”を強要されることは、その断絶を意味することなのだ。だから、地域紛争は複雑で国家が操る政治で決着をつけようとすると必ず拗れることになる。
単一民族の日本人だからこのことを知らなかったのは仕方がないと、言い訳がましい言い訳を考えていたが、アイヌ、そして琉球で起きた“日本語”への統制の歴史を知らされ、彼等の嘆きを想像すると、
またしても、“国家”というものへの不信感を強め、それらにも思いが至らなかった自分の歴史観に愚かさを抱いた。
良書。見えなかった視点をくれた。 -
言葉には話し言葉と書き言葉があります。
歴史的に見て、勿論話し言葉先にありました。
多くの人びとが文字によって自分の思うことを伝えはじめたのは本当に近年のことであります。
医学博士・野口英世の母は使い慣れない文字で外国にいる息子に、
すべてひらがなで、「はやくきてくたされ」と3度も繰り返しす一通の手紙を送りました。
明治の世ですらこのような状態でした。
でも、野口英世はその母からいろいろなことばを教わり、その世界を広めていったのです。
ここにことばに関する名著があります。
田中克彦著「ことばと国家」(岩波新書)であります。
「こどもが全身の力をつくして乳を吸いとると同時に、かならず耳にし全身にしみとおるものは、
またこの母のことばであった」著者はこれを母語とよんでおられます。
だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はないのです。
したがって、すべての母語は厳密にいえば皆違っております。
でもその地域の母語は概ねおなじでしょうが、他の地域とは異なり、
さらに民族によってはまるで違ってきます。
人類の歴史のうえではこうした状態が長く続いたことでしょう。
時代が下るとその地域を束ねる人がやがてあらわれてきます。
彼がやらなければならないことは沢山ありました。
時間、暦、尺度、貨幣など統一などですが、
何より急務はが文字を使ってのことばを統一することではなかったでしょうか。
一部のエリート層によって文字を書き、読む、
それを話し言葉でその内容を民衆に伝えるだけで十分だったのです。
この著書の中で、その特異な例として、
フランス語そしてユダヤ人のことばについて詳しくのべられています。
フランスという国はいわゆるフランス語の他に今でも
オック語、ブルトン語、アルザス語など多くの言語があるそうです。
しかし国内ではフランス語以外の授業がおこなわれることはほとんどない。
また名前もナポレオン法典にで示されたわずか500余りの名前しか使えないそうです。
ユダヤ人に関しては流浪の民といわれるように、彼らには固有の言語がほぼ失われてしまった。
イベリア半島のユダヤ人や中・東欧のユダヤ人(アシュケナージ)などは
その地域で生きゆくためそのことばに同化していかざるをえなかった。
つまり母語が時代、住む地域によって変わっていったのである。
ロシアに流れ着いたユダヤ人たちはレーニン、スターリンなどによって徹底的に無視された。
そのユダヤ人たちが、英国、米国の画策によってイスラエルという国を与えられた時、
彼らがまず直面したのがことばの問題であった。
中・東欧のユダヤ人の話言葉のイディシュ語だけでなく、
世界から集まったユダヤ人のことばさまざまであった。
そこで統一言語として使われたのが聖書にあるヘブライ語であった。
ヘブライ語は聖典にのみ使われる聖なることばで、
日常語として使われることばタブーとされていたのである。
そして今、ヘブライ語は母語になっているのでしょうか?
私はこの本を読むことによって、
ことばと文字がいかに時代、政治、社会によって変貌をとげるものかということを
目からウロコが落ちる思いで一気に読み上げました。
最後にこの言葉によって締めたいと思います。
『言語は差異しかつくらない。その差異を差別に転化させるのは、
いつも趣味の裁判官として君臨する作家、言語評論家、言語立法官としての文法家、
漢字業者あるいは文法的精神にこりかたまった言語学者、
さらに聞きかじりをおうむ返しにくり返す一部の新聞雑誌製作者等々である。』 -
言語と方言。祖国と故国。母国語と母語。話し言葉と、書き言葉。
母語とは、母から口語で聴いて自然と受け継いだ言葉。
ユダヤ人や、第二祖国を持たない、日本人である自分は、母語≠母国語でなく、故国・故郷とは別の祖国を意識する事がないが、都内で仕事・生活を続けるにあたって、方言が自分の中から失われようとしている現実は、故国、母語をも失い兼ねない事になるのだと気付かされた。 -
文藝界202211月号 大友良英紹介