- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123011
感想・レビュー・書評
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人間はこれほどまでに神に執着しているのに、神はいつもどこにおられるんだろう?遠藤周作さんの作品を読むといつもこうなる
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再読。
よく調べられて書かれているな、と思う。
戦後10年もしないうちに、ドイツ占領下のフランスリヨンの情景を手に取るような筆致で書かれている。
ナチス時代、ホロコーストやパルチザン、マキについて、今の情報量に達するには時間が必要だったが、
あの時代で、誰もがあの戦争で、一般市民みんな複雑性PTSDな時代、今みたいに余裕がある訳ではない、
複雑性PTSDを意識していたら、餓死するもん、即死ぬもん、皆忘れることに集中していた時代に、書かれた。
語ることにより二次被害。
戦後10年まだ語るにはつらすぎる頃に書かれた。
それも日本人がこれだけのことを書く。 -
日本人とキリスト教とは。
西洋人(白い人)は、神を信じて犠牲になるか裏切るか、逃れられないのと対象に、罪を重ねて無関心に無感動になる平面的な黄色い人(日本人)。
犬を打つ白い腿。黒い汚れた考え。フランス人の父とドイツ人の母。醜い顔と贖罪。ナチスの通訳。
汚れ犯す、蛙の鳴き声。食糧難の戦時の日本。柱の陰で乞食のようにあずかるミサ。疑いと拳銃。
そのなかで神はいるのかいないのか、宗教観よりも人としての生き方、罪悪の在り方みたいな話でした。デュランの話に焦点があたり、糸子が惰性で立ち位置がいまいち最後もよくわからない。 -
洗礼を受けた筆者がこれ程までに悪を追求する物語を書くのはsensationalな感じがして逆に魅力的にさえ思わせるところがあります。
何故ここまで書けるのかは、彼が戦時中の善悪、政治と絡めて、どこまでも人間の闇や強欲さを描こうとしていだからだと思います。
白い人だけ読みました。日本人作家なのにフランス文学を読んでいるかの様な錯覚に陥ります。 -
「黄色い人」がよかった。
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再読です。ちゃんと感想を記して(2006年9月27日)いるのにすっかり忘れています。感想を読み直してみるとわたしは主題(神の存在)を意識して読んでいません。同じ作家の『イエスの生涯』を読む前と後では理解度が違ってくるということだということです。
「遠藤氏のごく初期の作品であり、・・・」(文庫解説山本健吉)確かに新鮮さと勢いがあります。解説最後に「作者は小説の中で、神の存在を証明するためには、いっそう氏のこと抱懐する主題を掘り下げなければならない、・・・」(昭和35年1960年)と鼓舞するようにお書きになっています。遠藤氏の友人ならではで、ないでしょうか。
処女作『白い人』で芥川賞を受賞したのが昭和30年(1955年)それから18年後に『イエスの生涯』(昭和48年1973年)を書かれています。つまり作家は年数をかけて主題を掘り下げていって成功しているのです。作家はそういうことができれば幸せでしょうに!
そんなことを確認した再読になりました。 -
「白い人」。神学を学んだ身でありながら、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに協力し、抗独運動家の旧友を裏切って裁きと拷問する主人公。加虐の喜びと悪への陶酔に彩られた主人公の姿が執拗に描きこまれている。これはおのずと対比される信仰のうちに生きる旧友の姿を明確に浮き彫りにする小説的な効果だけでなく、なぜこの世に善と悪が存在するのか、と、キリスト教徒にまるで喉元に匕首を突き付けるように挑発し答えを迫るかのようだった。
悪の問題は悩ましい。全知全能の神がなぜ悪を許すのか。よくある答えが、世に悪があることで神が人間に善と悪を選ばせ意思を持たせているというもの。でも、自分の意思で悪を選び取った人間が地獄で罰せられるのを神が予め知っているのなら、そもそも神はなぜ人を創り出したのか。よく分からない。大昔から神学者たちはこうした疑問に答えるため本を書き議論してきた。答えがなんであれ、一神教信者が悪の問題に悩んできたことは確かだが、やはり遠藤周作も悩んだのか。
「黄色い人」。戦時下の日本。日本人女性との女犯の罪で神父の地位を追われた背教者デュラン。追われ者のデュランは長く助けてくれたブロウ神父を裏切り官憲に売り渡す。そのブロウ神父が官憲に連行されることを予め知っていながら、面倒に巻き込まれたくないと、ブロウ神父に知らせなかった日本人クリスチャンの千葉。彼は洗礼を受けても神も罪も知らぬ無感動で曖昧糢糊の日本人として、デュランは背教者となっても神の存在を拒めなかった象徴として描かれる。黙過と背教の罪とともに、キリスト教を通して日本人とは何か?を突き詰めた小説と読める。これは遠藤周作の代表作「沈黙」ならび彼の諸作品から汲み取れるテーマだと思う。僕はつねづね遠藤周作の小説は、日本人にわかりやすいキリスト教を紹介するためのものではなく、キリスト教を通して日本とは何か?日本人とは何か?と問いを発し続けた。そんなことを考え続けた作家だと思っているんだけれども違うかな・・。
余談ですが、今年(2016年)はマーティン・スコセッシが「沈黙」を映画化した。日本でも順次公開されるが、これを機に日本で遠藤周作がもっと読まれればいいと個人的に願う。 -
再読。20歳で読んでいるはずがまるで覚えていない。
神様がパン粉をこねて白い人、黒い人、黄色い人を作る部分は克明に覚えているのだけど。
「ユダ」は誰で何なのかを問いながら、「人」とは何かの追求だと思う。
白い人はカソリックの神を信じるものと信じない、あるいは冒涜するものとの対立を描き、最後はカソリックの神に対しての禁忌を犯しながらも、自らを犠牲にした者を描きだし、黄色い人は白人と日本人の「神」の捉え方とまた棄教したものの心の痛みを描いている。
ひとりで行う信仰ならば、神をひたすら信じ、自分を律すればよいが、人の世の中は一人ではいられない。
その人との「縁」というとあまりにも日本的だが「縁」のために苦しみ、迷い、信仰からは落ちこぼれることになる。
神を信じない者の痛みもあるはずで、基督を通して感じる杓子定規な痛みではなく、自然の発露を行間に感じられる。
キリストが生まれながらに植え付けられた者の倫理観は本当に天然自然からのものには思えない。そこが作家のポイントでもあるように思うのだけどどうだろう?-
クロネコぷうさんのレビューを読んで、この本を読んでみたくなりました。読んだら、難しさや精神性に苦しみそうだけどーーー。クロネコぷうさんのレビューを読んで、この本を読んでみたくなりました。読んだら、難しさや精神性に苦しみそうだけどーーー。2015/08/23
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読んでも自分の価値観を見失うような混乱は生まれないと思います。信仰とか愛とか難しいことよりも、自分の弱さをも丸ごと許すような優しさに満ちてく...読んでも自分の価値観を見失うような混乱は生まれないと思います。信仰とか愛とか難しいことよりも、自分の弱さをも丸ごと許すような優しさに満ちてくると思います。遠藤さんの言いたいことっていうのは。2015/08/26
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「白い人」は、1955年上半期芥川賞受賞作。リヨン留学、ジャンセニスム、サド文学―これらが見事に結実して誕生したのがこの作品。遠藤文学の原点がここにある。それは、後年まで彼が求め続けた、神への悲痛なまでの問いかけだ。物語の語り手でもある主人公は斜視として描かれるが、そのことが彼と世界との間に違和をもたらしていた。こうした違和のあり方は、三島の『金閣寺』にも大江の『飼育』にも見られ、作品個々の違いを超えた共通項が浮かび上がってくる。また、この作品の遠藤周作は『天国と地獄』の山崎努を見るようで、実に瑞々しい。