今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062879965

感想・レビュー・書評

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  • ハンナ・アーレントについての、伝記的な入門書。彼女の一生を時系列で追いながら、彼女の思想(思考)について、紹介しています。。
    映画『ハンナ・アーレント』が昨年、日本でも公開されて注目度も高まっている折、彼女に興味を持たれる方も多いと思うけど、いままで彼女のことをまったく知らなかったという人であればこの本から入るのがお薦めです。非常にわかりやすく概略が示されています。
    僕は、学生時代に(若干ではあるが)アーレントに触れたことがあったのですが、忘れていることの方が多かったので、再確認の意味で、この本は重宝しました。

    この本を通して、著者が訴えたかったことは次の一文に集約されるのではないかと思います。

    「アーレントと誠実に向き合うということは、彼女の思想を教科書とするのではなく、彼女の思考に触発されて、私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。(p229 あとがきより)」

    ただ、この本だけで触発され世界を捉えなおすところにはいきません。まだ入り口に立っただけです。一歩進めて、他の本を読んだり、当たり前のことですけど最終的には、アーレント自身の著作に踏み込まないと「誠実に向き合う」ことにはなりません。

    アーレントの思考は、いまの日本の状況に多くの示唆を与えてくると思います。僕は一歩も二歩も進めるつもりでいます。

  • 共和主義という言葉の意味を知りません。僕は、王国ではないという意味だと思っていました。君主のいない国です。どうもそうではないようです。それ以上の含意があるようです。全ての国民が、政治に参加する義務と権利がある国でしょうか。その意味では、日本も共和国です。これで、いいのでしょうか。中央図書館で読む。期待半分不安半分でした。予想外の出来の本でした。この人が活躍している理由が分かりました。非常に読みやすい文章です。目指すべきものは、アメリカでも、ソ連でもないことです。ものを考える自由が無い国は問題外です。と同時に、自由はあるが、政治に参加意識の無い人が大多数の国も駄目です。前者は分かりやすい。しかし、後者のどこに問題があるのか分かりにくい。多分、この本の主題なのでしょう。再読の価値があります。

  • 『全体主義の起源』の構成に即して、全体主義発生の過程をもう一度簡単にまとめておくと、反ユダヤ主義によって全体主義のための物語的な素材が準備され、国民国家の生成と帝国主義によって大衆社会が醸成され、その国民国家の経済的・社会的存立基盤が大きく変動し、大衆が動揺し始めた時、そうした大衆の不安を物語的に利用する世界観政党・運動体が出てきたわけである。p54

    私の理解では、アーレントが古代のポリスに西欧的な「人間性」の原型を求めたのは、別に、そこに立ち返ったら、素晴らしい「人間性」を回復できると素朴に信じているからではない。彼女の関心はむしろ、「ヒューマニズム」に基づいて万人に普遍的な人権を付与し、民主主義の範囲を拡大してきた西欧の市民社会が、大衆社会的な状況に陥って"政治"的に不安定化し、全体主義の母体になった原因を、「人間性」という理念の起源にまで遡って探求することにあった。遡って考えた結果、「人間性」を育んだ古代の「ポリス」における理想の「政治」の前提として、「公/私」の厳格な区分が想定されていたことを再発見ーもしくは、そのように装丁されていたと想像ーしたのである。しかし、それは現代においては、失われてしまった区分であった。全ての人に市民権を認め、経済を社会全体として組織化するようになったがゆえに、「公/私」の区分が流動化している現代の市民社会(資本主義社会)では、特殊ポリス的な環境の中で形成されてきた「人間性」をそのまま保持し続けることはほぼ不可能なのである。p115

    【(仲正流に再構成した)カント=アーレントの政治哲学の中心的テーゼ】p203
    [判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]というラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)とが繋がっているのである。

  • 昨年末…映画『ハンナ・アーレント』を観に行って驚いた。いつもは客席もまばらな単館映画ばかりをかけるハコが満席。用意された補助席も足らず、床に敷かれた座布団に腰をおろして観たのだった…アーレントの言説のなにに、今の日本の人たちは惹かれるのだろう…?

    映画はアイヒマン裁判の傍聴からなされたアーレントの言説による、世間からのパッシングを軸に、その人生を俯瞰して見せてくれた…映画を観たあと、アーレントの思索をたどろうとして、主著である『人間の条件』を買ったのだけれど、数ページめくってみて、とても読める代物ではない…と諦めた…で、概説書が欲しくて手にしたのが本書だった。

    ーアーレント理論の“忠実な解説”は放棄して、アーレントの思想の中で特に重要だと私が思っている内容を、現代日本でもお馴染みの政治・社会問題にやや強引に引き付けながら紹介していくことにしたい。
    …と冒頭でうたわれた本書は、ボクのような読者にとって格好な指南書だったのだ。

    少なくともアーレントの思索の変遷を大づかみにとらえることができた。さらに、現代日本において、なぜアーレントの言説が顧みられているのかも、おぼろげながらつかむこともできたような気がする…たとえば、こんな一節があった…

    ー「経済」的利害を中心に画一的に振る舞うようになった市民たちは、思考停止し、自分にとっての利益を約束してくれそうな国家の行政機構とか世界観政党のようなものに、機械的に従うようになっていく。それはまさに、『全体主義の起源』でアーレントが描き出した、全体主義の母体としての大衆社会の在り方に他ならない。

    本書によって、ようやくハンナ・アーレントの原著の入口に立てたような気がする…扉を開けたいと思う。

  • アーレントの哲学は、両端に偏らないが、かといってどっちつかずでもなく、複数性というものを主張しており、他を排除しようとする風潮を批判するもので、今の世の中では、ほとんど実現できていないが、今学ぶに値する哲学である。

  • 「政治」における「分かりやすさ」の危険性を指摘したハンナ・アーレント。彼女の政治哲学思想には、曖昧でよく分かりにくいというイメージがつきまとう。それもそのはず、「政治というものは、二項対立構造などを用いて分かりやすくすればよいという単純なものではない」という論旨と、それにあいまって巧みな哲学的・比喩的な文章を駆使する彼女の著作は、難解に見えるだろう。
    本書は、「そうしたアーレントの政治哲学を論旨明快に解説…」というような新書ではない。逆に、「よくわからない、ということがよくわかる」ように書かれている。そこがいい。

    ・「活動」=「(物理的な暴力によるのではなく)言語や身振りによって他の人(の精神)に対して働きかけ、説得しようとする営み」=「『世界』には自分一人がいるわけではなく、複数の人格が存在していることを理解したうえで、(直接的に知覚することのできない)お互いの人格に影響を与え合おうとする営み」

    ・全体主義の問題=「自分たちと考え方が違う異なったものを抹殺することによって、『活動』の余地をなくし、『複数性』を消滅させようとしたことにある。『複数性』を喪失した"人間"は、他者との間で本当の意味での対話をすることができなくなる。」

    ・「『活動』が可能になる環境」=「ポリス」の基本構造=「『公的領域 public realm』と『私的領域 private realm』の分離化」

    ・ポリスの「政治」は、経済的な利害関係(interests)から自由な「市民」たちによって営まれていたので、ポリスの理想とか、市民が共通に求めるべき「善」についてオープンに議論することができたが、近代市民社会ではむしろ「経済」の運営などが、議会で行われる"政治"の主要な関心事(interests)となった。現在ではほとんどの場合、各人の関心は個人的な利害と全く無関係とは言えない。

    ・「アーレントの限界」
    1.人文主義的教養(フマニタス)の必要性を説き、大衆を啓蒙する知識人や哲学者などの言論活動を生業としている者たちこそ、「複数性」を増幅させる純粋な「活動」をしにくくなっているかもしれない。
    2.学者も給料をもらって仕事をしている限り、経済的利害から全面的に"自由"になることはありえないし、引きこもって思索するばかりだと「活動」する能力はかえって低くなる。
    3.かといって、街頭演説で反権力を叫ぶ人の方が人間的「活動」力が高いとも言えない。複眼的な視点を生み出す討論なしに、集団で"一つの大きな声"を上げ続けることは、人と人の「間」を失わせることになる。
    4.引き籠もるだけでも派手なアクションをすることだけでもダメ。複眼的視点を生み出す討論が重要だが、時間と場所とお互いに自由な人格として認め合っている仲間がいなければ、本当の意味で討論することはできない。
    5.現代社会には、経済的利害から完全に切り離され、全市民が対等な立場で自らの意見を開陳できる「公共領域」など存在しない。
    6.ポリス的共同体の伝統を持たない文化圏に属する人々にはそもそも、彼女の想定する「人間性」が与えられていないことになってしまう。
    7.西欧圏でも家長の身分を持たない人、特に女性は、アーレントのポリス・モデルでは、ポリスの公共の場に「現れる=登場する appear」ことができない。現代では女性も市民的公共圏に参加できているが、「経済」的な関心が支配的になっている現代の「社会的領域」には、本来的な意味での「公共性」は成立しえない。
    8.アーレントの理想の「ポリスの政治」は、現実にあったとされるポリスの政治とはかけ離れている。物質的な利害から完全に解放されて"自由"に思考できる「市民」など、現実の歴史には存在しなかっただろう。

    ・アーレント自身、上記の矛盾がもたらす冷厳な現実に気付いていただろう。その上で、「人間性の素晴らしさ」あるいは「ヒューマニズム」を無邪気に信じ、それを信ずることでいつかユートピアを実現できると盲信している"良心的"な知識人たちに警告を発している。無邪気な「人間性」信仰は、その理想に合わないものを排除する全体主義に陥りかねない。

    著者は彼女のことを、「人間性」に過剰な期待を寄せるヒューマニズム系思想を一旦解体したうえで、全体主義につながる危険性のある「思考の均質化」だけは何とか防ぐというミニマルな目標を追求した控えめな政治哲学者ではないかと考えている。

    ・「活動的生活 vita activa」と「観想的生活 vita contemplativa」

    人が「活動」の表舞台からいったん引き下がって物事を静かに見つめることの必要性も指摘。「活動」を通して他者の視点を知ることで「観想」の視野が広がるし、「観想」を行うことで「活動」における言論の中身も洗練されていく。

    ・「観想的生活」について述べたアーレントの未完の著作『精神の生活』より

    カントの『判断力批判』からアーレントが注目したのは、「一般伝達可能性」「共通感覚」「拡大された思考」の3つ。

    [判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]のラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)が繋がっている。

    ・「観客=注視者」の重要性。問題の当事者であるからこそ判断できないこともある。局外中立的な位置にあって、事後的に政治的・歴史的出来事の価値を判定する観客のことを、アーレントは「公平な=非党派的注視者 impartial spectator」と呼ぶ。

    各人の内なる"公平な注視者"は、厳密にはどこか偏っている=党派的(partial)なのは仕方ないが、各人が経験を積み、且つ、他者と意見を交換することで、それぞれの内なる"公平な注視者"が次第に相互接近していくはず。そうして社会全体が「公平な注視者」を共有することが社会的正義の基盤になる、と考えた。

  • 面白かった。

     マルクス主義の理論では、「階級」という仕組みが生まれたことによる不自由から人類の本来的な価値を「解放」するという考え方なのに対し、アーレントは、「解放=自由」ではなく、自由とは本来、市民が物質的な制約に囚われずに「活動」している状態と考える。解放を目的とするのではなく、共同体の「共通善」を探求することにより自由が現れて来るのだ。

     貧困や障害という「不幸な人々」への共感を人間の「自然な情の発露」と見なして弱者を苦しみから救うことが政治だ、という論調は、「人間としての正しい在り方」を押し付ける排他的な価値観に繋がりやすい。

    アーレントは、そういうヒトとして生まれたことよりも、人格=仮面を演じることを、人間の条件としてより重視している。公共における役割をきちんと演じることが、よりよい政治的共同体を形成していく。法的な差別は失くすべきだが、「社会での差別を廃絶することはできない」し、「強制すべきではない」ということだ。

     そうした共通善=公共善の構築のために市民が養うべきものとして、アーレントは「判断力」を重視する。そこには善/悪の道徳的判断力に加え、美的判断力がある。この判断力は伝達可能であり一般性がある。言葉にされる「美しい」という判断には、潜在的に他者のまなざしが入り込んでいる。それが共通感覚として、自分の感情や感性を調整する作用を持つというのだ。私達が思考を内=私から外=他者へと拡げることができるのは、この「拡大された心性」のおかげであり、それによって私達は、他人とお互いの考えを伝達し合いながら、共通の価値観や思考形式を形成することができるのだという。

     判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性というラインで、アーレントは活動者=役者(actor)の視点から政治を語った。この演劇的な視点での捉え方では、「公衆=観客」の立場がより重要になる。芸術作品が芸術として成立するためには、その美を判定する「観客」が必要ということだ。

     ここまで読んで、腑に落ちた。多くの人が政治に関心を失ってしまった理由は、政治に関わる有り様から「美」が抜け落ちているからだ。道徳教育の重要性を訴える人はいても、「美醜教育」の重要性などは議論もされないのではないか?
    「美醜と善悪は分けて考えるべきだ」という人もいよう。しかし、例えば子供の価値観の形成において、この2つを切り離すことはできないだろう。「本物の美」を教えることは難しいし、それこそ自分で見つけるものだと思うが、「醜」を教えることは可能ではないだろうか?そういうことが社会から抜け落ちているような、そんな読後感を持った。

  • わかりやすい。アーレント自身の本も読みたくなったが無理そう。

  • 2013年137冊目

  • アーレントに関する新書。

    アーレントがどのようなことをしていたのか、どのような問題意識を持っていたのかを全体的に見通している。
    私個人の考えでは、名著は解説本ではなく原著を読むべきだ、という意見を持っている。しかし原著は往往にして難解なものが多い、そしてアーレントの本は具体的な考えを示してくれるものではないので、この本をパラパラめくってから原著に向かうのをオススメしたい。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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