暇と退屈の倫理学

著者 :
  • 朝日出版社
4.20
  • (325)
  • (236)
  • (126)
  • (24)
  • (3)
本棚登録 : 3055
感想 : 315
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • とかく難解になりがちな哲学の話を出来るだけ読者に分かってもらおうという著者の真摯な態度が出ている一冊。

    <blockquote>「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ」</blockquote>

    かつて人類が定住を始めたとき、それまでフル活用していた能力が行き場をなくし、暇が生じた。
    暇が出来た時、人は興奮を覚えない。
    退屈とは興奮していない状態である。

    そして退屈に抗うため仕事、学業、工業や政治経済や宗教、芸能・・・といった「気晴らし」を行う。

    この件はスチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」を想起した。

  • ハイデッカーやルソーなどの蒼々たる偉人たちの言説をベースに時には一刀両断にしながら退屈とは何かを解き明かしていく。こういう論じ方はとても好感が持てる。しっかりした論拠と緻密な論理で、しかも大家と呼ばれる人の矛盾を突く爽快さもおまけにつく。じっくり読まずにいられれない好著と思う。

  • 暇と退屈の倫理学

  • たまたま時間と哲学に関する本が続いた。ちょっといろいろ散らかってはいるが面白い。特に環世界の部分が興味深い。

    [more]<blockquote>P28 近代は様々な価値観を相対化してきた。これまで信じられて来たこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑いうる、と。その果てにどうなったか?近代はこれまでに信じられてきた価値に代わって『生命ほど尊いものはない』という原理しか提出できなかった。【中略】それはあまりに『正しい』が故に誰も反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない、人を突き動かさない。【中略】だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。

    P40 そんなふうにして『欲望の原因』と『欲望の対象』の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ、もっともおろかな者だ。パスカルはこう言っているのだ。


    P43  退屈する人間は苦しみや負荷を求める。【中略】パスカルのいう惨めな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしを求めてしまう人間とは、苦しみを求める人間のことに他ならない。

    P136  かつてオフィスオートメーションが現れた時には、機械が人間の雇用をう場うと恐れられた。しかしそれは杞憂に終わった。今は人間が機械の代わりをしている。このポスト・フォーディズム(フォーディズム:フォードの、高賃金によって労働者のインセンティブを確保するモデル・質の高い製品を安い価格で提供し続ければ、同一の製品を売り続けることができるというモデル)の時代にあっては『新しい階級』の提言など戯言でしかない。

    P144 必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。必要を超えた支出があって人は豊かさを感じられるのだ。

    P147  浪費と消費の違いは明確である。【中略】「個性」は決して完成しない。つまり、消費によって『個性』を追い求めるとき、人が満足に到達することがない。【中略】消費は常に『失敗』するように仕向けられている。

    P153 余暇はもはや「オレは好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

    P165 『本来的なもの』は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが『本来的なもの』と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその『本来的』な強制されることになる。それだけではない。「本来的なもの」が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。

    P167 問題は疎外の概念にあるのでは内。疎外状況に対する処方箋として、後から本来性の概念が提示されてしまうことにあるのだ。疎外された者に対し、そのものの『本来の姿』を提示してしまう、この救済策のほうに問題があるのだ。

    P175  自己愛は自分を守ろうとする気持ちであり、自己保存への衝動と言い換えることができる。【中略】それに対し利己愛とは、他人と自分との比較に基づいて、自己を他人よりも高い位置に置こうとする感情である。劣位にある自分を憎み、優位にある他者を羨む、そうした感情である。

    P188 欠乏と外的有用性によって決定されるような労働が止むときに、自由の王国が始まる−「欠乏』によって決定されるとは、生存ギリギリの生活をしているから、仕方なく、ひどい労働条件で働くと言うことだろう。『外的有用性』によって決定されるとは、外的に、例えば現在の産業化社会にとって有用とみなされたものしか、まともな労働とはみなされない、そういう事態を指しているのだろう。(労働そのものを廃棄するべきという解釈は誤り)

    P192 朝に狩猟を、昼に魚捕りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、決して猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。

    P265 18分の1秒以内で起こることは人間には感覚できない。したがって、人間にとって18分の1秒とは、それ以上分割できない最小の時間の器である。人間にとっては18分の1秒の間に起こる出来事は存在しない。
    【中略】ベタという魚は30分の1秒、カタツムリは3分の1秒

    P283 なぜ盲導犬を訓練によって一人前に仕立て上げることはこれほど難しいのか?それは、その犬が生きる感世界の中に、犬の利益になるシグナルではなくて、盲人の利益になるシグナルを組み込まなければならないからである。要するに、その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならないのだ。【中略】環世界論から見出される人間と動物との差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて高い環世界間移動能力を持っているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。

    P296 決断せざるを得ないのではなくて、決断したいと願う人間が必ず現れる。その人間はどうふるまうだろうか?おそらく、これからの行動の根拠や指針を与えてくれる物や人を故意に遠ざけるだろう。

    P298 キルケゴールという哲学者は「決断の瞬間とは一つの狂気である」と言っている。【中略】周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは、決断という『狂気』の奴隷になることに他ならない。【中略】決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。

    P326 人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。『考えよう!』という気持ちが高まってモノを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。

    P347 人間であるとは、概ね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きることであった。【中略】だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずのものを記号や観念にこっそりとすり替えたのである。</blockquote>

  • 着眼点、議論の出発点が非常に面白かった。結論としては、まあそうかという感じであるが(著者も指摘している)、それに至るまでの議論は、今まで考えたことがなかった視点が多数あった。特に環世界の概念は、いままで漠然と自分自身が感じていたことを明確に示す概念だった。

    ちなみに著者は同い年。そういう意味でも刺激的な一冊。

  • これも再読。おそらく大学生の時に初読だったのだと思うが、あの頃と比べてあまりの切実さで迫ってくる本だった。

  • 18年3月頃?拾い読み。非常に平易な生きる目的の指南。エッセンスは3点。①目的合理性の放棄。パスカル思考を止め人生は暇つぶしとの割り切りをするべきだ。②空虚な体験を楽しむための視点の多様化・深化。面白がるだけの教養があれば物事は面白く見える。③自己目的化。体験へののめり込み、没頭。視野の開拓は②につながる。
    本書の考え方は私自身にはマッチしているかつ実践している内容である。しかし他人への適用において、本書の記号消費への批判は本書で述べている「のめり込み」の奨励と矛盾しないか。なぜ記号消費への没頭で満足しないと想定しているのか。本書で述べる態度で満足した人生を送れるというのは、思索好きのインテリの視点に偏っていないか。おそらく本書での教養の習得は多くの人にとって魅力的でないか、ハードルが高い。酒・ギャンブル、その他依存性のある活動か、宗教のほうが「のめり込み」としてはずっとたやすい

  • 暇で、退屈。
    誰でも、一度や二度は、そんなことを感じたり、考えたりした経験があるのではないでしょうか?

    『暇と退屈の倫理学 人間らしい生活とは何か?』(國分功一郎・著、朝日出版社)は、
    「暇」と「退屈」について、哲学を用いて、解説を試みた本です。

    まず、「暇」と「退屈」という二つの言葉は、しばしば混同して使われるが、同じものではないということ。
    「暇」とは、何もすることがない、する必要がない時間を指している。つまり、暇は、客観的な条件に関わっている。これに対し、「退屈」とは、何かをしたいのにできないという、感情や気分を指している。それは人の在り方や、感じ方に関わっており、主観的な状態を示している。こんなふうに暇と退屈を定義したうえで、さまざまな角度から考察しています。

    哲学者の著書や指摘を紹介しながら、
    一つの場所に住む=定住することや、経済の発展と仕事の仕方、消費行動が、暇や退屈に関係していることを、分かりやすく、解説しています。

    「暇」や「退屈」って、自分自身に原因があるように思いがちですが、実は、これまでの歴史や、社会の経済の仕組みのなかで、生み出されたものなんだなと思えてきます。

    そもそも、「暇だなぁ」と感じた時、「こんなに暇なんて、私って幸せ」と捉えられたら、「退屈」にはなりません。

    「暇」な時には、「何かしないといけない」という意識が頭に埋め込まれていて、
    「退屈」とつながり、何かを探し求めて、行動するように促されている。
    そんなふうに捉えてみると、「その退屈って、本当に問題か?」と疑わしくなってきます。
    「退屈」というけれど、なぜ、「退屈」だと思うの?
    自分が何をしたら、どういう状態になったら、「退屈」が無くなるの?
    自分がしたい「何か」が見つからないなら、あえて、何もしなくていいじゃないの?

    自分のなかにある「暇」や「退屈」をいったん整理して、冷静に眺めてみると、
    自分の生き方や価値観が、さまざまなことに影響を受けていることが分かります。
    そのうえで、どう生きるか。ということを、考えるための一冊です。

  •  論理的な展開ながら、最後まで読了できたこと、著者の適切、丁寧、親切な文章のおかげです。哲学書の難解そうな語の優しい言い回しに助けられました。今考えていることに役立ちそうな、いろいろな概念を教えられ感謝しています。「定住革命」、「浪費」、「環世界」等々。終わりに、倫理学らしく纏められているのは、参考として面白いです。ハイデガーの「決断」など、心理的に囚われていたのが、解放された気分がとても良かった。

  • <閲覧スタッフより>

    --------------------------------------
    所在記号:104||コク
    資料番号:20099223
    --------------------------------------

全315件中 61 - 70件を表示

著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

國分功一郎の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×