- Amazon.co.jp ・本 (611ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150116934
作品紹介・あらすじ
自閉症が治療可能になった近未来。自閉症者最後の世代であるルウは、製薬会社の仕事とフェンシングの趣味をもち、困難はありつつも自分なりに充実した日々を送っていた…ある日上司から、新しい治療法の実験台になることを迫られるまでは。"光の前にはいつも闇がある。だから暗闇のほうが光よりも速く進むはず"そう問いかける自閉症者ルウのこまやかな感性で語られる、感動の"21世紀版『アルジャーノンに花束を』"。ネビュラ賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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自閉症であるルウは症状と付き合いつつ、仕事に趣味と自分なりに充実した日々を過ごしていた。しかしある日ルウは、彼の職場の上司から、自閉症治療の実験台になることを要求される。
語り手となるのは自閉症患者のルウ。この語りが非常に繊細です。普段自分たちが会話している中では考えもしていないようなことがルウの語りでは描かれます。そこには自閉症というテーマとしっかりと向き合った著者の努力が表れていると思います。
そしてフェンシング場での人間関係や社内政治、ルウに対する何者かからの嫌がらせなど、そうした出来事を通し、ルウは自閉症の自分と”ノーマル”の人たちの違いは何なのか。
また治療を受け自閉症でなくなった自分は、それは本当の自分なのか、という自らのアイデンティティの問題と向かい合うことになっていきます。
異常と正常の境目ほど分かりにくいものはないと思います。状況や時代によっては普通の人が異常者や犯罪者扱いされたり、またその逆もありました。
現代も現代でなんとなく社会が思う異常と正常の境目はあると思うのですが、それも曖昧模糊としたもの。そのあいまいさをルウは自分が自閉症の”異常者”と自覚したうえで、素直な疑問として読者に問いかけてきます。
それはルウの視点だから視える世界なのでしょう。彼の問いかけは一読の価値があると思います。
終盤はルウが治療を受けるかどうかの決断に話がうつっていきます。彼の決断の是非、それによって手に入れたもの、失ったもののどちらに価値があったのか。
この話の結末は読む人によってそれぞれ意見が分かれそうな、とても微妙なものだったと思います。治療を受け”ノーマル”になり新たな可能性を見つけるという決断も、自閉症の自分も自分であると受け入れ生き続けることもどちらの決断も人として間違っていない決断だからだと思うからです。
21世紀版『アルジャーノンに花束を』と評されている
作品ですが、二つの共通点はあらすじうんぬんより”ノーマル”でない視点から改めて「人間とは」「自分とは」という問いかけがされてくるという点だと思います。
そしてルウが『アルジャーノン』の主人公チャーリィと異なっているのは、チャーリーは物語の展開上自分で決断ができなかったことを、ルウは自分の決断で自らの最後の道を選びとったことだと思います。
物語はテンポは非常にゆっくりであくまでルウの日常描写が中心です。でもその日常描写があったからこそ見えてくる”ノーマル”の人間の姿、アイデンティティの問題、そして彼の最後の決断と彼を取り巻く様々な人たちの意見や思いが伝わってきます。
そしてそれぞれの描写がルウが最後の決断を下したとき非常に意味のあるものだったのだと気づかされます。
ルウの問いかけ、そして最後の決断は”ノーマル”である自分にもいろんなことを考えさせてくれました。
ネビュラ賞詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
進駸堂書店×早川書房コラボカバー作品。
自閉症者枠で高度な仕事についているルゥが新たな治療の被験者となることを選ぶまでの彼の世界があまりにも豊かで瑞々しく、深く、そして美しすぎて、ずっとその世界にいて欲しいと思ってしまう。けどそれはあくまで部外者の気持ち。
ノーマルなルゥとして新しい人生を歩き始めた彼の、その人生は「元ルゥ」の人生よりも先にある暗闇だったのか、あるいは逆か。
「自閉症」という病気だから読者の気持ちは大きくぶれる。別の病気だったらだれもが生まれ変わった彼を祝福するだろう。
本当は、どっちが幸せなのか。それは誰が決めるのか。 -
21世紀版『アルジャーノンに花束を』なんて嘘である。
作者の狙いは自閉症者の視点から人間社会を描くことのようだからである。
近未来、自閉症が幼少期の治療により治癒する時代。ルーはその治療の恩恵に浴せなかった世代で、コミュニケーション技術のトレーニングにより、社会参加はできているものの、「正常者」とのコミュニケーションに困難を抱えている。会社の上司が替わり、自閉症の障害を改善する実験的な治療を強要されそうになる。というのがストーリーだが、ルーを取り巻く人間たちがルーの一人称で語られるのが本書の味わい。
自閉症者は言葉に騙されない。字義的にしか捉えられない傾向があるため、正常者たちの用いる常套的なレトリックが理解できない。ルーの受けたトレーニングは、レトリックをルーが対処可能なようにいわば翻訳して受け止めることである。ルーの目を通したとき、いかにわれわれが虚飾に紛れた世界で嘘をつきながら生きているのかが突き付けられる。正常者からしたら、自閉症者はコミュニケーションの機微がわからない困った人たちなのだが、彼らの視点からみたとき、彼らほど純粋で高潔な人々はないと思えてくる。本書を読んでいる間、私は自閉症になる。自閉症でいて幸せである。私は自閉症のように感じ、自閉症のように考え、自閉症のように愛する。
話はルーの日常生活の些事である。そこからするとこれはSFではない。しかし、異星人や未来人の目から現代の社会を異化しつつ描くというSFの伝統に乗っているともいえる。「くらやみの速さ」とは作者の自閉症の息子が実際に言った言葉らしい。光に速さがあるなら、その光が到達する前にある闇は光よりも速いのではないか。いかにも自閉症的な紋切り型の思考なのだけれど、そこからルーをめぐる光と闇に思いがめぐらされるとき、この言葉は詩情をもって立ち現れる。
自閉症でいて幸せなルーがこの実験的治療を受けようと思う心理的過程にも、治療後の顛末にも暗闇の速さが関係しているのだ。 -
自閉症が胎児または幼少期のうちに治療が可能となった近未来、主人公ルウの世代はその端境期で、ルウ世代より若い自閉症患者は存在しない。特異な計算能力を活かして製薬会社の自閉症患者だけのセクションに務め、趣味のフェンシングに精を出し、両思いではないものの淡い恋愛を楽しむルウ。ある日彼の会社が成人の自閉症患者の治療方が見つかったから受けて欲しいと彼らに頼む、というか脅す。そこから彼らは変わる。手術のメリットうんぬんというよりかは自分とは何かという問い。同一性、感覚の統合、「こだわり」の正常な範囲とは?手術を選ぶ前から彼らは変化してしまう。それは会社からの圧力とかそういう問題ではない。何かを知るというのは否応無く変わるということだ。
ルウは確かにノーマルとは違う、違うことは自覚があり、ノーマルは万能だという勘違いを抱いていた節もある。しかしある日ノーマルの友達がルウに嫉妬し、ルウの車を破壊し、ルウに銃口を向け、逮捕される。彼は脳にチップを埋め、他者に対する凶暴性を取り除くという更生処置を受けることになる。彼はノーマルだけれども「異常」だからチップを埋められ、彼ではなくなる。
チップを埋められる前の彼と埋められた後の彼。同一性はいかに?
ありのままで生きるのは難しい。それは社会のせいだろうか。そうとも言い切れない。ルウは社会に歪められたからありのままを捨てたわけではない。「知った」から変わった。ルウはありのままでも素晴らしい。けれどありのままを強要してはならない。自分が想定する自分を維持する1番のさまたげは自分自身だ。ルウの未来は明るかった。でも闇の中に落とされた人もいた。 -
自閉症が初期で治療可能となった近未来。最後の自閉症世代にも治療の可能性がでてきた。自身の特性を活かして働いていた青年達は実験に参加するかどうかの選択に迫られる。
治療の選択までにたっぷりと描かれる主人公の生活の中で特性と人格の関係がフォーカスされる。確かに主人公の視点は光の速さがあるのなら暗闇にも速さがあるはずだという視点と重なるように思える。
読み応えはあった。 -
自閉症者の自我、というか、感性というか、自意識というか、とにかく彼らがどのように感じ、人と関わっているのか、それは知る由もないのだが、本書を読む限り、健常者になるよりも今のままでいても充分幸せだったんじゃないかと感じさせる。
果たして、どちらのルウが本当に幸せなんだろう? -
すごい本。すごい物語。さすがのネビュラ賞受賞作ってことか。
ただ、帯に書いてある"21世紀版『アルジャーノンに花束を』"は違うと思う。
アルジャーノンも素晴らしい作品だけど、本書とはtasteが違ってるんじゃないかな。
まず、なんと言っても、『ルウ』の造型が素晴らしい。
この人物像を、ここまで精緻に描きあげたことを心から賞讃したい。
一人称で語らせることで、その思考や感情が、読み手の心へとstraightに流れ込んでくる。
本来、読者とは異なる世界で生きているはずの、自閉症である『ルウ』が、読み進めていくうちに、とても身近な、あくまでもただ一人の『人間』なんだという、確固たる存在感を持って立ち上がってくるのが分かる。
そしてその、極めて繊細で、静謐で、整った、自分達が生活してきた世界とは明らかに異なった、あまりにも純粋な世界が放つ、魅惑的なその風景。
本書は、幾ら語っても語り尽くせないほどの輝きに満ちていると感じる。
そして、大野万紀氏の解説を読んで、初めて気付いてかなり驚いたのだけど、本書の訳者は『アルジャーノンに花束を』の訳者でもある小尾美佐氏。
翻訳ものは、どうしたって訳者の力量に左右されてしまう。本書が小尾氏によって訳されているということは、本書の魅力が何倍にも増幅されているということに他ならない。本書にとって、そしてもちろん読者にとって、これはとても幸せな事だったと思う。
自閉症者の日常を、自閉症者の視点から描くこと。それを、魅力的な物語として成立させること。
本書は、その困難な試みを見事に成功させた作品だと感じた。
読みながら、『健常さ』というものについて、改めて考え込んでしまった。何をもって『健常』と判断するのか。
例えば、容姿の美醜は『健全さ』で判断出来るのか?とか。もしそれが適当ではないのなら、精神的な障害と呼ばれているものだって、一緒なのではないか?とか。
『普通ではない』の『普通』という線は、どこに、何故引かれなければならないのか?とか。
なんにせよ、とにかく「すごい」作品であることは間違いない。素晴らしかった。 -
自閉症者が健常者とのコミュニケーションで感じるちょっとした違和感や、自閉症治療前後の自己の同一性に対する疑問などがうまく描かれており、とても興味深かった。