- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061976122
作品紹介・あらすじ
20年前に北九州から上京した時に着ていた旧陸軍の外套の行方を求めて、昔の下宿先を訪ねる1日の間に、主人公の心中には、生まれ育った朝鮮北部で迎えた敗戦、九州の親の郷里への帰還、学生時代の下宿生活などが、脱線をくり返しながら次々に展開する。
他者との関係の中に自己存在の根拠を見出そうとする思考の運動を、独特の饒舌体で綴った傑作長篇。
感想・レビュー・書評
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ものの本や参考文献、解説なんかを読むと非常にイレギュラーな、私小説における方法論としてはかなりのイレギュラーであるらしいんだけど、世間一般でいうステロタイプとしての「純文学」に一番近いんじゃないかと思うのだった。
そのほかの読解やら技法については各種文庫版の解説を読むのがいいと思うのです。もうそれ以上のものはありません。
主人公の男がふと「あの外套はどこへやったかしらん」と思い出すところから、えんえんと男の過去の形跡をたどりつつ、でも結局見つからない、とそれだけの話です。それだけの話、なんでお前の思いつきにつきあわなあかんねん、と、なんとなく釈然としないままずっとつきあっていってしまうような、そこんところの「書き尽くす」引力がいかにも純文学なのです。
芥川だの太宰だのはまだストーリーがあるぢゃない。「人間失格」なんか今度アニメになるらしいぢゃない奥様。ただそうではなく、なんだかその作家自身の内的独白とゆーか己の喪失を埋める行程というか、なんかそのへんのずるずるとした感じ、文学が文学であるがゆえに忌避される要素。何で忌避されるかと云うと、この辺は言わずもがなですが、このあたりの「リアル」は「おはなし」を求める側からすれば非常に不気味に写ることでしょう。
だからそれこそ、「書き尽くしてある」のが値打ちだというほかないのです。これも小説、いや、これが小説。なんかその辺の大前提を確認する意味で、手にとってみるのも、いいのではないかしらん。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
アカーキー・アカーキエヴィチの『外套』を元に、赤木が外套を探すユーモラスな設定。
脇道に逸れまくる注意散漫な語り口は少し苦行に感じてしまったが、意欲的な構成と表題の意味に感心した。
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北九州から大学受験のために上京してきた20年前に着ていた旧陸軍の外套の行方がふと気になり、探しに出かける一日のはなし。
それだけ。ほんとにそれだけのはなし。
主人公は妻子あり、草加の公団住宅に住む中年のサラリーマンという平凡なのが特徴といってもいいくらいに平凡すぎて魅力的じゃないし、案の定というかやっぱりというか、外套はもちろん見つからないし、だいたい外套を探す小説を書く事自体がゴーゴリの『外套』に憧れすぎて自分も『外套』を書きたいからなのであって。自分の小説を書きたいけどかけないからやむなく模倣する、てわけでもなくて、自分の小説が書きたいとはそもそも思ってなくて、『外套』が好きだから『外套』が書きたいんだってのが可笑しいようなアホなような。
でも、読み進めるうちに、戦中と戦後の断絶の挟み撃ちにされて宙ぶらりんに放り出されたままの主人公の気持ちも何だか段々とわかってくる気がしないでもない。中断あたりで唐突に始まる、兄との「とつぜん」「とつぜん」の大合唱の脳内口喧嘩が混乱していていい。
物語のなさと、
脱線に次ぐ脱線と、
ほとんどが内省的な記憶の中の出来事であることと、
要素だけ抜き出すと読みにくそうなんだけど、なぜだか実にスラスラ読める。饒舌だけど熱に浮かされている訳でもなくて、どこか滑稽ですらあるような軽さが文章そのものにあるんだと思う。
僕なんかが言うのもおこがましいんですがね、こりゃね、傑作ですよ。
「お前は、子供のときから兵隊になりたがりよったとやけん、よかやないか」
と
「バカらしか、ち!」
の挟み撃ち。 -
何で外套のゆくえが気になるのかとか、結局外套はどうなったのかは明かされないし、赤木さんの語りはときにいらだたしいほどに的に当たらない。仕事中の人にいきなり電話してだらだら話してはいけない。
でも、とりとめないように見える回想はきちんと時系列に沿っていて、「おにいさん」としか呼ばれようのなかった自分に属性を追加していくかのようだ。僕の人生はいつだってとつぜんでしたよ、と言いながらも、自分が何者なのかを求めようとする願いがほの見えるような気がした。
おかしみやなつかしさの向こうに、終戦でそれまでの夢や価値観をぺちゃんこにされてしまった世代のかなしさというか身の置き所の無さを感じる本だった。 -
「とつぜん」財布が消えたとか、「とつぜん」彼はいなくなったとか言うが、この小説の主人公の場合「あったはずの私の外套がとつぜん消えた」ことが問題になる。しかし本当は「とつぜん」なんてことはない。そこには何らかの境界があるはずで、だから主人公は「あった」と「消えた」の間で、というより(あの外套を着ていた)戦前と(あの外套をなくした)戦後の間で「挟み撃ち」を食らうのである。一種の戦争後遺症。
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久しぶりに独特な、後藤明生を初めて読んだので、これが後藤明生の特徴なのかまでは分からないが、そういった小説を読んだ。解説の通り、この小説が外套を探し求めることをきっかけに、〈わたし〉の記憶を遡行するものだとすると、保坂和志の『この人の閾』では外套に該当するのが大学の先輩だったと思える。この二つは構造的に似ていると言えても、挟み撃ちは連想ゲーム的な思考で中盤から全く話の筋から脱線してしまうので少し大変だった。それでも話、思考の続きが気になるので楽しく読めた。
解説がすごい -
後藤明生による挟み撃ち。お茶の水の橋の上から始まり、お茶の水の橋の上で終わる外套を求めて蕨、上野、お茶の水を移動する。ある意味何も起きないけれど、北九州、朝鮮、草加、上野の記憶を行き来する。日光街道に沿って作られたいまの東武伊勢崎線と中山道に沿って作られたJR蕨、そして両者を結ぶ上野。挟み撃ちとは何なのかという話でもあるけれど、お茶の水に挟まれてもいるし、蕨と草加、朝鮮と筑前などなど、様々な対立する二項が作中に散りばめられている。
何ということはない作品だが文章は上手くさすがという感じ。 -
無くしたものを探すというのは最も無駄な時間ともされている。思考が渦となり人を閉じ込め,外套から戦争へと連想ゲームが展開される。
過度な冗長さは小説であることを疑わせ,文そのものを読むことを強制させる。単につまらない文章であればすぐ目を背けるところを,本作の饒舌はやけに読者を惹きつける。無駄を省いてしまえばほとんど残るものはないだろうが,その無駄の醍醐味を味わうことのできる作品であった。 -
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