対話の哲学 ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜 (講談社選書メチエ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (226ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062584265

作品紹介・あらすじ

"わたし"は世界の中心ではない。"あなた"から語りかけられるときに初めて"わたし"が生まれるのだ。コーヘン・ローゼンツヴァイク・ローゼンシュトックなど、本邦未紹介の近代ドイツのユダヤ哲学とフンボルトの「双数的」言語論を起点に、プラトン以来2500年の自己中心主義の呪縛を解く。

感想・レビュー・書評

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  • 2016.12.24
    現代に至るまで様々な哲学、思想、物語が生まれてきたが、しかしいかなるそれらも対立を免れることはできなかった。それはそれらが、人に向けて語られていると思いきや独り言をいっているかのような、「モノローグの哲学」であるからである。だとすれば現代において求められているのは「対話の哲学」である。「対話の哲学」とは、私とは絶対の異質性、差異性を持つ他者と、一致することなく、そのような基盤なく、異質なまま関わることについての哲学である。むしろ、「私」と「汝」が同じならば、対話の意味はない。つまり差異性こそがコミュニケーションの基礎である、その一方で「私」と「汝」では、絶対に分かり合えない部分もある。
    「対話の哲学」の源泉は、ユダヤ教、そしてユダヤ人の哲学者たちである。歴史的に抑圧され続けてきた彼は、自らの民族に変えることもなく、自らが不当に排除された方法とは違う方法で、異民族らと関わる方法を模索した。その過程で、「モノローグの哲学」はどうやっても排他的になることを見出した。モノローグは、絶対的な正しさを追い求めるからである。しかし、「〜である」ということは、必ず、「〜でない」ものを生み出す。つまり独り言は初めから、この言葉の外側を許さない。これに対し「対話の哲学」は、その外側、つまり「他者の超越」をそのままに関わりを考える哲学である。
    ヘルマン・コーヘンの『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教』の外観は、やはり難しかったけど、とても新鮮だった。特に、カントの倫理観を、複数の私に対しての倫理にしているという指摘は感動した。その通りである、私はあなたを理解するというとき、それは「あなた」ではなく、私に解釈され、もしくは私が投影された他者、つまり「私」なのである。絶対的な異質性、わからなさを含まざるを得ない「他者」との関係とは、因果関係ではなく、「相関関係」である。
    ローゼンツヴァイクの『救済の星』。伝統的なモノローグの哲学から対話の哲学へ。
    モノローグ哲学の特徴
    ①言語に対する信頼を欠いている
    …つまり日常においては個体名を名指す常識的な言語では飽き足らず、その裏側、全体性、本質を見ようとする
    ②時間に敵対的である
    …本質は不変的である、それはつまり時間性を奪うということである。イデア化の必然
    ③他者の存在を無視してしまう
    …答えを自らの自問自答、思考の中で見出そうとするから。「これはなんであるか」は、他者へでなく自分に向けられた問いである
    このような全体性の哲学に還元できない、「私」という存在の独自性を発見したのは実存哲学である。そしてそのような死ぬ存在、一回きりの存在、「各自存在」である私は、私の環境に規定されず無限に意志する(「自由の意志」)、しかし私は自らが死ぬという有限性を知る、それでもなお、生きようと欲する、この有限でありながら無限であろうとすることを、「反抗的意志」という。この意志によって、各々の各自性とも言える「性格」が作られる、そのような人間を「自己」という。このような「自己」は、かけがえなく、交換不可能であり、孤独であり、倫理を超えている、つまり「メタ倫理的人間」である。これはハイデガーの「本来的な自己」に対応するが、面白いのは、ハイデガーにとっては対話する人間は「非本来」として、死の自覚によってメタ倫理になれというのに対し、ローゼンツヴァイクは、「メタ倫理的人間」から「対話的人間」になれといっている点である。なぜなら対話でこそ、沈黙と応答でこそ、「私」は生まれたのであるからであり、対話的なあり方こそより根源的だからである。「人間は本質的に、<私>=<私>という自閉的な自己意識ではなく、<私=君>という対話的実存にほかならない」。まずこのような、全体性ではなく実存的関係に目を向けること、その上で私ありきの君ではなく、君ありきの、君に応答しうる存在としての私として、考えるべきである。
    対話の一般的構造。我々は呼びかけ、応じることで対話的世界を作り、そこで私とあなたは出会う。呼びかけは応答を期待するという意味で、「ヤァ」という言葉には「返事しろ」という命令が入る。その主体はあなたであり、あなたにおいて「私」が生まれる。つまり「私」とは語り手においてでなく、呼びかけれらた聞き手ににおいて、言語によって初めて立ち現れる。応答可能性によって対話の世界は開かれる。重要なのは「可能性」という点であり、応答しない可能性も含みつつ、「それにも関わらず」応答してくれるということが、「他者」を「仲間」とし、対話となる。他者とは「応答」という可能性と「裏切り」という可能性を含む、私には捉え切ることも、コントロールすることもできない、絶対的な存在、私を越え出ている存在である。
    <私>と<君>の関係のまとめ
    ①<男>と<女>と同様に、<私>は<君>との関係なしにはありえないし、<君>も<私>との関係なしにはありえない
    …つまり他方が他方の定義に含まれる
    ②しかし<男>と<女>が<人間>という集合の二つの部分であり、<男>は<女>にはなれないし、その逆でもあるのにたいして、すべての人間が<私>にも<君>にもなりうるし、またなりうるのでなければならない。つまり、<私>と<君>はたがいにたいしていかなるいかなる外部も持っていない
    …こう考えると、私は私にも君にもなれるし、君もそうである。私にとって君は一見、内部的な存在のように思える
    ③それにもかかわらず、<私>は<君>をみずからの勢力圏に取り込むことができない。むしろ対話がモノローグに堕さないためには、<君>は<私>の外部にとどまらなければならない
    …君が私のコントロールの範囲内ならば、対話の意味はないからである。私と君という役割はいつでも交換可能であるが、私にとって君はいつまでも外側でなければならない、逆も然り
    このような、「内部性」と「外部性」の奇妙な共存の構造は、私と君の関係だけではなく、その関係から開かれる対話の世界の構造でもある。対話は、私と君の自由な意思によって現れるという意味では、両者にとって内部であるが、しかし対話世界が成立すると、沈黙にすら応答の意味が付されるように、コントロール不能な世界、つまり外部性を持つ世界になる。<私>と<君>の関係にも、<両者>と<対話世界>の関係にも、「内部性」と「外部性」が共存する構造が見て取れる。これをローゼンツヴァイクは、時間性で説明する。
    対話の時間的構造
    ①対話は時間のうちで展開されるのではなく、むしろ時間は対話において生起する。というのも、時間が生起するためには、他者が居合わせることが必要だからである
    …語るということがそもそも時間を生み出す。我々が語ったことは全て過去であるが、語る主体は現在にいる。語ることは語る主体の現在から語る内容の過去へ架け橋をつなぐことであり、これを時間化という。
    →ピンとこない。多分、私の構造と同じ。私は他者の応答可能性として成立する。私が時間化として語るということは、このようにして成立した私がないとできない。語る私と語られる私との自己内コミュニケーションが、モノローグであっても、語るという時間化を生む。モノローグの前提となる自己意識は他者との対話から生まれる。よって、他者無くして時間化はできない
    ②対話者がそれぞれみずからの語ることを他者に依存しているということは、対話者が最初のことばと最後のことばを断念することである。しかしこれは、対話者が対話によって開かれた世界のただなかに、そのつど「いま」、現在進行形で生きるということにほかならない。ここからすれば、対話者にとって世界はいかなる「外部性」ももたず、対話者に内在的である
    …モノローグではない対話は、その始まりと終わりを他者に依存している。私が語り出す内容の始まりは他者の応答である=他者依存であり、私が語った内容の終わりは受け取る他者に依存している。語りは、他者に始まり他者に終わる、私の手からは離れたものである。しかし語る私は語るまさにその時、いま語っている、私の意志で、私のコントロールの範囲内で、語っている。今は内在的である、語るまさにその時は対話は内在的である
    ③対話者がそれぞれ他者に依存するということは、彼が「待つ」ということを学ぶということである。「待つ」ことによって、未来はそのつど先取りされる。ここでは、世界は「未だ到来しないもの」としてそのつど存在することになる。世界は対話者にたいしていつでもある一定の超越性を保ち続けるのである
    …語りは応答を期待する命令である。その応答は他者のそれである。私の語りに対する他者の応答は、未来であり、それは予測不可能で、いまだ到来してないというくらいしか言えないものである。語る主体としては「今」=世界の内在を生きるが、対話において相手の応答を待つ主体としては「未来」=世界の超越が立ち現れる。我々は語りながら、未来を待つ。語られながら、未来を待つ。私の内側を生きながら、私の予測不能な外側を待ち続け、聴き続ける。他者とは未来である。

    モノローグとは、「今」しかない、もしくは全体性によって、永遠しかない。しかし対話とは、私の外部者としての他者、つまり未来としての他者を絶対に含む。だからこそ、語ること以上に、待つこと、聞くことが重要なのである。対話の絶対条件は語ることではなく、相手の応答を待つこと、聞くことである。語ることは一人でもできる、しかし待つことは、聞くことは、あなたがいないとできない。鷲田さんが言っているのはこういうことか。
    私と君の、内部性と外部性、これを時間から説明するというのは、面白いなと思った。しかし後はこれを、私の問題関心にどうくっつけるか、である。聞くこと、待つことの重要性を原理的に説明できてる点はいいな、と思う。まずそのためにはモノローグより対話、ということがわからないと。モノローグでは我々は関係しあえない、ということを。
    我々は、関係が問題になる時は、私と君の違いにより互いの自由が侵害される時、もしくは違いが違いを承認できない時、だと考える。自由が問題にされる時、意見が食い違う承認されない時、私と君の違いは鮮明になり、「分かり合えないなぁ」と思う。しかし他者の哲学が明らかにしているように、完全にわかり合うことは不可能である、なぜなら他者とは私にたいして「超越者」である部分を必ず含むからである。もしそれがなければ、それは他者ではない。しかし逆に言えば、分かり合えない部分だけであるならば、それこそ対話の意味はない。つまり私にとって他者とは、分かり合える部分と分かり得ない部分の共存であり、内部でありながら外部である。哲学は、他者の外部性ばかり語ってきて、内部性はどうなのだろうか。外部性はどこまでもありながらも、内部性を拡大していける方法はないだろうか。
    時間性、は、理解はできたけど、なんだろうなぁ。うーん。再読が必要か。原典を当たりたいね。

  • 伝統的な形而上学は「独白」の哲学であり、排除を不可避とする。本書は近代ドイツのユダヤ思想家たちが、独白の呪縛を解きほぐす「対話の哲学」であったことを素描。ローゼンツヴァイクらの優れた水先案内でもある一冊。お勧め

  • 難しかったところもあるけれど、まとめを適所にしてくれていたので、ふむふむと理解できるように書かれていてとても良かった。
    同じ一神教であるキリスト教との違いや、西洋哲学が伝統的に陥っていた「私」の問題がわかる。
    また、最近のコミュニケーション・スキル講座なんかでもよく言われる「聞く」という行為の重要性、「聞く」ことで対話が初めて生まれる、という点など、内容も非常に納得感がある。

  • 最近邦訳が出て話題のローゼンツヴァイク『救済の星』に興味があるものの、その分厚さと価格にしり込みしてしまう。そんなヘタレな私なので、とりあえずこちらの本に手を出す。
    こちらはこちらで啓発的で面白い。

  • ユダヤ教への思索を通して、モノローグで観念的な西洋哲学の限界を明らかにしている。最終章では、ユダヤ教から一旦離れて、言語学などの知見を用いて、哲学が対話のもとに打ち立てられる必然性を説く。哲学でありながら、常識的で躍動感に満ちているのが、対話の哲学である。

  • ■1006。一読。2021年2月17日水曜日1冊目。

  • [ 内容 ]
    “わたし”は世界の中心ではない。
    “あなた”から語りかけられるときに初めて“わたし”が生まれるのだ。
    コーヘン・ローゼンツヴァイク・ローゼンシュトックなど、本邦未紹介の近代ドイツのユダヤ哲学とフンボルトの「双数的」言語論を起点に、プラトン以来2500年の自己中心主義の呪縛を解く。

    [ 目次 ]
    序章 現代の思想状況と二〇世紀転換期のドイツ・ユダヤ人
    第1章 ドイツ・ユダヤ人と啓蒙主義
    第2章 関係は関係なきもののあいだになりたつ―ヘルマン・コーヘン
    第3章 西洋哲学はモノローグの思考である―フランツ・ローゼンツヴァイク
    第4章 モノローグの言語から対話の言語へ―プラトン、オースティン、フンボルト
    第5章 対話の一般的構造

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    [ 参考となる書評 ]

  • 待つこと、聴くこと
    君と私
    ユダヤ思想
    啓示宗教と言語 言葉への信頼

  • 現代にとっての決定的事件がソ連の崩壊だったとすれば欧州ユダヤ人にとってのそれはドレフュス事件であった。
    ユダヤ民族を自立させ、それに自尊心を取り戻してやるには西洋に対抗できる近代的国家を作ればよいというヘルツルの考え方にはシオニストの中にも反対が多い。

  • 千代田図書館

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著者プロフィール

1952年、熊本県生まれ。中央大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程中退。現在、中央大学理工学部教授。ドイツ・ユダヤ思想、ドイツ観念論専攻。著書に『対話の哲学』(講談社選書メチエ、2008年)、『ドイツ観念論』(講談社選書メチエ、2012年)、訳書にローゼンツヴァイクの諸著作のほか、ジェイ『アドルノ』(共訳、岩波書店、1987年)、カッシーラー『シンボル形式の哲学』(第3巻、共訳、岩波書店、1994年)、同『認識問題』(全5冊、共訳、みすず書房、1996-2013年)、ヘーゲル『ヘーゲル初期論文集成』(共訳、作品社、2017年)などがある。

「2019年 『新しい思考』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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