- Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061975620
作品紹介・あらすじ
詩人の「わたし」と恋人の「S・B」と猫の「ヘンリー4世」が営む超現実的な愛の生活を独創的な文体で描く。発表時、吉本隆明が「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う。村上春樹があり糸井重里があり、村上龍があり、それ以前には筒井康隆があり栗本薫がありというような優れた達成が無意識に踏まえられてはじめて出てきたものだ」と絶賛した高橋源一郎のデビュー作。
感想・レビュー・書評
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非常に評価が難しい一冊。
作品を個で見ていくと完全に詩だが、読後の感覚は小説だった。
取り止めのない言葉遊びや纏まりの無い文章が約350pも続くが、いつの間にか読み終わりしかも一種のカタルシスと寂しい読後感を味わえる。
絶賛は出来ないが、他作で作者の別の顔を見てみたくなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
弟に勧められて読んだ。確か一年位前、熱海へ向かう東海道線の中一人黙々と読んでいたのだが、この本を読むのにその環境は異常にマッチしていた。
私にとってははじめての高橋源一郎作品。もうちょっと小難しい文章を書く人だと勝手にイメージしていたのでこんなにとっつき易いと意外だった。しかし、内容は決してとっつき易いというものではない。難しい。
斬新で奇妙な。
斬新な小説なんて滅多にないからうれしい。
今もう一度読みたいと思うし、何度読んでも分からないんだろうという気もする。-
「何度読んでも分からないんだろう」
私も雰囲気だけ愉しんでいます。莫迦馬鹿しく思いつつ高橋源一郎が操る言葉に溜息ついてください。。。
次...「何度読んでも分からないんだろう」
私も雰囲気だけ愉しんでいます。莫迦馬鹿しく思いつつ高橋源一郎が操る言葉に溜息ついてください。。。
次のお薦めは、映画「ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け」
パンフレット画像だけ載せておきます。
http://nyankomaru.tumblr.com/post/68102132987/1986-8-1-parco2014/04/05
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“率直さ”或いは純粋さ。
「あ、雨だ」とか「彼女はくすりと笑った」とか「それってどういう意味なの?」とか。
思わず口にしてしまう言葉とか、とってしまう反応。
“率直さ”はそれだけで可愛らしくて、ほっとする。
なんだかそれは、タイムテーブル上を余すことなく敷き詰めている私たちのベルトコンベヤーにおける小休止みたいじゃない?
“わたし”がとても可愛らしい。
わたしという主語一般を文面で見れば、どちらかというと固苦しいのだけれど。
この“わたし”は柔らかくて、少しおどおどしていた、始終肩をすくめていて、ユーモラス。
現実に対して超然とした態度をとる“わたし”に魅力を感じるのだ。
自分の名前を自分でつけるようになった人々は、自分でつけた名前と殺し合いなった。
そうして“わたしたちは「死」に慣れっこになった”。
次いで、恋人たちが互いに名前を付けあうようになった。“それが求愛の方法”らしい。
“わたし”は彼女を「中島みゆきS・B(ソングブック)」と名付け、「さようなら、ギャングたち」と命名された。
A:自分の名前を自分でつけるようになった人々は、自分でつけた名前と殺し合いなった。
実は馴染み深い表現な気がする。ぱっと思いついたのは千と千尋で、湯ばあばに名前を取られてしまう場面だ。次に、ゲド戦記。クモに名前を教えて、支配されるアレン。
名前に籠る霊力が取り沙汰される。
自分たちで付けた名前と殺し合いになるのは、名前を付けた本人は名前を付けられた当人と全く別物の存在で相容れないからかもしれない。わたしたちは赤ちゃんのときに、自我が芽生える前にはもう親からの与えられた名前を持っている。
ああ、いま呼ばれているのはわたしなんだなと理解することができる。
わたしは名前のあとから生まれてくる。
とすると、名前を付けるのはすでに“居る”わたしから、総スカンを食らうような者だ。やっぱり名前は、与えられなくちゃならないもの。恋人につけてもらう名前とは、もう一つの人格であり、新しい存在だと思うと、イカした求愛だなと思う。
命名された「さようなら、ギャングたち」の説明らしい説明がないままに、猫のヘンリー4世とS・B
との幸福な生活が続く。生まれた娘が死に、S・Bは失踪した。
>役所はわたしたちが死ぬ日を正確に知っていて、その期日をハガキで通知する。
20歳以上の者には本人、20歳未満と禁治産者にはその保護者にハガキを送る。
死んだキャラウェイはまだお喋りが出来る。
死んだ人間が、すぐに処理されてしまい、見えないところまで遠ざけられてしまうのもまた、この物語 世界に特有の慣習じゃない。
役所に死体が回収されるわけではないけれど、僕らの世界でも、病院から死体安置所へ、そこから葬儀屋へと運ばれていく。とてもスムーズに。
生と死もやっぱり手続きで、役所が代理業者のように、その手続きを円滑なものにしている。
死体とずっと一緒にいたこともないので、手続き的な死の他に、まだ違う種類の死もありそうだ。
役所までの道で死んでミイラみたいになった赤ん坊を抱えた母親に出会う。母親は長い間、死体を抱えてそこに留まっているのかもしれない。
>「ギャングになったほうがずっといいわ」
ギャングはこの手続き的な死を回避できるのか?
もし出生したことすら届けなければ、死のハガキは届かないのだろうか?
S・Bが戻って、ギャングたちに襲撃される。
S・Bもまたギャングだったみたいだ。
目の前で射殺されたはずのS・Bがガラスの眼になって復活する。
>「ギャングは何回殺されても生きかえります。ギャングを選択した者は殺されても殺されても、その度に、生きかえります。わたしたちは、顔がつぶされない限り、いつまでも、いつまでも、いつまでも、ギャングなんです。」
Q:「さようなら、ギャングたち」とはどう意味なのか?
S・Bが“わたし”/S・Bと“わたし”のふたりにおける関係性“わたし”へと命名したこの名前は、別れを告げられるのがギャングたちであった点で、“わたし”自身がギャングたちへ別れを告げる主体だったのか?それとも、“わたしが”S・Bに中島みゆきS・Bと名付けたように、その名詞が最もS・Bの愛した何かだったのか?
「さようなら、ギャングたち」は作品だ。
もし作品である「さようなら、ギャングたち」を“わたし”に命名したのだとすると、作品に言及したS・Bとギャングたちは、まるで作者のような立ち位置に変わりはしないか?
>「くだらないなぁ、実際。最低だよ」
>「ほんとうにこんなの最低だわ」
>「最低って、最低ってことなのね」
Q:美しいギャングとS・Bが最低と言った「こんなの」とはなんだったのか?
ギャングたちへの一斉掃射の制裁?/警察機構という暴力?
ギャングという人間とはまた違った生き物の存在を認めない社会のこと?
何が最低なのか分からないまま、場面が切り替わって、トーマス・マンが実在しない世界でトーマス・マンの短編集を求めて彷徨い始める“わたし”。
>「あんた、ギャングなの?詩人なの?」
>「お前が何なのか、おれには全然わからんよ」
ヘンリー4世を弔ったわたしは、サブマシンガンを手にして、「ニュース・キャスターに殴り殺されたギャング研究家」らしき像を殺害し、幼児用墓地の受付の女を爆殺し、自殺する。
ギャングになりそこなった“わたし”の像が語るものを考えてみる。成し遂げられなかった革命と、その償いとしての傷の物語。 -
この作品について長い感想が書けるほど私の感性は磨かれていない。
はじめは現実離れした内容と浮遊感に戸惑い、合わないかもしれないと思ったが、テンポの良さに惹かれて面白く読んだ。
主人公の子キャラウェイの描写、主人公が詩を書くところだけ妙に現実的で、好きだった。
結論、好きな文章はところどころあったものの理解はできず、雰囲気を感じリズムを楽しむまでに終わった。このような読書体験も悪くない。 -
何年振りだろう、実家にあったのを再読。20代の頃に(複雑でもないのに)全然ストーリーが掴めなくて、なんだこりゃとなってた(なぜか驚くほど文章は覚えてたけど)。再読して、すごく面白かった。ここ数年、作者の他の著作や、勧められてる作品、あるいはラジオ番組をよく聞くようになって、この作品がようやく楽しめるようになった気がする。
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高橋源一郎、1981年のデビュー作。10代の頃に読んで以来超久々の再読。今読んでも古いと感じないのがすごい。そしてその間に高橋源一郎を越えるこのジャンルの作家が出ていないことも。
「名前」にまつわる架空のヒストリーから始まり、自分でつけた名前と殺し合うという突拍子もない時代を超えて、恋人同志が互いに名づけあう時代。主人公は猫の「ヘンリー四世」を連れた恋人に「中島みゆきソング・ブック(通称S・B)」と名付け、彼女は主人公を「さようなら、ギャングたち」と呼ぶ。
S・Bと出逢う前に一緒に暮らしていた女性、彼女との間に生まれた「キャラウェイ」という娘、ある日突然役所から届く死亡通知、幼児専用墓地までの道のり、詩の学校で詩を教える仕事、変な生徒たち、冷蔵庫に変身したヴェルギリウスなどを経て、S・Bとヘンリー四世との穏やかな生活を送る主人公のもとへ、しかし4人のギャングがやってくる。彼らはS・Bの元仲間だった。
・・・と、あらすじを書きだすことにあまり意味はないのだけれど自分の備忘録メモとして一応。整理してみるとこうして書き出すことのできる「あらすじ」があることに逆に驚くくらい、読書中は支離滅裂な細切れの断片を次々クリアしているだけの印象しかない。
にもかかわらず、高橋源一郎の何が良いかというと、バカみたいなことばかり書き並べてあるにも関わらず、なぜかいつもちょっと切ない。物悲しい。こういうのなんて呼べばいいんだろう?センチメンタリズム?リリシズム? とにかく一抹の悲しみ、胸がギュッとなるような切なさが常にどこかに潜んでいて、表面的なポップさよりも、そっちに心をつかまれてしまう。そこが他の作家にはない魅力なんだよなあ。 -
初めて高橋源一郎を読んだが、天才だな。
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出だしの大統領はよかったけれども、あとは乗っていけなかった。
エロ・グロ・ナンセンスがまだ芸術だと思われていた時代のもので、賞味期限切れだよなと思う。 -
高橋源一郎さんは初めて。ポップでシュールな文体、印象的な進行、などと激賞された一冊ではあるが、個人的にはよくわからなかった。確かに、前半は引き込まれたが、中盤以降は飽きてしまうというか、馴染めなかったなあ。なんでだろう。
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イメージ?の断片が飛び交う、浮遊感?漂いまくりの作品だという感想を持った。
格好つけてなんとなくでも分かった気になろうとしたけど、やっぱりさっぱり分からなかった。
先に解説を読んでおけば微かにそれっぽい匂いを感じることができたかも知れないが、結局分からないことに違いはなかったろう。