読書と社会科学 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004202882

感想・レビュー・書評

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  • 物的装置と概念装置

  • [ 内容 ]
    電子顕微鏡を通して肉眼では見えない世界を見るように、社会科学では、概念という装置をつかって現象の奥にある本質を見きわめようとする。
    自前の概念装置をいかにして作るか。
    それを身につけることで何が見えてくるか。
    古典を読むことと社会科学を学ぶこととを重ね合わせて、本はどう読むべきかの実習を読者とともに試みる実践的読書論。

    [ 目次 ]
    1 「読むこと」と「聴くこと」と(はじめに-読書の問題性;読みの構造;読み深めの諸相;聴くということ)
    2 自由への断章(創造としての読み;経験科学の創造に向けて)
    3 創造現場の社会科学-概念装置を中心に(はじめに-問題の所在;日常語で見えるもの;社会科学のウルトラ・アイ?;概念装置の手作りを)

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    [ 参考となる書評 ]

  • 人文社会科学の書物を読み、深く研究するということはどういうことなのかを考えさせられました。学問研究のすばらしさと難しさを感じました。

  •  古典をどうやって読むのか、そもそも古典とは何か、古典をなぜ読む必要があるのかについて書かれた本である。「論語読みの論語知らず」という言葉がある。本「を」読むのではなく、本「で」モノを読む。これが肝心である。最近の人が陥りがちな読書の問題点について、大学教授である著者が自分の考えを述べている。

     古典を読む目的は、自分の頭の中に「概念装置」を作ることである。概念装置を通して人は物事を見ており、概念装置が出来上がっていれば真理が見える。「論語の論語知らず」にならないためにも、古典を自分の身にするには、著者を大事に本を読んで、そこに自然に浮かび出る自分自身の感想を何よりも大切にすることが必要である。
     つまり、「①一番面白かったのはどこか」,「②なぜ自分は面白かったのか」を明確にすることが重要である。今回の場合で言えば、自分はこれまでとにかく読んでみたが全く身についていない古典がいくつかある(まさに自分の場合は「論語」がそうなのであるが)。この問題を解消するためにも、自分が感じたことを明確にする必要があると考えられる。

  • 本を読む目的は認識の手段としての概念装置を獲得することにある。
    著者が使った概念装置を、自分の眼でも認識の手段として使えるようにする。
    肉眼のままでは気付かなかったことでも、学問的な装置や仕掛けを使うことで見えてくるものがある。

    読書会の鍵はどう話すかではなくて、どう聴くか。

    古典は深く読めば読むほど人によって理解の仕方が異なってくる。
    主観性を排した読み方ではありきたりな要約しか出てこない。

    感想文を書く目的は自分の考えを他の人にも伝わる形にまとめることにある。
    だからといって最大公約数的な浅い感想文になってしまっては本末転倒。
    本は感想にまとめやすい形で読むべきではない。

  • 評者はこれまで49冊の本の書評をしてきたが、本書を読んで改めて”本を読んでいるのではなく、本に読まれている”という感想を持った。少なくとも政治・経済学のジャンルでは各筆者の意見に左右されがちである。
    また、評者は読書感想文というのが非常に苦手で、論文の方が好きであったし、実際、卒業論文に熱が入ったものだが何故読書感想文が苦手なのかを代弁させてくれた感じがする。
    本書は筆者のこれまでの経験から書かれた読書論であり、社会科学に重ねることによって本をどのように読むかを書いている。
    筆者によると”読み”には「情報としての読み」と「古典としての読み」の2通りがあるという。その違いは一読明快か否かにあるという。まさに評者が古典を勉強してきたときはそうであり、今更のように書評をしているが、「昔読んでいたのとは違って見える」と感じる本が何冊もある。それは古典に限ったものではないが異なった視野から見れるようになったのかもしれない。それに他人によって受け取り方が全然違うのである。
    前述のように評者は読書感想文が非常に苦手である。その理由は筆者によると「読書感想文を書きやすい本を読む」のに奔走していたからである。まさに的を射られた感覚であった。
    筆者が書いている”本を読め、本に読まれるな”はまさにそのとおりであり、何も経済学に限ったことではなく巷に出回っている本に対しても自前の概念装置を組み立てて物事を見ていく必要性を十分に痛感させられた。また、情報時代にあって今では何でもインターネットで検索できるようになっているが、それらは本書に従えば情報に押し流されるだけで自分の情報にならないのではないか?単純なことを調べるならばそれでいいのかもしれないが、情報を自分の概念装置として組み立てる必要がある場合、例えば大学の卒業論文や小論文はその典型であろうと思うが、自分なりの基軸をしっかりと持っておくことが大事なのではないかと感じた。
    筆者は強烈な印象のある芝居などを見ると、すぐには感想が浮かばないという。それは筆者によって与えられた余韻が分かり難い「もや」のようなもので残るからであるという。それが表現しがたいものになるとしている。

    論文であれ、読書感想文であれ本書を一読してから作品として作っていきたいと思わされる一冊である。

  • 古典を古典として読む。自分の中に概念装置を組み立てる。社会科学の初学者向けに、平易な語り口で語ってくれているが、中身はとても深い。今後の読書の羅針盤として。

  • 哲学の先生が薦めた本だったけど、まあまあだったような。

  • 久々の読書。読みにくかった。内容が頭に残っていない。「古典を古典として読む」だったっけ?

  • 読書について、情報としての読みと古典としての読みがある。古典としての読みはモノを見るための目を獲得する手段として読み、読み直すとより深いことが見えてくるような本にたいして行う。
    概念装置を得るために読書を行う。モノを見るときに新しいことを見いだせるようにするためのフィルターのようなもの。

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