- Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
- / ISBN・EAN: 9784255006130
感想・レビュー・書評
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役にたつからでなく、「楽しむ」ために、いろんな場所や人、ものに触れて行きたいなと思った。
あとは、こういうなんとはない一種のけだるさを伴った思考が強制されていない状態も肯定すること、思考が強制される状態ばかりでも、まいってしまうと思う。
ふらーっと退屈の気晴らしに朦朧とした意識で出かけて行く、そして楽しむ、その中で不意打ちをくらう、そんな感じで良い。
あんまりだーーーーーって感じを基準におかないこと、退屈がまず前提。退屈から逃れるために意志の奴隷になっても何も解決しない。
ぼやっとした毎日、それも肯定する。
以下引用
決断という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし実際にはそこに現われるのは、英雄的有り様からほど遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない
彼は決断(例えば資格勉強)によって「何となく退屈だ」の声から逃げることができた。だから彼はいま快適である。やることは決まってゐて、ただひたすらそれを実行すればいい
しかし、ひとたび習慣を獲得しても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。
環世界論の考え方から言えば、習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換すること
退屈しつつも、様々な気晴らしを恒常的に自らに与える。今日は映画に行き、明日はパーティーにいく。食事が出され、音楽、葉巻。退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある。これが人間らしい生
しかしこの人間らしい生がくずれることがある。何等かの衝撃によって己の環世界が破壊された人間は、そこから思考し始める。環世界に不法侵入してきた何らかの対象がその人間を掴み、放さない。人はその対象にとりさらわれ、思考することしかできなくなる
ある特定のものが言うことを聴いてくれないが故に、人は退屈し、空虚のなかに放置された。しかし、ハイデガー自身が言っていたように、あの田舎駅の周りは空虚ではないのだ。駅舎も街道も、街路樹もある。そこにはそれまで自分が生きてきた環世界に不法侵入するものが存在している
人がものを考えざるをえないのは、そうして作りあげてきた環世界に変化がおこったとき。習慣の変更を迫られる
あの場でハイデガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。
人間はおおむね気晴らしと退屈の混じりあいを生きている。だから退屈に落ち込まぬように、気晴らしに向かう詩、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目を向け、気晴らしの向かう先にあった物を記号や観念にこっそりすり替えた
人間は気晴らしという楽しみを創造する知恵を持っている。ところが消費社会は気晴らしをすればするほど、退屈が増すという構造を作り出した
人間はひとつの環世界にひたっていることができず、容易に退屈してしまう
ならばどうすればよいか?より強いとりさらわれの対象を受け取れるようになるしかない、習慣化によってすぐさま対応できる不法侵入ではない何かにとりさらわれるようになるしかない
人間はおおむね退屈の第二形式を生きている。人間らしい生活とは、そのなかで退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる、そういった生活。そこには安定と均整がある。つまり余裕がある
決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け入れない。しかし退屈を時折感じつつも、物を享受する生活の中では、そうしたものを受け取る余裕を持つ
楽しむことは思考することにつながる。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。
思考は強制されるものだと述べたドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館にいったりするのか」→私は待ち構えているのだ
自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている (退屈の中で)
自分にとってないがとりさらわれの対象であるかは分からない。そして思考したくない以上、そうした対象を本人が斥けている可能性もある
世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができる詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
まずはここまでを書き上げた著者に拍手を送りたい。文体は砕けていて学術書というには私見が多い気がするが、それはあとがきにもあったように、読者に伝わることを意識してのこと。そして専門家でもない僕が、この一冊をもって感動をえていることがその成功だろう。
退屈を哲学する、とはまたチャレンジである。僕たちの生活とか人生の中では躍動が主役だと思い込み、退屈は無駄である。無駄を哲学しても答えが出るのだろうか。何かしら言葉にすることができても自分にとって、また隣人にとって意味があるのかと思えば二の足を踏む。ただやはりこうして取り上げられ哲学されて初めて、それは大変な問題であることに気づく。僕たちは退屈に悩んでいるんだ。
これは現代社会のコンテクストにおいてより深刻な退屈が表出しているからこそ哲学に値するものになったのだろう。その意味ではスピノザやラッセル、ハイデガーが退屈をそれぞれの仕方で哲学していたことに驚く。多くの人には理解されなかったであろうから。
それにしてもこの著の哲学的考察の豊かさが心地よい。はっきり言うと、著者の國分と僕自身の倫理や政治的信条は違う。それ故に彼の私見の中には承服しがたい部分も少なくはない。そうだとしても、この著の知的誠実さはやはり心地よい。
人間であることは退屈と向き合うことである。複雑な環世界を個別に持った人間であり、その環世界をかなりフレキシブルな仕方で移動できる人間であるからこそ、物事にとらわれることが難しい。それは自由であることの代償としての退屈である。その退屈とどう向き合うか。本書での結論は、<人間であること>を楽しみ、<動物になること>を待ち構えることであるとする。答えは平凡である。しかし、そこまでの論理展開が私たちに退屈と真正面から向かい合わせてくれる。これでいい。
久しぶりにそれなりに、濃密な思考時間を持つことができた。良書と出会えたことに感謝。そして次の書にも期待。
17.8.10 -
★理解する過程を知る。~スピノザ「反省的認識」
★贅沢を楽しむ。そして楽しむことを訓練する。
楽しむことは容易ではない。努力や鍛錬が必要。(だからサービス産業はそこに付け込む)
※私達は美味しいと巷やテレビで言われているものを、美味しいと言うためだけに口を動かしていないだろうか…?
退屈しのぎから芸術や文化は生まれた。
だからそれらは決して無駄なモノではないし、それらをないがしろにする功利主義者を信用してはいけない。
人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時にパンだけでなくバラも求めよう。人の生活はバラで飾られなければならない。人の生活がバラで飾られるようになれば、人間生活も産業構造も少しづつ変化していくだろう。暇と退屈の倫理学は革命を目指してはいない。だが社会総体の変革を目指している。~著者
<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。~著者 -
退屈とはどういうことなのか,様々な面から迫る.
「定住革命」「疎外」「環世界」など,(退屈と一見関わりのなさそうな)興味深い要素をわかりやすい言葉で説明してくれ,それらの説明だけでも楽しめた.
退屈に対しての考え方を広げることこそが,退屈をどうにかするために必要なことだと感じられた. -
登録番号:24
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仕事に追われることや,自分探しにやっきになること,私たちは何を求めているのか,日常生活で,なかなか立ち止まって考えることができないテーマを,わかりやすく,丁寧に訴えています。
「暇と退屈は違う」ということ,後半の,人間や,他の生物の環世界の考え方などは,目からうろこでした。
2015年に読んだのですが,その年でおそらく一番,感動しました。人間の気持ちにこんな影響を与えられるなんて,哲学者ってすばらしいですね。 -
まだ完全に咀嚼できていないが、結論はともかく、登場する疑問は共感できるものが多かったので、星4。