- Amazon.co.jp ・本 (140ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102045046
感想・レビュー・書評
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ジッドが50才のときの作品。テーマは簡単なんだろうけど難しい。高校生の頃からジッド作品はいろいろと読んでいたが、それほどお気に入りの作家というわけでなかった。でもこの一冊で、ジッドが好きになった。
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最初いきなりのヘレン・ケラー、「野生の少年」タッチのストーリーで「おぉ!?」と思ったけど、少女が盲目なのはイノセントな存在の象徴とするためなのがすぐわかり、物語は残酷な結末を迎える。宗教を隠れ蓑にしている人間の本性を描こうとした作品なのかな・・。
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自分とは縁のない思考による展開は興味深かった。最後は衝撃的ではありますが、まあそうなるわな、って気も。昼ドラにするには無理があったかも。
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同じく宗教との関わりを題材にしつつも、「狭き門」と比較してこちらはだいぶ世俗的という印象。生身の人間が純粋な「愛」を実践するのはいかに困難か、という内容と受け取った。人間は男女というだけでいつでも性愛が発生する可能性が生まれてしまう。それをいかに適切にコントロールし、できるだけ幸福に結びつけるか。結婚と一夫一妻制、離婚の禁止という一連の婚姻制度の偉大さに結局は思い至るというのが正直なところだが。
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何も考えさせられない
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p.93「あなたが授けてくださる幸福は、何から何まであたしの無知の上に築かれているような気がしますの」
この「日記」を書いた牧師は自分勝手で、都合よく家族と神を解釈していて、だんだん腹が立ってくるんだけど、それとこれとは別でテーマには考えるものはあった。
小説として表面的なストーリーを読むというより、その奥にあるもの、「盲目」な魂の求めるものは何なのか、「導く」とはどういうことか、等と深く読んでいくのが正解なのだと思う -
つい男をフる理由「顔かよ…」と呟いてしまう…。
内心の葛藤はもっと辛いものがあったんだろうけれども! -
ジッド『田園交響楽』新潮文庫
「われ曾て律法なくして生きたれど、誠命きたりし時に罪は生き、我は死にたり」
身寄りのない盲目の少女と、彼女を拾った牧師、そして彼の妻と息子まで巻き込んだ愛憎の悲劇。
一昔前の月9でありそうな設定。
物語のなかで牧師と少女が音楽会に出かけ、『田園交響楽』を聴いた帰り道に交わす会話が印象的。
牧師「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいるのだよ。」
少女「けれど、目の見えないあたしは、耳できく幸福を知っていますわ。」
やがて、少女に対する牧師の愛が、別の名を慈悲とも呼ぶそれとは違うことに気付いた少女の言葉では、
「あなたが授けてくださる幸福は、何から何まであたしの無知の上に築かれているような気がしますの」
果たして、牧師の潔癖により少女を穢れなきものとしたかったのか、はたまた無意識の独占欲だったのか…
牧師の奥さん言動は最もで、息子もしっかりしている。
正直、牧師は、牧師としても、夫としても、父としても、見上げたもんじゃない。