海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001555

感想・レビュー・書評

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  • 読み終わって謎が多いけど、面白かったしまぁいっかってなった。
    ナカタさんが入り口を開けたのはナカタさんのためだったんだろうか。
    あと田村カフカ、大人過ぎ。

  • 村上春樹の小説は、ほかの作者の小説よりもファンタジーの世界にどっぷり浸かれる感じがする。

    ここまでの経験はできないと思うが、ひとり旅をして、旅先で出会う人と交流して、、みたいな、特別な経験をしてみたいと思った。

  • 前巻のP.312〜P.314の想像力に関する大島さんの考えがとても印象に残った。最近の行き過ぎたジェンダー問題に当てはまることだと感じた。
    至る所に心に残る言葉があった。

  • 正直、自分がこの作品を読んで何を感じたのか分からない。だけど、優しさ、寂しさ、勇気、いろんなものが至る所に散りばめられていると思う。

    ホシノさんが本当に好き。現実的にはナカタさんのような人物は周囲からは敬遠されがちだと思う。色々とおかしな所があるナカタさんに対する包容力、寛容さ、優しさ、謙虚さ。心に沁み渡った。

  • 海辺のカフカでは登場人物たちはパンケーキを焼き、サンドイッチあるいはサラダを作り、Tシャツにまでアイロンをかけ、ジャズや古典ロックをこよなく愛し、そして哲学を語る。村上春樹によくある光景だ。とはいえ海辺のカフカはけっこう仏教的で、と同時に神道の要素もあって(と思った)、いつもの5割増しくらいで東洋の香りがする。それらが西洋文化でラッピングされ、そのうえさらにファンタジーのラベルで覆われている。

    物語にはジョニー・ウォーカーやカーネル・サンダーズといった、思念を体現したような人物が出てくる。(善悪を超えた世界のシステム、つまり真理を体現した存在、だと思う)そういう難しいことを、現実的に普遍的なキャラクターで見せ、語らせる。こういうところもユニークだ。

    平易な文体で書かれているが、形而上の概念、感覚といったものが言語化され物語化され、そういう難しいことをかみ砕いて説明するって難しいことだよなと思う。しかもそれをちゃんとストーリーに落とし込んでいる。さすが村上春樹だと思った。最後、主人公は本物の世界でいちばんタフな15歳になったと思うし、その旅路につきあえてよかった。l

    気に入ったセリフ(下巻P380)
    「どうしてもわからないんだ。なぜ誰かを深く愛するということが、その誰かを深く傷つけるというのと同じじゃなくちゃならないのかということがさ。つまりさ、もしそうだとしたら、誰かを深く愛するということにいったいどんな意味があるんだ?いったいどうしてそんなことが起こらなくちゃならないんだ?」

  • “世界でいちばんタフな15歳の少年”カフカと、不思議な宿命を背負ったナカタさん、それぞれのやるべき事を果たすための旅。

    結局、難しい用語や芸術、音楽の知識は分からないままでしたが…それでもカフカ少年やナカタさんと一緒に旅をしたように感じ、この読書を終えたら2人のように生きるべき世界でやることをやらなくてはな…と少し励まされました。

    ナカタさん亡くなっちゃったの寂しいです。ホシノ青年と会ってからはとても楽しそうだったので尚更です。
    佐伯さんも死ぬ理由が分からなかったし、ナカタさんが猫と話せなくなる理由も分からないし、ジョニーウォーカーの笛結局何?!などなど不明点は多々ありますが、無理に解き明かさずに数年後また再読したいです。

  • 村上春樹の代表的な長編小説。

    主人公である15歳の少年、田村カフカが家出をして高松の私設図書館に行き着くところからストーリーが始まる。彼はそこで個性的な登場人物たちと出会い、多くのことを経験することで人間として成長していく。
    また同時並行で文盲の老人、ナカタさんの物語も進行していく。ナカタさんは東京で猫攫いの犯人と対峙し、犯人を刺し殺した後、何かに導かれるように西へと向かう。

    正直、読んでいて楽しい爽快感のある小説ではまったくない。全体的に陰鬱でよく分からない表現が多いし、結局答え合わせもないまま物語は終わる。まさに村上春樹の世界を体現した小説である。
    それでも読み進めてしまうのは出てくるキャラクターにやけに生々しい魅力があるからだ。彼らに触れ、言動を目にすることで彼らの行先を追わずには得られなくなる。

    この小説で村上春樹が言いたいことを邪推してみる。

    個人的には「ドラマツルギー」がこの小説の主なテーマのひとつかと思う。
    これは作中にも簡単に紹介される通り、「人は自らの「役割」を認知し、その「役割」を演じることによってコミュニケーションを成立させ、社会を成り立たせているとする考え方」である。ゴッフマンによってはじめに提唱されたこの考えは、「もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」というチェーホフによって簡潔に表現される。

    村上春樹はこのドラマツルギーという概念を拡大解釈してこの小説を創り上げたのではないかと考える。

    この小説には無駄な人・事物が一切登場しない。本質的に虚構とはそういうものではあるが、それがあまりにも顕著なのである。
    そこに偶発性はまったくなく、徹底された必然性によって彼らは自らの役割を果たしていく。さらにいえばその言動には意志すら介在しないし、それを隠すこともない。
    恐ろしいまでに徹底されたドラマツルギーがこの小説の大きな表現だと感じた。

    そして彼らが役割を果たした先に何があるかというと、カフカ少年を「愛の世界」に引き戻すことを達成する。
    彼は幼少期に母親に捨てられた経験から、誰にも心を一切開くことができなくなるほどのトラウマを抱えていた。それが旅の先に出会った人々によって癒され、人に愛され人を愛することができるように変わっていく。
    最後の一文に表されるように、彼は「世界の一部」になることができたのだと思う。

    カジュアルさとは無縁な、鉛のように重くて鈍い村上春樹の小説がたまに読みたくなる。

  • 初の村上春樹作品です。上巻はあるシーンが受け容れられないので評価ナシです。
    もっとナルシシズム溢れる作品なのかと思って敬遠していたけど、普通に面白く読めました。
    ナカタさんと星野青年のコンビ最高です。主人公のストーリーよりもむしろそちらに惹かれました。星野青年が最後の方仙人ぽくなっちゃうのは残念な感じもするけれど、それもまたヨシ!

  •  以下に書くのは、現時点での個人的な感想です。ネタバレ含むと思います。
     いくつもの解釈ができるところに、文学の面白みがあるので、分析や評論という意味ではなく、あくまで今の自分にはこう読めたよー、という意味での感想を述べただけです。作者としてもおそらく答えは持ち合わせていないはずだし、唯一絶対の答えなんて出そうとしてほしくないだろうと思います。小説の役割ってたぶん、問題の出発点を示すものにすぎず、問題の終着駅を示すものではない。出発点を過ぎるとその線路は、読者の経験や考え方を経て、樹形のごとく多様に枝分かれしてくるものだと考えます。

     田村カフカが15歳(現実にも15歳)の頃の「魂」(これは即ちカラスと呼ばれる少年そのものでもある)は、カフカ少年がカラスに見送られて中野区を出てからは、ナカタさんの身体を媒介物として(ナカタさんに置き換わって)行為している。カフカ少年の魂は、周囲とは隔絶された空間を生き、時として自分を見失うほどの狂気に駆られる。ジョニーウォーカーとの関わり方一つを取っても、カフカ少年の行動規範(魂)はナカタさんの身体を使って具象化されている。
     他方で、カフカ少年の「身体」はこの時、50代の佐伯さんと同じく、生ける屍となる。しかし、その生ける屍に、佐伯さんの死別した恋人の魂が入り込むことで、15歳のカフカ少年の身体が15歳の恋人の身体となる。そして、後述するように、ユートピアでその身体から佐伯さんの恋人の魂が離れ、ナカタ少年の魂が宿ることによって、現実の世界を生きたいという渇望を獲得することになる。

     ナカタさんが小学生の頃の魂は、1940年代に空が光って(これは稲妻だろう)入り口の石が開いた時、ユートピアへ入ってしまい、3週間後に石が閉じられた時には現実の世界に戻って来れなくなってしまった(だから影が薄い)。その後、ホシノ青年とともに入り口の石を開いた時、ユートピアでたゆたっていたナカタ少年の魂は、ユートピアへたどり着いたカフカ少年の中に、居場所を見つけた。ナカタ少年は有能・恭順でありながら教師から体罰を受け、愛への信頼を失った。しかし、ナカタ少年の魂がカフカ少年の身体に宿った結果として、愛を信頼してみようと思い直した。遺棄同様の仕打ちの裏に隠された、佐伯さんの母としての真意ーーカフカ少年の身体を通じてこれを聴けたからこそ、愛をもう一度信頼してみようと思ったのである。

     佐伯さんは、恋人と死別してからというもの、少女のまま魂だけ抜けてしまい、生ける屍のように、その日その日をやり過ごしている。現実の世界においても、彼女の時間だけは止まっている(記憶が蓄積できない)。そこで、日々の記録(日記?)を継続している。
     他方で、15歳の少女の幻影は、入りロの石からユートピアに入ることができなかった佐伯さんの魂である。現実の世界をさまよっている。そして、40年近くの時を経てユートピアにたどり着くまでは、50代の佐伯さんの身体を使って、15歳の恋人(の魂)と交わろうとしていた。
     ところで、佐伯さんはカフカ少年の実母ではない。佐伯さんは、恋人との死別後に、ただ何となく結婚し、ただ何となく子どもを産んだ。「ただ何となく」という罪悪感に苛まれて、ある少年を棄てた経験を持つ。

     サクラはカフカの姉ではない。ただ旅中で遭遇した知人にすぎない。無意職や観念が具象化し、かくあってほしいという少年の願いと父の呪いとが共犯関係に立ち、姉を掲望する深層心理が夢の中でサクラを犯してしまうのだろう。一方のサクラは、少年に対して姉弟愛を抱いてはいない。だから、少年の渇望は一方通行であり、サクラは小学教師のように出血しない。

     ジョニーウォーカー(田村浩一)はカフカ少年の父であり、大佐伯さんの恋人を誤って殺害した人物である。手段が目的化して理念・目的を忘れてしまっている。それは決して善悪の判断を超えているとはいえない。そこにアイヒマンとのアナロジーを見出せる。
     一方、ベートーヴェンは、芸術家ではあるものの、ジョニーウォーカーとは異なり、理念を忘れず曲げなかった。

     ホシノ青年は何となく虚ろに日々を過ごしてきた現代人の象敵であり縮図である。ナカタさんとの旅を通じて、物ごとに対する感度・感受性や、一つの物・人に対峙する根気よさを獲得していく。それまでは、「ただ何となく」過ごしてきたことへの罪悪感すらないまま「ただ何となく」人生を送ってきた。そんな彼にとって、今という時に吸着して離れないナカタさん、そこに没頭するナカタさんには、何か引っかかりを感じたのだろう。

     カーネルサンダーズはホシノ青年の祖父である。認知症で記憶や時間の意味が薄れていく中、これをカーネルおじさんの人形にいわば冷凍保存して、ホシノ青年の人生の転機をサポートする準備をしていた。

     白い気持ち悪いものは、カラス(1 5歳の少年の狂気じみた魂)である。父を無惨に殺害したり、肉片になるまで攻撃したりするという少年の狂気的な側面は、ナカタさんが佐伯さんの記憶を焼き尽くすまでは、ナカタさんの身体に宿っていた。しかし、ナカタさんがその身体機能を停止してからは、狂気は行き場を失っていた。カフカ少年の身体に回帰しては、カフカ少年の家出の目的は達せられない。そこで、入り口を塞いで、ホシノ青年によって現実に殺めてもらう必要があった。

    記憶と記録ー生きることの意味と文字にすることの意味
     現実の世界では、時間が重要な意味を持つ。すなわち、時間が経過すればするほど、記憶は蓄積されていく。ところが、現代人は、うつろに「ただ何となく」日々を送ってしまっている。出逢ったヒト・モノ・コトは深く心の中に記憶されないまま、それらの日々は消費されていく。もちろん、そのために、人生における思考の跡形は、時代とともに見えにくくなってきている。だから、大島さんのように、ギリシャ悲劇という記録を自分の中に記憶し、それを図書館という場を通じて他の人々の記憶にも宿らせようとする試みは、それ自体尊いものである。そして本とは、著者の判断について、その当否を超えて、歴史を超えて後世の記憶として残すための預言書なのかもしれない。
     このようなことは、ナカタさんも本能的に理解しているようである。字の読み書きができるようになりたい、そして現実を自分の目で見据え、自分の頭で考えられるようになりたい。字が読み書きできた暁には、考えた跡形を記録として残したいという欲求だって沸いてくるかもしれないーナカタさんのいう「普通に生き」ることとは、主体的意思を伴うものである点において、現代人の多くのそれとは、異なる。
     皮肉にも、佐伯さんは、図書館という記憶媒体の館長でありながら、愛する人を媒介として自分を形作ってきた経験や判断が記憶されることを望んでいる。言葉だけでは捕捉しきれないものがそこに潜んでいることは、図書館運営の中で気づいていたのかもしれない。問題は、自分のことを忘れないでいてくれる人、愛する人と出逢えるかどうかである。

    人生は捨てたもんじゃない
     佐伯さんは、過去に生きる女性だが、ナカタさんに出逢うことで、海辺の絵にはあの恋人以外にも、自分を理解しようとしてくれる大切な人が描かれていたことに、ようやく気づく(虚ろには気づいていたのではないか)。そのため、ユートピアでナカタ少年の魂を宿したカフカ少年に対して、佐伯さんは自分の記憶を受け継がせた(血を含ませた)。それにより、今を生きようとするナカタ少年の魂は現実の世界に舞い戻り、現実から逃避しようとするカフカ少年の若い肉体は新たな生命を取り戻す。「佐伯さんの息子」という新たな生命を。

     以上が、僕なりの推論です。有効な反証はいくつもありうると思います。再読を重ねるたびに、僕自身もこの推論に反証を投げかけることもあると思います。

  • 物語に乗せた、芸術性溢れる哲学書のよう。


    村上春樹さんにハマりたての私が言うのもなんですが、
    作家というのは寄せ付ける人を選べる職業だなと。

    発信する質が良いほど
    ついてくる人の質も良いし、
    相乗効果となる。



    村上春樹さんの唯一無二の世界観と
    溢れる文才、芸術性が詰まった作品だと思います。



    村上春樹さんくらいになると
    読了後も残る謎までも
    味になりますよね。


    作家の創造性として評価してしまう。

    戦略でしょうか。笑





    考察を読んで、メタファーについて、納得しました。
    深すぎる!!!

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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