オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ 171)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121501714

感想・レビュー・書評

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  • 常に教育批判は、学校体制や教師に偏っていた。
    子どもが批判されることはなかった。

    しかし、本当に子どもは普遍的なもので神聖なものなのか?

    1980年代より子どもが変わった、ということについての本。

    消費社会、私を見ることができなくなった自立した子どもたち。
    その背景について述べている一冊。

    ちょっと本が苦手な私にとっては読みにくかった。

  • ――――――――――――――――――――――――――――――○
    「神」の代理人はキリスト教でも神父や牧師という個別的な人の形をとっている。日本の場合はキリスト教を欠いているために学校の教師にその役割が期待され、教師が知的専門家であるよりは知的専門家プラス「魂」の導き手のような性格を持つようになっていった。218
    ――――――――――――――――――――――――――――――○
    学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。222
    ――――――――――――――――――――――――――――――○

  • かつての「ワル」は、対等をめざして大人に挑戦してきた。しかし、「新しい子どもたち」は、端から自分と大人は対等だと思っている。彼ら・彼女らは、他者との比較を意に介さない。自分の内面に絶対的な基準を持つ「オレ様」になったのだ。「プロ教師の会」代表の著者は、教職生活40年の過程で、子どもたちの変化と格闘してきた。この体験をもとに、巷に流布する教育論の正否を交通整理しつつ、「オレ様化」の原因を探り、子どもたちの「個性化」と「社会化」の在り方を問う。(出版社 / 著者からの内容紹介)

  • 学ぼうとしなくなり、自分を変えようとしなくなった「オレ様化」した子どもの増加について論じた本。
    オレ様化の原因の一つに、「間違った個性の尊重により、子どもが大人と対等と信じて、等価交換を望んでいるため」とあった。
    確かにね。

  • 自分が教師と対等であることを前提に、等価交換を求める子どもが目立ってきている。それは学校に入る以前に、市民社会的な個を成立させるためである。
    後半では、宮台真司、上野千鶴子、和田英樹、尾木直樹などを批判する。

    かなり一方的な批判が後半で展開されていて、残念な感じがした。
    批判をするときに、徹底的に一方的にという方が売れるだろうとは思うが、相手の考えについてよく知らないこともあるが、ちゃんと理解した上で批判しているのか分からない部分もあった。
    結構、凝り固まっている人なのかと思い、幻滅した。上野千鶴子と宮台真司のみを扱って、社会学の批判をするところも残念な感じ。
    また、フロイトにこだわりすぎな感じがした。

  • [ 内容 ]
    大人と対等と信じ、他人を気にかけなくなった子ども。
    「プロ教師の会」代表の著者は教職40年で、この変化と格闘してきた。
    本書はオレ様化の原因を探り、個性化と社会化のあり方を問う。

    [ 目次 ]
    第1部 「新しい子ども」の誕生(教師と子どもは「他者」である 戦後社会の変遷と子どもたち 幼児期の全能感と「特別な私」 なぜ「校内暴力」は起きたのか 変わる子ども、変わらない教師 大人と「一対一」の関係を望む子どもは「一」ですらない 子どもに「近代」を埋め込もう)
    第2部 教育論者の子ども観を検証する(宮台真司―「社会の学校化」か「学校の社会化」か 和田秀樹―学力低下論の落とし穴 上野千鶴子―偏差値身分制と児童虐待 尾木直樹―学校告発はなぜ不毛なのか 村上龍―『13歳のハローワーク』とゆとり教育 水谷修―夜回り先生は「教師」ではない)
    終章 なぜ子どもは変貌し、いかに大人は対処すべきか

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 固い表現に戸惑いました。が、今の親子を表現されていました。恐らく筆者の偏る視点とは違うように、感じます。

  • いわゆる最近の若者論だか、長年教師をやってきた著者ならではの説得力と切迫感で書き上げている。良書です。

  • とても分かりやすかった。前に以前読んだ諏訪さんの作品(この本の後に出版された作品)と同じく、学校教育に資本主義が入り込んで、子供が変わってしまった、という主張だった。この主張は以前から変わっていないのだな、と感じた。しかし、今まで社会は子供を神格化し、地域(社会)、もしくは家庭に責任をなすりつけ、子供の中に原因がある、と考える学者の方がほぼいなかったお話や、内田樹さんと同じく、宗教の重要性に言及しているのが面白かった。最後の教育論者に対する批評は納得できない部分もあったが、考え方の違いが見ることができて面白かった。おすすめっす\(^o^)/

  • 内田樹経由で読む。
    自分も氏の言う「消費社会期」の世代である。
    しかし、幸か不幸か、超田舎であったためか、当時の教育は、とても氏の言う「市民社会的教育」ではなく、むしろ、「農業社会期的教育」であったように思う(中学までは)。
    高校は確かに、消費社会期的だったなと、思う。

    氏の論ずる「近代」の位置づけが、文中で若干揺らぐ部分があり、全面的に賛同できる内容ではないが、主旨はとてもよくわかり、大いに頷ける。

    共同体意識の欠如による個の自立(という勘違い)。これがオレ様。
    言っておくが、このオレ様は「ジャイアン」のオレ様とはまったく異なる。ジャイアンはむしろ、前近代的な姿だ。今の子ども社会にも、ジャイアンが居れば、ここまで無秩序には鳴らなかったのかもしれない。

    「社会化が個性化の前に来る」
    これを実現するために、自分にできることはあるだろうか、と考えてみることにした。

  • 僕の国語力が足りないせいだろうか。率直に言って読むに耐えないものだった。実際、途中で読むのをやめた。

    著者は持論と自らの文章に酔いまくっているとしか思えない。造語の連発、同じ主張の繰り返し、くどすぎてだんだん何を言っているのかわからなくなってきた。

    どうやら著者は教師らしいが、普段の話もこんなくどい教師なら、さぞかし子供たちには嫌われていることだろう。

  • 教師が書いた「学校や教師は悪くない」との言い訳本。「オレ様化」しているのは、子供たちだけじゃない。

  • 内田樹の『下流志向』で取り上げられたので読んでみた。

    “80年代以降の子供たち”である私にとって(生まれは79年だけどね)身につまされる話ばかり。
    自分探しの罠に陥りがちなわが身を振り返り、
    自分のためより人のために働かなければと思うこのごろ。

  • 学校の課題のために読んだ本。教師と対等になりたがる?オレがいいと思うことはみんないいと思ってる?オレ様化した子ども達、その原因は?「幼児期の全能感」をなくせ。学校の本来の目的ってなんだろう。オレ様化しないためにはどうすればいいんだろう、と考えさせられる本。

  • 2009年7月
    特別活動論 レポ用

  • p64『学校は成績評価、人物評価、規律や規範を提示することによって、子ども(生徒)たちに近代的な個人(市民)の「客観値」を示し、自己との距離を測らせようとする。距離が測れるようになるということは、(私そのもの)へのこだわりを少なくして、世の中に通用する大人になることだと表現してもいい。』
    p68『勿論、10年前の学園闘争のときにも教師にその意味はわからなかった。しかし、何を主張(要求)しているかはわかった。当時は、まだ、教師と生徒は同じ文化性、コード、時代感覚にある、言葉は通じていたからである。』
    p87『頭と身体が「商品交換」(人と人とは対等なやりとりをしなくてははならない)を求めている。いや、そう生きなければならないと「消費社会的」社会の倫理に脅迫されている。自分以外の誰かに判断を委ねたりしてはいけない。全て自分で決めなければいけないのである。だから、「共同体的な子ども」と違い、教師の話を一歩退いて聞こうとしていない。つまり、学ぼうとしていない。』
    p98『子ども・若者たちは共同体による保護がなくなり、いつも自立(孤立)し「個」として「等価交換」に脅迫されているように見える。…「新しい学力観」にあるように、子ども(買い手)の望むものを、望むレベルとスピードで与えようとする「等価交換」の発想は、市民社会性に基づいて共同体的な教育を否定しようとしている点では進んでいるように見えるが、子どもの育つリアリティや現実に即していない。教育の必要性はまず子どものほうよりも、子どもを抱え込もうとする社会のほうにある。普通教育の前半において社会が必要とするものを、必要とするやり方で子どもたちに提示することに怯む必要は全くない。勿論、そうすることの痛みは感じなければならないが、そのことによって当座はあまり勉強をしたくない子どもも救っていけるのである。』
    p115『太陽系の運行について教えられていながらあえて実感にこだわることや、生命体の死の復元可能性を信じることは、近代の「知」への離反ないしは違和を表していよう。近代社会と近代社会に生きる「個」の確かさが子どもたちに疑われてきている。学校教育を受けた近代的個人(市民、国民)とは、自分の目に見えないもの(こと)や、自分にわからないもの(こと)にも価値があることを知っているもののことである。もちろん、ひとりの「知」や検分で世界の全てを確かめることはとうていできないから、ほかの人たちの意見や認識や見聞を信じるということである。つまり、近代的な個人にとって必要なことは、何より「近代(社会)」というものを信じていることであり、近代社会に生きることが自己の実現につながると確信することであろう。』
    p160『いずれにしても近代の世代は、全ての人との相互行為において「等価交換」を求めようとするから、相手に対しティ津用意上に厳しくなってしまう。・・・・・・みんな無限の「贈与」である『愛」から非常に隔たっている。この出来事は、そういう私たちの危機的な事態の一つの現れのように私には思える。』
    p184文科省がこの十年ぐらい言ってきた「自分探し」
    『私は、自分で自分を探しても自分は見つからなかろうと思う。本当の完璧な自分がどこかにあると設定されているからである。いつでも不満でもの足りない自分を発見して、さらに内部へ内部へと入り込もうとするのではなかろうか(オウムの若者たちのように)。自分は今の自分から「選んで」、自ら「つくり上げよう」とするものであり、自ら選んでつくり挙げたことの責任を取ろうとする営みの中で、ある程度確定されてくるものであろう。ある断念なしに自己とは出会えない。』
    p189『幼児的全能感』が『社会(「外部」)』から『叩かれないと、「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が育たず、「オレ様化」する可能性がある』『子どもが社会性を身に付けるということは、自己の「全能感」を挫折させることにほかならない。』『おとなとしての資格のひとつは、「全能感」を抑制できることであろう。そして、「全能感」がうまく志向性を持ち社会化されたものが「好奇心」であるとも考えられるのである。だから、「全能感」ではなく「好奇心」を持つとは、すでにその「個」がかなり「社会化」された人になっているということである。』

  • 子どもたちの変貌を教育の面からアプローチしています

    第二部では著名な人がそれぞれ語っているけど、

    少子化や時代の豊かさから子どものこと大切にしたいって思いが

    裏目にでてこの結果になっちゃったのかな

    どうしようもないなぁ

  • 前半中々おもしろかった&興味深かったのですが
    後半の色んな人(村上龍とか)の論文&著書等々を引用し、批判していくくだりは
    読んでて若干しつこかったです。
    でも「子供」自体を批評する本ってあまりないので
    教育論的な事を語る本の中では好きです。

  • この中に書かれている、オレ様化現象が現実だとすれば、
    全てを学校の責任だと押し付け、解決法を追求するには無理があるのだろうと思った。
    子ども達全般に、このような風潮が広まっているのは、いったい何が原因なのだろうか。
    教える側と教えられる側は、誰が何と言おうと上下の関係でよいのではないのか。
    今は、先生が注意する事も躊躇し、まずは“アイ・シンク”、私はこのように思うのだが、どうなのかな?などという、まどろっこしい言い方しかできなくなっているそうだ。
    子ども達は子ども達で、自分だけの意見であろうことを自己主張するというのではなく、
    自分が思うことはみんなも思っているに違いない。または、思うべきである。そう、考える子どもが多くなっているとの事。
    何か悪い事をして、その場を押さえて注意しても、“やっていない”の一点張り。
    そのような中で、教育していく教師達は、どれだけの苦労を強いられているのだろうか。
    親と生徒の板ばさみで、精神的にもダメージを受けている教師が増えているというが、これでは、仕方がないと気の毒に思う。

  • 購入日不明。1日で読了。
    ベテラン教師による教育論ということで、そこいらの学者とは違う視点で書かれた本なのだなと期待していたのだけれど、裏切られた感がある。本書は、著書が見てきた生徒、有識者への反駁、結論という3部構成なのだが、まず第1部。昔は良かったという感じの単なる回顧主義めいた文に終始している気がする。まあ団塊親父の酒の肴にはなるかもしれないけど。第2部は粘着質すぎ。どうせなら対談形式にして欲しかった。一方的な批判派やはりずるい。そして最後。現場教師ならではの示唆に富む提案が来るか、と期待したのだがそうはいかず。「個性」よりも「社会市民」としての常識や考え方を教え込むべきっていうのが著者の主張なんだろうけれど、そういう理論は学者に言わせておけばいいんじゃないだろうか。もっと現実的で建設的な提案がなされると思ったんだけれどな。斜め読みで良かった。

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著者プロフィール

1941年千葉県生まれ。東京教育大学文学部卒業。埼玉県立川越女子高校教諭を2001年に定年退職。「プロ教師の会」名誉会長。作家。著書に『オレ様化する子どもたち』『いじめ論の大罪』『尊敬されない教師』など。

「2020年 『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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