花神(中) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152189

感想・レビュー・書評

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  • 村田蔵六が大村益次郎に。

    それでも村田蔵六。

    村田蔵六と桂小五郎。

  • 医者から後半いつの間にか軍師へ。徳川の保身や長州の狂気など凄い時代です。
    主人公がなかなか変人なので、お話に入り込みにくいかもしれない。

  • 長州藩に属する蔵六が指揮官として石見、浜田藩を撃破していく話。本来農民出で医師をしていた蔵六は戦を率いていく武士になったという何ともマルチなタレントを発揮していく。学問はしたくてするもの、人間の機微が大切、坂本竜馬と同時代、桂小五郎に見込まれた、毛利元就、ペリー、高杉晋作等司馬は幕末を記するのが得意だと思う。上巻とは違った展開で面白い。

  • ★評価は再読了後に。
    しかし正直に言って長い、しつこい、話逸れ過ぎ。
    これがこの作家の味なんですが、遺憾ながらも仕事で忙しくなってしまった現在の当方にはこの流れが合わない感があるなぁ。
    そういう観点では、本ってその時々の置かれている状況で変わってくるんだということを改めて実感。そしてやはり司馬遼はストーリーテラーでは絶対にないと確信。

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  • この巻では大村益次郎の活躍やエピソードは少ない。
    代わりに司馬先生の余談がたくさん読めて、司馬幕末歴史観をよく学ぶことができます。幕末の世界がどんなもんだったのかを知るのにとてもいいです。※ただし司馬先生の考える、ですが。

  • 長州征討。石州口の闘いで幕府軍を撃破

  • 中巻読了。

    藩ぐるみで暴走を始める長州藩の中で、淡々と己の役割をこなしていく蔵六さん。
    医者で、翻訳者でもある彼ですが、さらに軍略家としての才能も開花させていきます。
    まさに、時代は風雲。下巻の展開が楽しみです。

  • 下巻に続く。

  •  これまでの蔵六には、情熱の対象が明確であった。人間ではなく、科学と技術である。かれは、オランダ文字をたどることによって、この未見の世界をすこしずつひらき、かれの頭のなかに、ほかの日本人にはない風景をつくりあげた。そこにはニュートンの力学であり、解剖台上の臓腑があり、蒸気機関のパイプとメーターがあり、そして曠野に進退する大群と砲声があり、このかれの頭脳のなかの風景のなかにかれは棲みに棲んで、飽くところを知らなかった、自然、生きた人間どもの誰彼に興味を薄くしかもたなかった。
     そういう蔵六のことをお琴は、
    「とんぼ獲り」
    と、規定してしまっているが、蔵六にすれば、かれは自分の頭脳のなかの風景を追っかけ、それを追うことが、かれを各地に転々とさせる結果になった。青春は、その過程のなかですぎた。おもえば、一瞬のうちにすぎた。ひとがいう青春は、蔵六にはなかったといえるであろう。
     が、蔵六はいま、にわかに青春のなかにのったような気がするのである。動乱を恋い、生命をそこに燃焼させようとする壮士の青春が、いまはじめて蔵六のなかに誕生したかのようであり、蔵六自身、この自分の整理をさせ圧迫しつつある感情の変化に、じっと堪えている。
     原因をつくったのは、桂であろう。
     蔵六はいままで、世間も人も、自分の学問を需要し、蔵六自身を需要しなかったことを知っている。それが、この男なりに不満であり、その不満は鬱積していた。
     その蔵六を桂は需めたのである。
     わずかに、
     ーー村田にだけ話せ。
     というそれだけのことであったが、しかし人間が大昂揚するのは、そういうことであるかもしれなかった。

    「お会いしても、しなくっても、どっちでもいいことです。イネどのは、二十代のお父上を自分の夢の中で作られ、それとともに生きて来られた。それ以外に、あなたにとって真実のお父上はいない。人間にとって真実とはそういうものです。この真実は医学をもってしてもいかんともしがたい。この真実の前には、へんぺんたる事実は、波のしぶきのようにくだけたは散るものです。事実とは、長崎出島で再会されたシーボルト翁のことだ。あれはたしかにシーボルト翁に相違ない。しかし事実にすぎない」
    「蔵六先生は、事実を軽視なさるおつもりですか」
     イネは、思想として反撃した。西洋医学は事実にもとづく学問であり、事実に対して冷厳であらねばならぬことを蔵六やイネにおしえてきた。蔵六もイネもおなじく事実の教徒である。その蔵六が、妙なことを言いだしたことにイネはおどろき、「医学の徒たるものが、主観的事実を持ちあげて事実の上に置くということはおかしいではないか」という意味のことを抗議したのである。イネが思うに、蔵六式にいえば、たとえばマジナイ師たちが主観的事実としているマジナイが、西洋医学よりもまさるということになるのではなか。
    「それはカン違いです」
     と、蔵六はいった。蔵六ほど事実を冷厳な態度で尊重している人物はすくない。
     いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の内奥のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって二十代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである。事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。

    「あの長崎から参られたお女中は、むこう五日間泊まられるそうじゃ。いずれ五日のうちには、いかな村田先生でも、狂おしゅうおなりになるじゃろ」
     といったが、久兵衛が察するとおり、階上の蔵六は、寝床のなかで歯噛みする思いで、自分の欲望に堪えていた。なぜ堪えるのか、とい蔵六は自問しない。自問したところで、
    「堪えるべきだ」
     というだけが、蔵六の自答である。堪えることの意味や内容、あるいは理屈などはない。元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀をつくりあげている。丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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