燃えつきた地図 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121147

感想・レビュー・書評

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  • 「存在しないもの同士が、互いに相手を求めて探り合ってる、こっけいな鬼ごっこ」

    後半に出てくるこの一節が本作を要約しているように思う。興信所の職員である語り手は、失踪した男を探すようその妻から依頼を受ける。しかしこの依頼には彼女の弟が一枚噛んでいて……その関係を手繰り寄せていくうちに、事実と虚構の違いが曖昧になっていくばかりか、語り手自身の自己同一性までもが揺らいでいく。
    ポール・オースターの小説にも似た、非探偵小説だ。

    読み始めてまず感じたのは、この小説の文体変わってる、ということ。やたらと読点が多い。同時に、それこそ英語の小説を読んでるみたいだとも思った。

    読点の多さについては、読み進めるにつれて、現実とは何かがわからずに混乱し、息も絶え絶えになった語り手が、クサビを打ち込むように言葉をつなげていく、そのクサビのようにも見えてくる。

    デカルトの「我思うゆえに我あり」を思い出した。世界は無秩序の様相を呈しているのに、我だけは最後まで消えずに意識としてある。自我だけは失踪してくれない。デカルトの発見した命題が、そのまま語り手の苦しみになっている。

    その葛藤や妄想に読者として付き合うのがけっこうキツかった。なんどか寝落ちした。解説でドナルド・キーン氏は傑作とみなしている。たしかに並みの小説ではないのはわかるし、キマってる表現もたくさんあるのだけど、安部公房作品にしては私はそれほど面白くなかった。
    ちょっと翳りのある作品で、安倍公房印のユーモアが今回はわりとアイロニーに偏っている。

    もうひとつは、ドナルド・キーン氏が解説を書いた当時はどうだったのか知らないけれど、この分裂症的な小説に描かれている状況が、現代ではわりと当たり前になっているということもある。秩序や法が離散し、それぞれを事実認定しうる上位の法は存在せず妄想と区別するすべがなくなってるこの現代を、安部公房はどこまで想像できただろうかと思いつつページをめくった。

    とはいえ、状況がどうあれ、安部公房の小説でいつも右往左往しているのは男たちばかりだ。

  • 安部公房的というのはこういう感じなんだろうか。小説の世界に入り込み過ぎると、精神崩壊しそう。
    この世界もメビウスの輪のように、裏と表が交錯しているとしたら。考えてはいけない。考えることへの誘惑を断ち切らないと、本当に世界の認識が崩れて、元に戻せなくなるような、そんな不安に駆られる。
    安部公房は文句言いながらいつも読んでるけど、この本でやっぱり好きだと確信した。

  • 失踪者を探す男がやがて自分を見失っていく話。調査の拠り所がなくて落ち着かない男の様子が、読点だらけのモノローグから滲み出てきて、読んでいる間ずっと不安で不安定な気持ちになりました。

    冒頭の一説がとても印象的で、読み終わった後にもジワジワ効いてきます。

    「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくりの同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を失っても、迷うことは出来ないのだ。」

  • ハードボイルド小説だ。或いはノワール小説的でもある。

    ハードボイルドやノワールという物語の成立には都市という舞台は必要不可欠だ。

    田園風景の中で、誰もが誰もの家族たりうる社会でハードボイルドもないだろう。

    この物語も等しく、都市が舞台であって、さらに、拡大してゆく最中の都市とも言える。

    この舞台装置はまったくノワール的と言ったら研究者には笑われてしまうだろうか。

    都市において人や事物、そしてそれらに与えられた役割は完全に匿名的で交換可能な価値を持つ。

    だからこそ、都市の機能は平等公平で自由である。
    しかし、その内実は孤独で冷酷で不平等でもある。

    P.293『「ほら、あんなに沢山の人間が、たえまなく何処かに向かって、歩いて行くでしょう・・・みんな、それぞれ、何かしら目的を持っているんだ・・・ものすごい数の目的ですよね・・・くよくよつまらないことを考えていたら、取り残されてしまうぞ。みんながああして、休みもせずに歩き続けているのに、もしも自分に目的がなくなって、他人が歩くのを見ているだけの立場に置かれたりしたら、どうするつもりなんだ・・そう思っただけで、足元がすくんでしまう。なんだか、詫びしい、悲しい気持ちになって・・・どんなつまらない目的のためでもいい、とにかく歩いていられるのは幸福なんだってことを、しみじみと感じちゃうんだな・・・」』

    周囲に取り残されてしまうのではないかという恐怖、疎外感と、それを感じさせないための様々な装置、それは自販機だけの飲み屋、バー、屋台やカフェーだ。

    しかし、脆弱な人間にこの都市は疎外感、嫉妬を感じさせ、自己愛を傷つける。

    Pp313-314『「・・まるで自分が見捨てられてしまったような・・すこし違うな・・ひがみというか・・人生の、とても素晴らしいことが、僕にだけ内緒で、僕だけが、のけものにされて・・」』

    疎外感、孤独感は、なにもある個人が脆弱であるからだけでは無く、都市という機能が人をそう感じさせるようだ。

    P.353 『「自分が、本当に自分で思っているような具合に、存在しているのかどうか・・それを証明してくれるのは、他人なんだが、その他人が、誰一人ふりむいてくれないというので・・」』

    この物語の核心は不明瞭だが、人が都市のなかで「蒸発」する現象として、解離性遁走もあげられる。

    記憶が入れ替わり、全く新しい人生をはじめてしまう。

    解離性障害の一病態だ。

    およそ匿名的で交換可能な都市社会、近代社会においては、失踪し、新しい人生をはじめてしまうということも実はそれほど困難ではなかったのかもしれない。

    そして、都市の日常における孤独からの逃避、いや、個人が個人であるための防衛として、遁走は有効な防衛機制だったのかもしれない。

    しかし、現代ではどうか。

    スマートフォン、SNS、マイナンバー、銀行口座・・

    給与も銀行振り込み、納税記録、年金など高度な紐付けがなされている。

    そこへきて住民基本台帳(もはや死語だろうが税金の無駄だった)が導入され、マイナンバー制度(最悪なネーミングセンスであり税金の無駄になりつつある)も導入された。

    全人格「的」労働ではなく、労働を含めたステータス・バロメータが含まれた「人格」が意図しないうちに形成されていく。

    Covid-19のさなかにあって、銀行口座も紐付けられようとしている。

    この2020年にあって失踪はかなり困難であって、さらにいえば公私の境界は曖昧だ。

    それどころか常に他者のオピニオンが自己に入り込み、もはや対人境界まで曖昧になっているのではないか。

    自分の意見は誰かの意見でしかないのではないか。

    このアヴァンギャルドな小説を読み、モダン・ポストモダン社会との相違に思いが交錯する。

  • 安部公房が書く「都会という無限の迷路」、それはタクシーであり公衆電話であり地図であり電話番号……、そのような「都会」は今はもうないのかもしれない。

    初めは物語世界に入り込むのに苦労した。
    半分を超えたあたりで、小説のテーマが何となくわかった。
    入り込めなかったのは、現代が安部公房の時代とは前提が変わってしまったからかもしれない。

    冒頭、「だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ」とある。
    安部公房の時代からさらに時が経ち、現代はもはや、手掛かりとしての地図すら消えてしまった状況ではないか。
    道が自分と同化し、道を見失うこともできなくなった……。

  • 表現力に圧倒される。時代背景も人物背景も馴染みがないはずなのに、自分がそこにいるような手触り感。特に二回目の団地の描写はすごい。あ、この感じ前にもあったな、懐かしい、主人公に自分が重なる。

    内容は難解。さらっと読みしただけでは喪失部分が唐突で意味がわからない。一体どういう心情でそういうことになったの?これまでの丁寧な説明は逆になんだったの?と。でももしかしてそれも表現効果の一部なのだろうか。メビウスの輪(とはよく言ったものです)の裏側は表と近しい位置にありながら全く繋がらない世界です、というのをその唐突さで表している?

    主人公は弟、田代君、仕事、彼の妻からの依頼、と次々に目的を見失い(これが燃えつきた地図か)、存在価値を失う。おそらく彼も同じように行方不明になったのだろう。田代君はその孤独の怖さに耐え切れず自殺した。主人公はどうするのだろう。自分の地図を、他人に指図されない自分の道を選ぼうとするラストは明るいものに見えるが…。

  • 今まで読んだ安部公房の本は、独白系が多かったのだが、この作品はめちゃくちゃ会話がある。会話もまた素晴らしい。間の取り方が恍惚的。

  • 安部公房特有の暗くねばっこい質感がありながら読む手を止まらせない一冊。

    探偵としてあちこち探し回り、一癖も二癖もある人たちと何度もすれ違っているが探してる男の姿は一向に見つからない。影さえ見えないままだから心のどこかに知らない影を作りたがるのは誰もがそうなのかもしれない。

    そうして終わらない迷路を彷徨った主人公が最後にたどり着いた先が実際に迷路の終わりだったのか、新しい迷路の始まりだったのか。細部に至るまで抽象化した現代の偶像としての都会、社会性を描いた作品に思えて面白かった。

  • ヤバいと思った
    読者の感覚を揺さぶってくるの怖い
    怖いーー(泣)(泣)

  • 最高。
    通常の世界からだんだん夢の中を歩いている気分になる。自分は誰なのか、むしろ自分が追い求めていた人物かもしれないし自分はその弟かもしれない。ファイトクラブのような気もしつつ、ただ人を探す行為に疲れた精神錯乱かもしれない。それを風刺として利用したのかそれとも夢の世界に引き摺り込みたいのか。安部公房だった。

  • これまで読んだ安部公房の中では、
    私にとっては難解で、
    意味を理解するというよりは、
    円環的で、主客が狂っていく、
    いつもの蟻地獄のような安部公房世界を味わうことに努めた。

    難解な理由の一つは、
    会話が、描写が、
    何を言っているのかわからないのだ。
    限りなくリアリティがあるような変哲もない団地の景色も、
    その変哲もなさが詳細に語られるほどに、
    なんの特徴もなくて超現実的になる。
    根室婦人の言葉は終始何を言っているのかひとつも分からず、
    夢なのか幻なのか、
    主人公同様に区別がつかずに混乱してくる。

    しかしそれらは読書から離れて現実に戻った時に、
    今この私が私であるという自己感覚に、
    大きな疑問を残す装置になるのだった。

  • 主人公の興信所員は、ある女性から失踪した夫を探してほしいと依頼される。しかし手がかりは使いさしのコーヒー店のマッチ箱のみ。新たな手掛かりを求めるも、有力な人物は次々と死んで消えていく。他者から認識されていない人物は存在せず、失踪しているような状況が書かれていて、今の社会にも当てはまるように感じた。結局、物語は循環するような印象的な終わり方だった。

  • 読んだ~ 難~解!何度も自称分類”give up”にと思った。解説を読んで自分の感覚そんなにズレてないことが判明よw

  • 「存在しないもの同士が、互いに相手を求めて探りあっている、滑稽な鬼ごっこ」

    正に現代。鬼ごっこの形が変わって誰でもどこでもやり易くなっただけで、やってることは昔とさほど変わらない。

  • 失踪三部作の中ではたしかにテンポ良く読み進められたが、不条理カットアップ感も強く、例の箱男、密会につながる感じ。
    濃いのか薄いのかよくわからないキャラクターが多い中、強烈だったのが、田代君でしたねぇ〜

  • 「失踪した主人を探して欲しい」
    この時点で、安部公房を何冊か読んできた人なら、見つかることはないことは想像に難くないだろう。したがって、見つからないのである。
    いなくなった人を探して見つからないというテーマは「密会」と似ており、安部公房作品らしくどの登場人物ものらりくらりと本質を語らない。主人公もフラフラと本質に突っ込まず、心理描写を見ながら、読者がどんどん焦らされていく。プロットとしても「密会」の昼間版というところ。とはいえ、あちらほどディープでえげつない描写が有るわけでもないので、慣れていなくても割と読みやすい1冊となっている。安部公房の準初心者におすすめしたい。
    安部公房作品の読み解きの難しさの一つとして、やたらと複雑な建物などが出てくることがあるが、本作は車であちらこちらに移動し、それらの位置関係がしっかりと描かれているために理解しやすい。沿う感じてドナルド・キーンによる解説を読んだら、しっかりと書かれておりました。安部公房に興味を持ったのなら、解説付きの文庫本版をおすすめします。

  • 失踪した男を捜してもらひたい。といふ依頼を受けた興信所の調査員。
    依頼人は男の妻。しかし彼女の話は要領を得ないのであります。手掛りも顔写真1枚とマッチ箱だけ、といふありさま。
    重要なことは何も答へず、すべては弟が仕切つてゐる、と繰り返すばかりなのです。

    調査員の「ぼく」は、僅かな手掛りから調査を開始しますが、その肝心の弟(胡散臭い)は死んでしまふし、情報提供者だつた筈の田代君の証言は二転三転し、「ぼく」はますます迷宮に迷ひ込むのでした。
    読者も「ようこそ迷宮へ」とばかりにふらふら誘ひ込まれ、不安に苛まれてゆくのでございます。

    いたづらに観念的にならず、物語としての作りがしつかりしてゐますね。小説の面白さといふものもたつぷり読者に与へてくれる作品と申せませう。『砂の女』-『燃えつきた地図』-『箱男』と連なる作品群は、今から思ふとほとんど奇跡と呼べる存在ですなあ。
    たぶん今でも入手は容易であります。読みませう。

    http://genjigawakusin.blog10.fc2.com/blog-entry-212.html

  • 探偵として追う立場の「ぼく」も自身の地図を失効してしまう。“閉じた無限”、“薄っぺらな猫”など寓話的な表現も多い。読んでいるうちに霧のような不安につつまれてしまった。都会もまた砂漠のようなものかもしれない。

  • 再読。《「ぼく」のたどる道筋はメビウスの輪というより、ある一箇所が欠けた環状のランドルト環みたい。ただし、途中で捩れた。だからカーブの向こうは空白なのだ。》と書いたのは本当に八年前のわたしなのだろうか。
    鏡に映っているのは確かに自分ではあるけれど、〝確かに自分〟と認識しているわたしを信用できない。現実は現実のふりをして等身大の顔をしながら、ひそかに背伸びした現実として夢のような貌で鏡に反射している。正気と狂気、真実と虚偽、他人と自分ですらその境界線は曖昧で。
    鏡の前のわたしが本物であることを証明してください。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/682255

  • 1967年(解説ドナルド・キーン)

    探偵が、ある失踪人を探す依頼を受けて、調査を始めるのだが、誰の話からも、特に際立った手掛かりを得られず、むしろ、話を聞けば聞くほどに混迷していくかのよう。なんだかずっと煙に巻かれる感じで話は進んでいく。はっきりとした問題の糸口すら見えてこず、話が進めば進むほど、はっきりしないもやもやした空気間が世界を包んでいく。

    NOTE記録
    https://note.com/nabechoo/n/n19ed791743b4

    読みながら、不思議と、探偵(ぼく)と同じような感覚を共有するかのように、なんとも不安定な世界の不安定な存在となり、奇妙な不安感を感じたり、感じなかったり笑。

    探偵が失踪人と重なってしまう。探す人が探される人に。「追う者が、追われる者となり……。」探偵の世界と、失踪人の世界を隔てる壁が、不確かになり、一体化してしまったかのよう。

    よくわからないけど、何かを追い求め過ぎると、自分を見失ってしまうかもしれない。その見失った自分はどこへ行ったのか?自分を失った殻の中には何が入るのか?実は、もうすでに本当の自分ではないのかもしれない…。

  • 手掛りを辿れども辿れども、真実に近付きも遠のきもしない感じが、失踪人の周囲を同心円上にぐるぐる回っているだけのようで徒労感と無力感が延々と繰り返される。それでも次は何かがわかるかも知れない!という期待を込めてページを捲る手が止まらない。
    通常の推理小説ならラスト一気に真実の一点へ駆け込むが、そうは問屋が卸さないのが安部公房。不確実で掴みどころのない手掛りを次々に無くし、結果として唯一確実な存在だった自分自身すら見失う。地図は燃えつきた。お見事。

    草臥れたような「場末」の表現が抜群に上手くて笑える。大抵の場合古本から煙草の匂いがするとハズレ籤を引いた気になるが、安部公房だと逆に煙草の匂いがアジになる。マッチがタダで手に入った時代の空気の匂いのようで悪くない。

  • 安部文学には珍しいミステリー調のストーリー。疾走の依頼の調査が思いもよらないような複雑な展開に…
    こういうのも悪くない!めちゃくちゃ面白い…と思いきや、やはり最後はしっかり安部ワールドに。
    人が何故社会から逃避するのか?失踪者を調査しながら自らも失踪者に同化していく。安部公房は一貫して現代社会からの逃避や自己の喪失をテーマとしているが、今回は自らの意志での逃避ではなく、見えない因果の渦に巻き込まれ逃避者と化していくパターン。壮大な布石からの宿命的なクライマックス。超現実でありながらストーリーがしっかりしていて読み応えがあります。

  • 安部公房(1924-1993)の長編小説、1967年。

    安部公房の小説の主題として、しばしば「自己喪失」ということが云われる。では逆に、「自己」が「自己」を「獲得」しているのはどのような情況か。それは、「世界」の内で何者かとして在ることができるとき。則ち、「世界」が"存在の秩序(ontic logos)"として一つの安定した価値体系を成し、その内部において「自己」が意味を付与され在るべき場所に位置づけられているとき。しかし、近代以降、「自己」の存在根拠を基礎づけようとするのは当の「自己」自身となる。このような【超越論的】機制から次のことが帰結する。

    □ 自己喪失は不可避である。

    なぜなら、超越論的主観性は「自己」の存在根拠をその都度毎に対象化し否定し続けることで無限に遡及していこうとするのであり、ついに最終的な基礎づけへの到達は無限遠の彼方に遅延されることになるから。「けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると……いまぼくが帰宅の途中だという、この判断だって、おなじく既知感を合理化するための、口実にしかすぎなかったことになり……そうなれば、自分自身さえ、もはや自分とは呼べない、疑わしいものになってしまうのだ」。

    自己は喪失するものとして在るしかない。こうした自己存在の無根拠性・虚無性に対する自覚が、欺瞞的な自己規定に安逸している日常性への頽落からの実存的覚醒の契機となる。それは、あらゆる概念的規定を虚偽として峻拒しようとするロマン主義的な自由への意志として現れる。「緊張感で、ぼくはほとんど点のようになる……暦に出ていないある日、地図にのっていない何処かで、ふと目を覚ましたような感じ……この充足を、どうしても脱走と呼びたいのなら、勝手に呼ぶがいい……海賊が、海賊になって、未知の大海めざして帆をあげるとき、あるいは盗賊が、盗賊になって、無人の砂漠や、森林や、都会の底へ、身をひそめるとき、彼等もおそらく、どこかで一度は、この点になった自分をくぐり抜けたに相違ないのだ……誰でもないぼくに、同情なんて、まっぴらさ……」。

    自由とは、自己を断片化しようとするあらゆる欺瞞的な意味の絶対的拒絶という不可能性においてのみ、無限遠における成就ならざる成就としてのみ、可能となる。「「彼」……どんな祭りへの期待にも、完全に背を向けてしまった、この人生の整理棚から、あえて脱出をこころみた「彼」……もしかしたら、決して実現されることのない、永遠の祝祭日に向って、旅立つつもりだったのではあるまいか」

    このような自己喪失の事態に対して、超越的な何かを仮構して喪失した自己を回復することは不可能である。なぜなら、あらゆる存在が超越論的主観性への表象として在る以外には在り得ないのであるから。一切の外部が無い。いかなる形而上学的逃避も予めその可能性は閉ざされている。この意味においてもまた、自己喪失は不可避である。取り戻すべき自己を探し求めるなどということは、全く無意味であるから。「だから君は、道を見失っても、迷うことはできないのだ」。道を見失っている、という情況から逃れることは永遠に不可能である。それ以外の情況は在り得ないのであるから。

    そして、失踪者を追う者がついに当の失踪者それ自体に反転することは不可避である。失踪者を追うという超越論的主観性の【超越論的】機制そのものが、失踪者を何者かたらしめようとする不可能性に不可避的に撞着する以外にないという点において、失踪者それ自体の在り方に他ならないのであるから。追う者の姿は失踪者の姿そのものである。こうして、失踪者は増殖していく以外にない。

    「探し出されたところで、なんの解決にもなりはしないのだ。今ぼくに必要なのは、自分で選んだ世界。自分の意志で選んだ、自分の世界でなければならないのだ」

    しかしその「世界」とは、決して肯定的に規定し得ないものではないか。掴み取っては投げ捨てるという無限の否定運動の裡においてしか在り得ないものではないか。

  • 非現実な現実と自己が喪失していく不安が主人公に迫り苦しめていく。2018.11.21

  • 興信所の調査員が、失踪した男を捜すいっけん推理小説のような物語です。決定的に違うのは失踪の謎だけでなく、調査員の男の存在すらも最終的にあやふやになることです。
    結末はかなり不条理ですが、読後に1人の人間の存在とは何なのだろうという思いが、深く心に残りました。

  • 正確かもわからない地図、報告書、嘘かもしれない嘘、そういうものたちにしか立脚することのできない存在の不安が描かれる。ロブ=グリエの『消しゴム』をやたらと思い出させる、裏返しのモチーフが何度も出てくる。ただまあ個人的に文体があまり馴染まなかった。

  • レモン色の窓、女を部分に解体して女でなくしてしまおうという意思が働いている写真。
    後日、安部公房がロブ・グリエの「消しゴム」という作品が好きだったと聞いて読んでみたのだが、それを読むとなんとなくこの作品だけでなく、安部公房の世界に広がる閉塞的な空気感がさらに理解できる感じがする。
    燃えつきた地図、出口のない、まち。

  • 夫が失踪した、という女性からの依頼を受けた調査員が巻き込まれる不可思議すぎる出来事のあれこれ。
    弟も謎なら夫も謎だし、決着つくかと思いきや、ラストますます迷子になるという……やはり安部公房であった。

  • 安部公房は好きだけれど余り入り込めなかった作品でした。当時の町の様子や時代を知っている大人が読むと、もっと感じる事が出来るのかもしれない。
    当時とかけ離れた街に住む僕ら世代には、理解できない事が多いのかもしれない。それほど街は変化したのだと思う。
    安部公房は演劇にも力を入れていて、演劇での要素が徐々に小説にも表れている気がする。

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

安部公房の作品

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